第16話 誤算
「毅山、お前に筆勝負を挑ませてもらおう」
父・範村の声が、毅山の脳裏で今も繰り返されていた。
あの日、毅山はそれなりの覚悟でもって帰宅したはずだった。
が、病に倒れた範村のやつれた姿、語られる過去、そして知りたくもなかった真実を知って、毅山の心は激しく揺れ動いてしまった。
そんな毅山の様子を見て、範村は勝負を一週間後と定める。
もし毅山を倒すだけが目的なら、剛厳のようにそのまま無理矢理にでも筆勝負へ持ち込んだはずだ。
だが、そうはしなかったところに、毅山は父の言った「自分と戦わせるためだけに毅山を育て上げた」との言葉の真実味をまざまざと見せつけられた気がした。
「毅山君、おじさまと竹下先生が戦ったお寺が分かったよっ!」
父・範村との筆勝負にどのような精神状態で臨めばいいのか悩む毅山のもとへ、
剛厳との死闘の後、毅山は流に竹下巌のことを調べるよう頼んでいた。
範村と巌の筆勝負の記録はさすがに残ってはいまい。が、巌がどこの寺の宿坊で倒れたのかが分かれば、おそらくはそこが筆勝負の舞台となったはずである。寺の誰かが当時のことを覚えているかもしれないと踏んだのだ。
「で、和尚さんに電話で当時のことを尋ねてみたら、実際にその場に立ち会ったらしくて、毅山君に直接会って話してみたいって言うんだよ!」
毅山の読みは見事当たった。
かくして毅山は範村との勝負を5日後に控えた今、父が狂ってしまった当時のことを知るべく再び旅立つのであった。
「よくぞお越しくださいました。私はこの
その寺はのんびりとした農村の一角にあった。
季節は六月上旬。苗床から移し替えられたばかりの幼い稲が、水田から小さく顔を出している。近くの山から流れてくる小川はとても澄んでいて、小さな魚が泳いでいるのが見えた。
典型的な古き良き日本の田舎である。聞けば竹下巌も死後はここの墓地に埋葬されたそうだが、その気持ちも分かるぐらい穏やかな時間が流れていた。
「お話は電話のお嬢さんから聞いております。そのうえで私はあなたに謝らなくてはなりません」
「え? 一体何が?」
「私があなたの父・花川範村さんと、竹下さんを戦わせてしまったのです」
戦わせてしまった? 一体どういう意味だろうか?
父・範村は病に倒れた竹下巌と戦える機会がもはや今回限りと知り、筆勝負を申し込んだと言った。それは剛厳の話とも一致している。このふたりの勝負が誰かの手によるものだなんて話は初耳だ。
詳しく聞くべく体を乗り出す毅山に、海空は最初からお話しましょうと静かに口を開いた。
竹下親子がこの寺を訪れたのは、大雪が降った真冬の夜だった。
幼い剛厳をおんぶしつつも、まるで棒切れのように痩せ細った巌の体と顔色を見て、海空は温かい食事と寝床を慌てて用意した。巌が病、おそらくは癌に侵されているのは、住職として多くの仏を見てきた海空にはすぐに分かったそうだ。
「これも何かのお導き。私は親子に安住の地を提供することにしました」
海空は親子に宿坊の一室をあてがった。食事も、寺なので粗末なものではあるが、三食用意した。ただし、金銭は一切要求しなかった。
「そんなある日、たまたま体調が良かった巌さんが宿泊代の代わりとして
この場合の扁額とは、その寺の名前が書かれた額のことである。当時、巖興寺に扁額は掲げられていなかった。それを見ての提案だったのだろう。
「私は戸惑いました。巌さんが有名な書道家であることも知りませんでしたし、何よりその頃のこの寺は「がんきょうじ」という名前は伝わっていても、実はどのような漢字を充てるのか誰も知らなかったからです」
だから扁額もないのだと海空は正直に話した。すると巌はしばし考えた後、『巖興寺』と一筆書き上げたという。
「恥ずかしながら書道はよく分かりません。でも、その字が素晴らしい技術力で書かれているのはなんとなく分かりました。ただ、そんな素人の私が言うのもあれなのですが、巌さんの書はやや厳しすぎた」
海空は「がんきょうじ」を愛していた。また、村人にもこれらかもずっと愛してほしいと願っていた。
そのような海空の願いからは、巌の書風はやや外れていたのである。
それにもうひとつ、海空には気になることもあって、どうにも竹下の書に戸惑いを覚えたのであった。
「とはいえ、病魔に侵された身で書いてくださったものを無碍にすることなどどうしてできましょうか。私はお礼を言って、これを扁額にして飾りましょうと約束しました」
扁額にするには文字を木に写し取って彫る必要がある。
ある日、街へ出た海空は巌の書いた紙を持って職人のもとへ訪れた。
「そこで私は巌さんが有名な書道家であることを知りました。職人さんが教えてくれたのです。そして巌さんの状況を伝えると、おそらくは職人さんが知らせたのでしょう。翌日から多くの書道家たちが彼を訪れるようになりました」
多くの仲間の応援により、巌の体調は少し持ち直したという。
だが、それでもいつか必ず終わりは来る。
それを悟ってか、梅の花が咲き始める頃、巌は自分の過去を海空へ語った。
「巌さんの書く字がどうして厳しいのか、その理由がよく分かりました。あの人はまさに書道の為に生き、書道の為に死んでいった人なのですね」
ただ、その巌が唯一見せた弱さがあった。
それが花川範村である。
真剣勝負がしたくて流れ筆の世界に自ら堕ちた竹下巌。が、それでも生涯のライバルと呼べるのは、大日本書道倶楽部で鎬を削った花川範村しかいなかったと言うのである。
「巌さんは範村さんに最期にもう一度会いたい様子でした。が、いくら待っても範村さんが訪れる気配はない。私の見たところ、巌さんの命はあとわずか。私はどうしても範村さんに彼のことを伝え、巌さんの最期の願いを叶えてあげたかった」
「……だから親父に手紙を出した」
「はい。それがまさかあんなことになるとは思ってもいませんでした」
手紙を出した数日後、ついに範村が巖興寺を訪れた。
さぞ巌が喜ぶだろうと海空は範村を彼の部屋へ通したが、どうしたことかふたりはただ黙って座り、お互いを見つめあうだけで何も語らない。
ただ、気が付けばシャカシャカと音がしていて、何事かと見ると、ふたりとも正座したまま硯で墨を摩っているではないか!
「どうしてこんな時に墨を摩っているのか、私には二人がいったい何をしているのか分かりませんでした。が、巌さんが『やるか?』と発したかと思うと、範村さんも『ああ』と答えておもむろに懐から丸めた紙を取り出したのです」
それは海空にとって思ってもいなかった展開だった。
海空はただ竹下が最期に生涯のライバルである範村と会い、昔話などをするものだとばかり思っていたのだ。
それがまさかここにきて書道、しかも後に知ったことだが、命を賭けた筆勝負をしはじめるとは夢にも思っていなかったのである。
「巌さんの体力は限界のはずでした。書道をする力なんてなかったはずです。ですが巌さんは文字通り自分の命を燃やしてこの作品を書き上げられました」
そう言って海空は毅山の前に四尺画仙(縦69センチ×横136センチ)の掛け軸を広げた。
「こ、これは!?」
「そう、これこそが今、寺に掛かっている扁額のもとになったものです。巌さんは私の表情を見て、以前書いたものに満足していないと感じ取っていたのでしょう。改めて彼最期の作品として、これを書いてくれたのです」
それは竹下巌作品としては異例であった。
本来なら竹下の書は繊細に力を加減しながらも、線一本一本に魂が迸るような筆運びが特徴的だ。
しかし、今、海空が広げた作品は竹下独特の厳しさがない。一言でいえば、優しい書であった。
「だが、これは間違いなく竹下先生の書だ! 優しい書風からも漂う、先生らしい人間の生命力が一筋にも、一点にも、最初から最後まで満ち溢れている!」
「そうです。死の淵に立ってついに巌さんは自分の新境地を切り開かれたのですよ」
まだ引っかかるところはあるが、この字ならこの寺の扁額に相応しい。海空は心の奥からそう思ったという。
「でも、待ってくれ。この字でも竹下先生は親父に勝てなかったと言うのか!? 親父はいったいどんな字を書いたんだ!? これがここにあるってことは、親父の作品もこの寺に残っているんですよね?」
「それは……残念ですが」
「なんで!? 何故ないんですか!?」
「……巌さんが自分の体と一緒に焼いてくれと頼んだからです」
花川範村の字も素晴らしいものであった。海空にはどちらが優れているか判断などつくはずもなく、またこれが筆勝負だとも知らなかったからただただふたりの力量に感嘆するばかりであった。
だから巌が満足げに微笑みながら「さすがは花川範村。私の負けだ」と言った時は、いったい何のことかと訝しんだものである。
が、その言葉の意味を深く考える暇なんてなかった。
巌が次の瞬間、激しく吐血したからである。
「ついにその時がやってきました。そして先の遺言と共に『書道とは死ぬことと見つけたり』の辞世の句を残して、巌さんは旅立たれて行ったのです」
代表作を書き残してこの世を去る、それは書道家として見事な死に様だった。
だから巌だけを見れば、ふたりの再会は正解だったのかもしれない。
だが、海空は旅立った竹下の亡骸を見下ろす範村の表情を見て、その時初めて己がとんでもない過ちを犯してしまったことを知った。
「範村さん――あなたのお父さんはあの時、何かに魅入られてしまったのです。すみません、私が手紙をだしたばかりに彼の人生を、そしてあなたの人生をも狂わせてしまった」
海空が涙ながらに頭を下げる。
毅山は咄嗟に何と言っていいか分からず、ただごくりと唾を飲み込んだ。
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