第12話 戦略書道
「墨をこぼしたんだ……」
大山がやはり訊くべきではなかったかと後悔し始めるほど長い沈黙の後、毅山が重い口を開いた。
「それだけで追放を?」
「ただこぼしたんじゃない。親父の作品にこぼしたんだ」
「なんですって!? 範村先生の作品に!?」
信じられないと大山が目を見開いた。
他人の作品に墨をこぼして台無しにするというのは、書道家にとっては禁忌中の禁忌だ。ましてや相手は現代三筆のひとり・花川範村。実の親子関係と言えども許されることではない。
「毅山さんほどの方がどうしてそんなことを?」
「…………」
再び長い沈黙がふたりの間に流れる。
しかし、今度ばかりはどれだけ待っても毅山が口を開くことはなかった。
「分かりました。すみません、辛いことを聞いてしまった」
「なに、別にいいさ」
「竹下先生が生きているのか、それは血墨会四天王のひとり『崩しの大山』と呼ばれた僕も知りません。が、血墨会の本部が大阪にあります。もし竹下先生が生きておられるとしたら、そこにいるはずです」
「……そうか。ありがとう」
その後、筆を洗い終えたふたりは軒下に筆を吊るし、乾くのを待った。
お互い何も話さなかった。
やがて筆がほどよく乾くと、毅山はただ一言「またな」と挨拶をして旅立っていく。
大山はその背中が見えなくなるまで見送った。
本来なら毅山はもう死んでいなければならなかった。それぐらい毅山の犯した罪は重い。
が、将来は日本の書道界を背負って立つと言われた存在、しかも現代三筆の息子に、あのようなくだらないミスでの不名誉な切腹は許されなかったのだろう。
だからこそ毅山は大日本書道倶楽部を追放され、流れ筆として修羅の道を歩むことを余儀なくされたのだ。
その目的はただひとつ、書道家として立派な最期を遂げるため。
筆勝負に全力で挑み、敗れて死ぬことは決して恥ではない。むしろ書道家の誉である。だが、かと言って死ぬために戦う者などいない。誰だって生きたいのだ。
毅山さん、どうか死なないでください――。
書道家として
数日後。
日本第二の都市・大阪の一角に、毅山は降り立った。
この都市のどこかに闇の書道協会・血墨会の本部があり、そこに竹下巌がいるかもしれないという。
自然と身構える毅山。が、しかし……。
「はい、書道するなら元祖血墨会! 元祖血墨会で決まりやでー!」
「いやいや、うちこそが書道の王道! 書道界の阪神タイガースこと本家血墨会はこちらや!」
闇の書道協会であるはずの血墨会が、何故か駅前で激しく勧誘合戦を繰り広げていた。
「おい何言うとんねん! 書道界の阪神タイガースはうちら元祖血墨会の方や!」
「あはは! アホぬかしぃやぁ。おどれらのどこに猛虎魂があるねん!」
「あの、もしもし」
「ああん! おい、
「はっきり言わな分からんか、この
「えーと、すみません」
「誰がパチモンや! ええか、書道とは『かすれ』こそ至高! その『かすれ』を竹下巌師匠から受け継いだうちら元祖こそがホンモノの血墨会や!」
「笑わせよるなぁ。『かすれ』なんて、その名前通りのカスや! それより竹下師匠は『にじみ』こそ書道の神髄として、うちらの本家に授けてくれたんやで!」
「ちょっと、俺の話を……」
「なんやと! カスとはなんや、カスとは!」
「やるんか、ワレ! いつでもやったるど、こっちは!」
「あの、お取込み中悪いんだけど……」
「「さっきからうるさいわ!」」
喧嘩していたふたりがハモって、ようやく毅山の方を向く。
「ん? お前、その顔は花川毅山やんけ!」
「おい、元祖の。花川毅山ゆーたら、あの血墨会四天王のひとり・双鉤填墨の米田を倒したとかいう」
「そや。おまけにメジャーリーガー・崩しの大山とも引き分けたと聞いたで!」
「ホンマかいな!? そやったらそいつを
元祖と本家のふたりが顔を見合わせ、
「「うちと筆勝負せい、花山毅山!」」
またハモった。そしてすかさず「うちが先や」「いいや、うちや」とやりあうふたり。
とうとう現代三筆のひとりであり、頂点とも言われる竹下巌との筆勝負がかなうかもしれないと意気込んでいただけに、なんとも言えない脱力感が毅山を襲う。
そこへ。
「ふっふっふ。その勝負、私も参加させてもらおうっと!」
「な、
「出張でーす! でも、会議がつまんないから抜け出してきましたー!」
おまけに許嫁の世尊院流まで乱入。
終わった、と思った毅山であった。
「履歴書対決!?」
元祖血墨会の会長が提示した思わぬ対決内容に、毅山は首を傾げた。
「そうや。うちらは今、新たな会員獲得のため、毛筆による履歴書作成を前面に打ち出しとる」
「履歴書とは企業と個人のファーストコンタクト。ここでどれだけ好印象を与えることが出来るかが就職の第一歩なんや!」
というわけで、場所を血墨会の道場に移し、とある企業の人事課長を判定人として、履歴書筆勝負が切って落とされた。
「ではワイから行かしてもらうで!」
そう言って本家血墨会師範の男が、巻物を開く。
絶妙なにじみが際立って書かれたそれは、まぎれもなく履歴書であった。
「ふっふっふ。この『にじみ』を出すことが出来れば、どのような大企業でも即採用間違いなしや。書く文字に人格が現れるというが、そやったら適度な『にじみ』ほど豊かな人間性を表現するに最適なものは他にあらへんからなぁ」
「なるほど、おっしゃる通りですな。特に『趣味・ネットサーフィン』と書かれた部分の『にじみ』は芸術度が非常に高い。これは思わず採用してしまいそうです」
判定人の人事課長が称賛した。
鼻高々な本家血墨会師範。呆気にとられる毅山たち。
その隣で元祖血墨会会長が「ううむ」と唸った。
「さすがは本家師範。だが、今の日本は『にじみ』のようなゆとりよりも『かすれ』が醸し出す粘り強さこそが、企業が真に求めてやまないもの。『かすれ』こそが就職を制するんや!」
元祖血墨会会長の取り出した巻物は、やはり美しいかすれが特徴の履歴書である。
「ほほう、これまたお見事! 伸びやかなフォルムとかすれが完璧に調和した『特技・なし』の一文には、どんな困難な仕事にも粘り強く対処出来る男の確かな自信を感じさせられますな」
これまた課長には好印象のようである。
「毅山君、この人たちが何言ってるか分かる?」
「全然分からん。流は?」
「私も分かんない。ってかさ、なんで履歴書を筆で書いて巻物にするわけ? 履歴書ってのはこう」
流がオーソドックスな履歴書を取り出し、それぞれの欄を美しいペン字で埋めていく。
「このように『大日ペンの麗子ちゃん』でお馴染みの、大日本書道倶楽部ペン字通信講座で学んだ綺麗なペン字で書くのが一番でしょ!」
あっという間にお手本のような履歴書が書きあがった。
「シンプルイズベスト! 確かに履歴書を巻物にしたり、にじみやかすれのある墨で書いて奇をてらわれるよりも、正統派の美しいペン字で書かれている方がこちらとしては無難に採用しやすいですな」
「くっ。まさに逆転の発想や!」
「恐るべし大日本書道倶楽部!」
ごく普通の履歴書が、まさかの大絶賛である。
「ダメだ。全然分からん。とゆーか、いくら綺麗な字でも『週休完全三日希望。残業は絶対しません』なんて書いたら駄目だろ、流」
「いいじゃーん、別にー」
「こんなので採用されるほど世の中は甘くねぇぞ?」
「いえ、こんな美しいペン字で書かれていたら、それでも構わないって企業は多いと思いますよ。人事担当30年の私が言うのだから、間違いありません」
「そんな真面目な顔で断定されても困るんだが……ったく、ホント、この国の手書き履歴至高主義は狂ってやがるな」
あまりの展開に思わず禁句を零す毅山。
そう、それは手書きを極めんとする書道家としてはあるまじき発言だ。
道場がにわかにざわめく。
しかし、そんな不穏な空気など無視し、
「俺ならパソコンで作成して印刷するね」
毅山はさらなる禁句を口にした。
「なっ! 馬鹿な! 気でも狂ったんか花川毅山!」
「印刷された履歴書など、企業は見てもくれへんぞ!」
「そうだよ、毅山君。お偉いさんたちは履歴書に書かれた文字で、応募してきた人たちの人となりを見るの。印刷したものじゃその人のことが何も」
分からない、と続けようとした流を、しかし毅山は
「東大卒業!」
その一言で完全に打ち消した。さらに。
「TOEICスコア800点以上。他にも中国語、ドイツ語など五カ国語をマスター! 趣味は資格取得と筋トレ。特技は誰とでもすぐ打ち解けられること。学生時代は様々な国に留学して国際的な見識を深めました」
怒涛の履歴書自己アピールで場を完全に支配した。
「そんな、いくらなんでも盛りすぎやわ!」
「ああっ!? でも判定人が目をキラキラさせて花川毅山を見とる!」
思わぬ事態に慌てる血墨会。しかし。
「友達からは昔から『頼りがいのあるリーダー的存在』として慕われています。病気は生まれてこの方、風邪すらひいたことがありません」
毅山は止まらない。
「ちょ! 毅山君、ズルいよ、そんなの!」
流が毅山を止めるべく、コブラツイストをかけた。体中の関節が軋み、悲鳴をあげる。
これはさすがにギブアップか、毅山!?
「最後にもうひとつ。エクセル使えます!」
しかし、それでも毅山はそう締めくくって、アピールを完全にやり切った。
「採用! 花川毅山君、是非うちに来てくれたまえ!」
かくして履歴書対決を毅山は書かずして制したのであった。
「いいか、履歴書で最も大切なのは字じゃない。内容だ。採用者が欲しがるような実績、能力、素質、資格なんだよ」
血墨会のふたり、そして流を前に毅山は熱弁をふるう。
が、熱く語れば語るほど皆の目は反対に冷たくなる一方であった。
当たり前である。履歴書対決に勝ちはしたが、そのやり方は完全に反則であった。
「だから就職するには書道なんかじゃなくて、資格を取ったり、語学を磨いたりすることが大切なんだよ!」
「あーあ、とうとう言っちゃったよ。毅山君、さすがに書道家としてその発言はどうかと思うよ?」
「分かってる。が、これは紛れもない事実なんだ! 実際、俺もバイトをしようとして履歴書を何度か書いたが、大日ペンで鍛えた字でも俺の薄っぺらな実績ではどこも雇ってくれなかった!」
「うそっ!? 人手不足なこの時代に!?」
流が驚きの声をあげる。
が、流は知らない。そんな辛い経験から履歴書に実績を盛ることを覚えてなんとかバイト採用されたものの、あまりの常識不足からクビにされまくった毅山のへっぽこぶりを。
「だから履歴書を綺麗に書くよりも、履歴書に書ける実績が必要なんだ!」
「でも、だったら書道教室を経営しているワシらはどうすれば……」
「この時代、就職に有利とでも謳わんと書道をやろうなんて人間は……」
毅山の言葉に、血墨会のふたりがしょぼくれて弱音を吐く。
「ふん、だったら若者じゃなく、お年寄りにアピールすればいい」
「そんなのはとっくの昔からやっとるわ!」
「ああ。だが、アピールの仕方が下手なんだ。いいか、今の時代、ご老人と言えどもネットを使う。だからおそらくは多くのお年寄りも見ているだろう」
「見ているって何をや?」
「ウィキペディアだよ!」
そして毅山は新たな書道人口の開拓として、ウィキペディアの活用を力説した。
「いいか、すでにウィキペディアに名前があるような老人にはこう囁くんだ。『あなたの項目に書道家という欄を作りたくありませんか?』と。どうだ、想像するとカッコいいだろう? 自分の項目に『〇田×蔵。初代〇〇会長。書道家としても有名である』って書いてあるんだぞ?」
ましてやウィキペディアに自分の項目がない人間にとって、書道はそれを作るチャンスでもあるのは言うまでもない。
「おおっ! それは名案や!」
「恐るべし花川毅山! 悪魔的発想!」
「さらに大日ペンは、綺麗なペン字を書く女性は高学歴高収入な未婚男性の憧れだってアピールするんだ! 今の時代、肉じゃがよりペン字だ、ってな!」
調子に乗った毅山は血墨会だけでなく、キラキラした目で流に大日本書道倶楽部にも進むべき道を提示する。が、
「……毅山君、ちょっと今日、おかしくない?」
幼馴染であり許嫁でもある流に指摘されて、ハッとした。
確かにちょっとキャラがブレてるかもしれない。というか、改めて指摘されると途端に恥ずかしくなってくる。
と、その時であった。
「書かずして血墨会四天王の残り二人を倒してしまうとはさすが花川毅山よ。だが、ここでお前には死んでもらう」
どこからともなくそんな声が聞こえてきたかと思うと、ひとりの男が道場へと入ってきたのであった!
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