第14話 書道とは死ぬことと見つけたり!

 花川範村。

 現代三筆のひとりと評される彼の書風は、若き頃の『鏡の時代』と、個性を確立させた『烈の時代』の二種類に分類される。

 

 鏡の時代の範村は、類稀なる模写の天才であった。

 古今東西ありとあらゆる書の臨書を極め、様々な書風を我がものとして作品に取り入れた。ひとつの作品に何十人という書家たちの特徴を盛り込み、その技量は書道界を騒然とさせたものである。

 

 しかしは鏡の時代の範村には「彼の作品は所詮借り物。彼自身の書ではない」との評価も付き纏った。

 そんな評価を覆したのが、烈の時代の範村である。

 それまでの比較的穏やかな書風が、突如として烈火の如き激しさを前面に打ち出したものへと変わったのだ。

 しかもその圧倒的な技術力で、激しさの中にも完璧な統率が見て取れる。それはただの模倣のアレンジを超えた、範村ならではの書風であった。

 かくして世の評論家たちはついに天才が自らの殻を打ち破ったと絶賛したのである。

 





「あははははは! 範村の字、だと? これはこれは、笑わせてくれるじゃないか!」


 茫然と呟く毅山の言葉に、剛厳は瞳に狂気を宿しながら笑った。それまで押し殺していた感情がついに溢れだしたかのようだった。

 

「これは父が厳しい流れ筆の修行によって辿り着いた、正真正銘、竹下巌の書だ。お前の親父は父の真似事をしているにすぎないんだよ!」

「ば、バカな……そんなこと信じられない!」

「ははっ! 何が『信じられない』だ。よく考えてみろ。お前の親父は以前、なんと呼ばれていた? 全てをそっくり写し取る、鏡の範村と呼ばれていたではないかっ!」


 剛厳が何を言おうとしているのかを察して、ながれは改めて彼が書き上げた書に振り返った。

 さっきはどこかで見たことがある書風だと気になったが、今となればそれがどこだったのか一目瞭然だ。

 間違いない。突然書風を変えて世間を驚かせた、花川範村『烈の時代』の書だ!


「そうだ。お前の親父は、俺の父を殺しただけではない。父が命を賭けて修行の末に得たものでさえ、図々しくも奪い取ったのだ!」

「ウソだっ!」

「嘘なんかではない! 竹下巌の息子として、流れ筆の父の書を最も近くで見てきた。幼かったとはいえ、その書は今も鮮烈に俺の記憶の中にあるっ。これは正真正銘、我が父・竹下巌の書だ! 断じて花川範村の書などではないっ!」


 毅山は言い返そうとして、しかし言葉にもならないうめき声を発しただけで、そのままがくりとこうべを垂れた。

 

「毅山君っ!」

「さぁ、書け。花川範村の息子、毅山。何か書かないと、さすがの世尊院の娘と言えども引き分けに持ち込めないぞ?」

「なっ!?」

「公平な判定を下すなんて言葉を信じると思っていたか? 馬鹿め、お前の考えなどお見通しだ」


 どんなに酷くても作品さえ書けば引き分けには持っていける。

 そんな流の見え見えな魂胆を剛厳が承諾したのは、ひとえにこの展開を最初から予想していたからであった。

 尊敬する父の不義、さらにはその書まで実は他人の真似事に過ぎなかったと知らされてはもはや筆を持つことすら出来まい。

 剛厳の目論見が実を結んだかどうかは、今の毅山の様子を見れば明らかである。

 

 剛厳は勝利を目前に、冷静を取り戻していた。

 流はやはりこんな勝負をやらせるべきではなかったと後悔していた。

 そして毅山は……。

 

「制限時間、残り3分や!」


 手元の時計を睨みながら、本家血墨会師範が告げる。

 毅山はいまだ筆すら掴むことが出来ない。

 

「残り2分30秒!」


 さらに30秒があっという間に過ぎ去った。

 流が懸命に声をかけるも、毅山は下を向いたままピクリと動かない。

 

「残り2分!」

「毅山君! 筆を! 筆を取って!」


 流の毅山への呼びかけがいっそう悲壮なものへと変わる。

 それでも毅山の体は動かない。が、代わりにぽつりと。

 

「……すまない」


 毅山が呟いた。

 小声ではある。が、弱弱しくはない。何かを決意した者の声であった。

 

「お前が父を殺したわけでないのだから、謝る必要などない。それともその謝罪は他意があるのかな?」


 たとえば勝負をこのような形で終わることへの詫び。

 あるいは殺さないでくれという嘆願。

 もしくは許嫁である流を置いて逝くことへの別れの言葉。


 これらを考えて発した剛厳の言葉には、侮蔑という感情が色濃く出ていた。

 

「……お前たち親子には謝っても謝りきれないことをしてしまったと思う」

「だったらいくら謝っても同じことだ。それに俺もお前たち親子に同じことをする。謝る必要などない」

「……いや、悪いがそうはさせない」


 毅山が顔を上げ、おもむろに傍らの筆を取った!

 

「毅山君!」

「馬鹿な!? おのれ花川毅山、親子ともども恥知らずな奴らめ!」


 残り一分の声を背後にして、流が嬉しそうに、剛厳が忌々しそうに毅山の名を叫んだ。

 

「この期に及んで己の命惜しさの愚行に走るか、花川毅山!」

「命などもとより惜しくはない」

「ならば何故筆を持つ? 今のお前の精神状態でまともな書など書けるはずがない。全ては死にたくないが為に何か書いて引き分けに持ち込む腹であろう!」

「そんなことするぐらいなら死んだ方がまだマシだ。いいか、剛厳。俺が謝ったのはただひとつ。お前の復讐を果たせてやれないからだ!」

「なん……だと……!?」

「俺は書道家として立派な死を迎えるために、親父から破門を言い渡された。それはつまり全力で己の魂を書に刻み、そのうえで敗れるということだ。俺を殺すということは、そんな俺を倒せねばならんということなんだぜ、剛厳!」

「貴様! この剛厳がお前如きに後れを取っていると侮辱するか!?」

「そんなことは知らねぇよ! ただ俺はどんなことがあってもやっぱり本気で書に向き合わなきゃ死ねねぇってことだ!」


 残り三十秒。しかし書道は昔から十秒あれば一点書けると言われている(同じような格言がサッカーにもあるが、その元ネタが書道であることは賢明な読者の皆様方ならば説明しなくてもご存じであろう)。 

 毅山が体内のオーラをすべて筆先に集中させ、一気に筆を走らせた。


「むぅ! これは顔真卿の『祭姪文稿さいてつぶんこう』の一文かっ!」


 毅山の書く文字を見て、剛厳が思わず唸る。

『祭姪文稿』とは戦闘で非業の死を遂げた姪への弔文原稿である。唐の時代の書家であり、書聖・王義之おうぎしと並び称させるほどの名手・顔真卿がんしんけいの代表作だ。


「……スゴイ。『祭姪文稿』は顔真卿の感情の昂ぶりが文字からも感じる、とても人間らしさが溢れる名品だけど、これはもしかしたらそれ以上かも」


 毅山が筆を走らせるたび、書に殉じる強い意志が墨となって迸る。

 それはこの瞬間、死んでも本望という覚悟こそが生み出す奇跡の運筆だ。

 書という決して間違えの許されない一瞬の芸術を心から畏れつつも、その恐怖心から逃げず、かといって無暗に立ち向かうこともせず、ただあるがままに受け入れる。

 まさに書とは死ぬことと見つけたりの心境が導いた、書道家の究極の姿であった。

 





 毅山と剛厳の筆勝負が終わった。

 ともに若くして一流の名を語るに相応しい作品である。贔屓目なしで見ても甲乙付け難いと判定人のふたりはもちろんのこと、毅山もまたこの勝負は正真正銘の引き分けだと感じていた。

 

 しかし。


「この勝負、俺の負けだ」


 ただひとりだけ、はっきりと勝敗を口にした者がいた。

 竹下剛厳である。

 

「総帥! なんでですか!? 確かに花川毅山の作品は素晴らしいですが、総帥の書も決して負けてはおりませんで!」

「そうかもしれぬ。だが、書とは何も腕の良し悪しだけで決まるものではない」

「そやかて墨や紙も同じでっせ。技量も同じやのにどうして負けやなんて」

なんじが残に遭うを思えば、百身も何ぞ購わん」


 不服を申し立てる血墨会のふたりに、剛厳が静かにその言葉を告げる。

 

「花川毅山が書いた一文だ。意味は言わなくても分かるな?」

「あなたが遭った苦しみを思えば、自分の体を百回身代わりにしても償うことが出来ない……あっ!?」

「そうだ。対して俺が書いたのは、己の受けた屈辱を晴らすべく努力するなんて内容だ。どちらかが勝ったかなんてのは一目瞭然だろう?」


 それ以上の説明は無用とばかりに、剛厳は言葉を失うふたりに背を向けた。

 代わりに毅山の姿が剛厳の瞳に映る。

 筆勝負の時に見せていた虹彩に宿した狂気は、完全に消え失せていた。

 

「いい勝負だった、毅山。俺の完敗だ」

「いや、あんたはそうは言うが、やっぱり」

「引き分けとか言ってくれるなよ。俺はようやくこの忌々しい運命から解放されたんだからな」

「運命?」

「ああ。そうだ、俺とお前が戦うのは運命。そしてどちらか一人だけが残れるのも、また運命だったんだよ」


 そして最後にもうひとつ真実を伝えておこうと、語る剛厳の口から、突然一筋の血が滴り落ちる。

 

「父を失った俺をこのように育てたのは――」


 そこまで言って剛厳が血を吐き出し、地面に両膝をついた。

 慌てて毅山が抱き上げる中、あらかじめ歯に仕込んであった自決用の毒によってすでに全身の力が抜け、目も満足に開けることが出来なくなった剛厳が最後の力を振り絞って伝える。

 

「お前の父・範村だ」

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