第11話 大砲が如く
「『書道とは死ぬことと見つけたり』とは竹下の言葉じゃ」
卒業式を終えたその日の夜、東波は毅山と盃を交わしながらそう言った。
「竹下とは竹下巌のことか!?」
「そうじゃ。そもそも竹下は大日本書道倶楽部の会員じゃった。が、書の道をストイックに極めんとする竹下は、花川や世尊院ら緩和派と対立しおってな。ある日、とうとう脱会してしまったのじゃ」
「え? ちょ、ちょっと待ってくれ! 世尊院先生はともかく、俺の親父までも昔は緩和派だったと言うのか!?」
緩和派とは書道の世界をなんとか一般人にも広めようと、厳しい修行やルールを緩和、もしくは撤廃しようとする人々のことである。
対して範村は子の毅山に厳しい十年修行をさせたことからも分かるように、ガチガチの本格派であった。
そんな父がかつては緩和派だったとは、俄かにはとても信じられない。
「うむ。花川もその頃は緩和派であった。が、そんなあやつがある日、突然変わったのじゃ」
そこから東波が語る花川範村像は、まさしく毅山の知る父の姿そのものであった。
誰よりも書道に厳格で、その風格を守ることを重んじ、毅山も幼い頃から書道への厚い信仰を厳しく躾けられてきた。
ライバルである世尊院成之とは、そんな書への姿勢の違いから「硬の範村、軟の成之」と言い比べられるほどである。
「本格派の親父しか知らないから、かつては緩和派だったと言われてもなかなか想像出来ねぇな」
「ふむ。ならばこの写真を見るがよい」
差し出された写真を見て毅山は驚いた。
写真には幼い毅山を抱えた範村と、同じくオムツをした流を抱いた成之が、ともに穏やかな笑顔を浮かべて写っている。
流が墨のついた筆で毅山の顔に落書きをして泣かせているにもかかわらず、範村は実に楽しげだ。
「馬鹿な! 俺の知っている親父は筆でこんなことをしようものなら、たとえ赤ん坊でも容赦しないはずだぞ!」
「うむ。だがな、かつての範村とはこういう人物であったのだよ。それがある日を境に大きく変わった。何があったのかは知らん。ただ、ワシにはまるであの竹下が範村の体を乗っ取ったかのように思えたもんじゃよ」
しみじみと昔を懐かしむように目を閉じながら、東波は静かに盃を傾ける。
「なぁ爺さん、あんた、その竹下巌が生きているかもしれないって話を聞いたことがあるか?」
「血墨会のことじゃな?」
「知ってるのか!?」
「ワシも詳しくは知らん。が、かつての弟子が血墨会に昨年世話になっておった」
「弟子?」
「会ってみるかね? 今は丁度シーズンオフで日本に帰ってきているはずじゃ」
そう言って東波はかつての弟子であり、今や日本を、いや世界を代表する書道家に成長した男の名を告げた。
数日後。
「東波師匠から連絡は貰っています。初めまして。大山です、よろしくお願いします」
初めて対峙する大山の迫力に、毅山はしばし伸ばされた手を握り返すのも忘れて圧倒された。
でかい。とてつもなくでかい。
さすがは大きさこそパワー、パワーこそ正義のアメリカ書道界で成功を収めているだけのことはある。
「こちらこそよろしく。花川毅山だ」
だが、体型こそ負けているものの、こと書道に関しては引けを取っているつもりは毛頭ない。
ここは強気にと、毅山はニヤリと不敵な笑みを浮かべて大山の手を握り返した。
「お名前は昔からお伺いしていました。現代三筆のひとりを父に持つ天才書道家として」
「俺だってあんたの名前は嫌というほど聞かされてるぜ。二刀流として高校卒業後に大日本書道倶楽部に所属するのを拒否し、いきなり渡米しようとした無茶な野郎だってな」
高校書道界に面白い奴がいると毅山が耳にしたのは数年前のことである。
なんでも左右に筆を持ち、二刀流による前代未聞な書道をするとかなんとか。
まぁ、二刀流はともかく、その実力は作品を見れば明らかであった。だから大日本書道倶楽部は高校卒業後、新人書道家として会員に迎え入れることに決めたのだ。
が、大山はなんとこれを拒否。そしてこれまでのルールを無視していきなりアメリカでの書道家活動を行うと発表したのである。
その後、大山の話題はぷつんと途切れ、渡米したもののどこかで野垂れ死にしたのかと思われていたのだが。
「ははは。確かにあの時の僕は世間知らずな無茶野郎でしたね。ですが、そんな僕を一年間の修行で
「それが血墨会北海道支部、ってことか」
「はい」
「竹下巌は生きているのか?」
「それはお答えできません。いや、今のあなたにそれを知る権利がない、と言った方がいいでしょうか。この意味、あなたも書道家なら分かりますよね?」
「ふん。さすがは昨年の全米書道協会で新人賞を取っただけのことはある。礼儀正しい好青年に見えて、血気盛んな野郎だ」
「それはあなたも同じでしょう。会った時から僕と同じ匂いがしましたよ」
「ふん。じゃあやるとするか」
「ええ」
毅山が懐から筆を包んだ晒を取り出した。
そして大山もまた、背中から二本の筆をビームセイバーよろしく引き抜く。
「「筆勝負だ!」」
書道家に会話はいらない、言葉なら筆で語れと言わんばかりに、ふたりの若き書道家による筆勝負が始まった。
「ではまず僕から行かせてもらいましょう」
大山が大量の墨が入ったバケツに二本の筆をひたした。
「ほう。昨シーズンに痛めた腕をこのオフに手術し、今年いっぱいは二刀流を封印すると聞いていたが?」
「ふふ。その通りです。が、なにも左右の手を使うばかりが二刀流じゃありません。こういう二刀流もあるんですよっ!」
大山が二本の筆をまとめてぎゅっと右手で握りしめた。
そして一気に紙面へ踊らせる。
二本の筆が時には一本のように太い線を描いたかと思えば、またある時には双頭の蛇が如く異なる軌跡を描く。決して一本の筆では書くことが出来ない、二刀流・大山翔龍ならではの書道が、まさに今、展開されている。それは自由奔放にして繊細。
「ふ、どうですか毅山さん、僕の真二刀流は?」
「……ああ、いいものを見せてもらったぜ」
二本の筆を左右に一本ずつ持って書く二刀流。それは非凡な才能ではあるが、同時に世間からは邪道だとも言われていた。毅山自身は別にそう思わないが、書道家であるならばやはり一本の筆に全てを託すべしと言うのである。
が、今見せられた大山の真二刀流は、二本の筆を一本に纏めて揮われていた。
実はこの書法、決して珍しいものではない。大字を書くのに大きな筆がない時には二本、時にはそれ以上の筆を輪ゴムで纏めて書き上げることもある。
しかし、大山のように二本の筆を思うがままに合体・分離させて、自由奔放かつ計算されつくした線を書いてみせるのは毅山はおろか、これまでのどの書道家も思いつかなかったであろう。
この真二刀流であれば、おそらくは世間のうるさがたもぐぅの音が出まい。
大山翔龍、やはりこの男、規格外である。
「よし。じゃあ今度は俺の書道を見せてやるよ!」
そんな大山に、しかし、毅山は怯むどころか再びニヤリと笑った。
その笑顔に、大山の顔も思わず綻ぶ。
挨拶代わりの筆勝負とは言え、相手に後れを取れば自決せずにはいられないのが書道家の悲しい
だが、昨今のぬるま湯に浸かり切った書道家たちは、この誇り高き精神を忘れてしまった。
大山がアメリカに渡った理由は、日本では自分の書道を理解してもらえず、やれインチキだの、こんなのは書道ではないと評価されているからだと世間一般では言われているが、実際はこのように熱い戦いが日本では出来ないからに他ならない。
だから自由の国・アメリカに活路を求めた。
実際、かの地では大山のパフォーマンスに相手も尊敬の念をもって全力で立ち向かってくれた。このようなお互いの熱い魂をぶつけ合うような真剣勝負は、今の日本では決して味わえないと思っていた。
だが、それは間違いだったと大山はこの瞬間思い知った。
日本にもいたのだ。こんなにも熱い魂を持った男が!
命を賭けた真剣勝負に、自分同様笑って挑むことが出来る書道バカが!
「ええ! 見せてください、毅山さんの書道を!」
大山が堪えきれず零した歓喜の声を合図に、毅山が筆をバケツの中の墨へと浸す。
その筆が紙面へと舞い降りる瞬間を、大山は固唾を飲んで見守った。
「え?」
しかし次の瞬間、大山は信じられないものを見て驚きの声をあげた。
毅山の筆がバケツから出てこない。いや、それどころか毛だけでなく軸まで墨に浸し、さらには筆を握る右腕までバケツに突っ込んだのだ。
「まだだ! まだ足りねぇ!」
ついには左腕まで墨の中に入れる毅山。
あの大山でさえ、毅山がこれから何をしようとしているのか分からない。
ただ、ひたすら心がワクワクして止まらなかった。
「よし、こんなもんか。そろそろ行くぜっ!」
両腕をバケツの中から引き上げた毅山が吠える。
毅山から発せられるとてつもない熱風に大山は吹き飛ばされそうになるのを感じたが、それでも視線は決して離さない。
肩まで真っ黒に染まり、墨が腕を伝って下へ下へ流れる。
その墨を両手でぐっと構えた筆がすべて受け止め、そして。
「おりゃおりゃおりゃあああああ!!」
毅山が両腕で筆を動かす度に、一本の筆とは思えぬほど力強い線を描いていく。
しかも、墨が常に両腕から供給されている為、にじみが出るのは当然だが、かすれもまた絶妙に出ていた。毅山の卓越した筆さばきの賜物である。
ただ、これだけならば、なんてことはない、ただ墨をどっぷりつけた筆で書いたのと同じだ。
両腕まで墨を浸し、一本の筆を両手で握りしめて書き上げるには理由がある。それは……。
「お見事! この躍動感は普通の書では出ない!」
毅山が両腕を振るう度に滴り落ちる墨が、紙面に大小さまざまな雫を作る。
それはまるで墨の汗、いや、墨の熱き血潮だ!
全身を使う書道と言えば、例えば髪の毛を筆に見立てたり、手に墨を塗って手形で文字を表現するなんてことがある。
だがこれはそんな子供だましではない、真の書道家だからこそ実現しえた作品と言えよう。
何故なら毅山はただ単に腕から墨を飛び散らせたのではない、両腕と筆とを完全に一体化させ、まるでキャノン砲が着弾した如き衝撃を紙面に描きあげるという、とても信じられない奇跡の御業で書き上げられた作品だからだ。
「名付けて
「さすがです。どうやらこの勝負」
「ああ、引き分けだな」
まさに一流は一流を知る。筆勝負は命がけではあるが、お互いが相手の実力を認め合えた今、勝敗に拘るのは馬鹿馬鹿しいことをふたりは知っていた。
が、そんなふたりでも数年後に全米書道協会が書道を『
「さて、竹下先生が生きているかどうか、という話でしたね」
勝負を終え、お互いに筆を丹念に洗いながら大山が口を開く。
「ああ。知っているか?」
「そうですね。でも、それを答える前に、僕からもひとつ質問してもいいですか?」
「なんだよ?」
「毅山さん、あなたほどの方がどうして大日本書道倶楽部から追放になったのです? 一体何があったのですか?」
聞きにくい話のはずである。
誰もが何でだろうと疑問に思いながらも、聞くのを躊躇ってしまう話題である。
が、さすがは大山、
「…………」
思わず答えに窮する毅山。
盥に汲んだ水が、洗い落された墨で少しずつ色付き始めていった。
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