第10話 みんな一緒

「それでは一週間後に控える卒業式にむけて、卒業証書勝負にするかの」


 毅山を連れて島唯一の学校へと向かいながら、老人はそう切り出した。

 派手なアロハシャツに短パンというファンキーな姿ではあるが、サーフィンを終えたからか話し方は普通の老人らしいものになっている。やはりこちらの方が違和感なく、毅山はほっとした。

 

「卒業証書か。それは別にいいが、どうやって勝負をするんだ? まさか多く書いた方が勝ちってわけではあるまい?」

「それなんじゃが、この島のは少し変わっておってな。普通のとは違って、卒業生ひとりひとりに贈る言葉を書くのじゃよ」

「なんだって? ということは生徒それぞれに違う言葉を書くってことか!?」

「そうじゃ」

「おいおい、それはさすがに無理だ! 卒業生全員を把握し、各々に相応しい言葉を書くなんて」

「大丈夫じゃ。今年の卒業生はわずか三人、それにまだ式まで一週間もある。その間に子供たちと触れ合い、観察するといいじゃろう」


 硯を譲り受ける為の筆勝負が、まさかこんな内容になろうとは。

 ワハハと笑って先を行く老人の背を、毅山は複雑な面持ちで見つめるのであった。

 

 

 

 一週間後。

 卒業式には島の住民全員が集まった。

 この小さな島には、学校はこの小学校しかない。卒業したら親元を離れ、本州にある中学校の寮に住み込むことになるのだ。

 だからこれは卒業式であると同時に、彼らのお別れ会でもあった。

 

「卒業生、鏑矢文太かぶらや・ぶんた


 校長である老人の呼びかけに、ガキ大将然とした少年が大きな声で返事をする。

 いや、実際、文太は相当なガキ大将であった。この一週間で毅山の体にはさまざまな切り傷や打撲が刻まれたが、これらはすべて文太の遊びに付き合わされたからだ。

 

「文太、島を出てもおぬしらしく生きるのじゃぞ。そんなおぬしに贈る言葉を、まずは毅山殿から見てもらおう」


 言われて毅山は頷くと、昨夜したためた文太への書を胸に掲げる。

 

「『最強』! へへっ、さすがは俺の子分、分かってるじゃねぇか!」


 文太が嬉しそうに指で鼻をすすった。

 文太は数ある遊びの中でも相撲が一番大好きだった。相撲では絶対に負けないと、大人である毅山相手にもそのプライドを貫き通した。そして毅山を力強く上手投げで転がすと、満面の笑顔を浮かべて「俺様最強!」と喜ぶのだ。

 だからその二文字こそが文太には相応しいと毅山は思った。

 

「ほほう、『最強』とはいい言葉じゃのぅ。では次はワシの番じゃ。文太、これを見てみぃ」


 続けて老人が文太のための書を広げる。

 

「『正義』?」

「そうじゃ。文太よ、おぬしはこの島で一番力の強い子供であると同時に、仲間を思いやる優しい心の持ち主じゃった。その力強い優しさを島に出ても忘れるでないぞ。そのためには正義の心が必要じゃ」

「正義の心……」

「そうじゃ。いくら力があろうとも、正義なき心では誰もお前を認めてはくれぬ。文太よ、その力を常に正しいことに使え。そうすればお前はあちらでも最強と呼ばれ、皆から尊敬され慕われる存在となれるじゃろう」

「……分かったよ、校長先生! 俺、正義を絶対貫き通すよ!」

 

 文太が老人の書を受け取った。

 思わぬ敗戦に渋面を浮かべる毅山を、老人がニヤリと見やる。 


「ふっ。子供が喜ぶ字を書けばいいと思っていたら大間違いじゃぞ、毅山殿」

「くっ。まだだ。まだ一敗、残りのふたつは俺が勝たせてもらう!」

「その心意気や良し。では続いて、卒業生・栗原穂香くりはら・ほのか


 老人に呼ばれて返事をした少女に対し、毅山が贈る言葉はそのものずばり『可愛い』。

 穂香はとにかく可愛いもの好きな女の子だった。このような辺境の島には珍しくオシャレに気を配り、自分を着飾ることに命を賭けているような少女であった。

 そんな穂香に贈る言葉を、毅山は当初『お洒落』にしようかと思っていた。しかし、どうしてオシャレをするのかというと、それはすなわち周りから『可愛い』と言ってもらいたいからに他ならない。そこまで読んでの選択であった。

 

「ほう、毅山殿。今回は少し考えられたな。じゃが、まだまだ甘いようじゃ」

「なんだと!? だったらあんたはどんな言葉を……ああっ!」


 老人が手に掲げる言葉を見て、毅山は「しまったっ!」と己の至らなさを恥じた。

 奇しくも老人が選んだ言葉もまた毅山と同じ。しかし、同じ言葉であっても表現力に大きな違いが出た。

 

「毅山殿、よく学ばれよ。馬鹿正直に『可愛い』と書くより『きゃわいい』と書いてこそ、そのかわいらしさが完璧に引き出されるのじゃ!」


 穂香がどちらを選んだのかは言うまでもないだろう。

 

 

 

「さて、早くも勝負はついてしまったな毅山殿。おぬしにあの硯を譲り渡すにはいかん」


 思わぬ二連敗で呆然とする毅山の耳に、老人の声はもはや届いていなかった。

 

「さりとて子供たちが生まれた時から見ているワシと、たかだか一週間での触れ合いでしかなかったおぬしではこのような結果になるのも当然じゃろう。だから筆勝負と言っても命までは取らぬ」

「……なんだって?」


 だが、その言葉が毅山の心を呼び戻した。

 

「ふざけるな! どのような条件であろうとも受けたからには真っ当な勝負。負けたからには潔く死ぬまで」

「哀れな。毅山殿よ、命をそう軽々しく扱うものではない」

「ならば問おう。あなたにとってこの筆勝負とはかくも軽々しいものであったか!? 書道家にとって筆勝負がどれだけ重いか、あれほどの名品を持っている貴方なら知っているであろう!」


 よくよく考えてみれば、毅山はこの老人のことを何も知らなかった。

 が、あのような逸品を所持し、しかも先ほど見せたふたつの作品も見事の一言であった。さぞかし名のある人物に違いない。筆勝負の神聖さを知らぬはずがなかった。

 

「……分かった。おぬしの決意がそれほど硬いのならばワシはもう止めぬわい。が、死ぬ前にもう一度、筆勝負を受けてもらおうかの」

「なに?」

「卒業生最後のひとり・加賀美芙美かがみ・ふみ。その卒業証書がまだ残っておる。これにおぬし勝てば、先ほどのふたりの勝負を一つと考えて一勝一敗でおあいこ。おぬしが死ぬ理由もなくなる。また、ワシの硯も譲り渡そう」

「爺さん、あんた何を考えている? まさか俺を生かす為にわざと負けるつもりじゃ」

「小僧、言葉を慎むがよい。この木曽東波きそ・とうば、老いたとはいえ、まだまだ半人前な書道家にわざわざ勝ちを譲るほど耄碌はしておらぬわ」


 木曽東波!

 その名に毅山は聞き覚えがあった。


 現代三筆は毅山の父・花川範村、ながれの父・世尊院成之、そして血墨会が崇める竹下巌の三人である。

 が、その現代三筆に負けず劣らずの書道家がかつていた。

 その名が木曽東波。

 書道家であり、同時に政治家でもあった彼は一時期大臣も務めたものの、やがて放置してドロドロに煮詰まった墨のように真っ黒な政界に嫌気をさして引退し、表舞台から姿を消したと聞いていたが……。

 

「さぁ。受けよ、花川毅山。書道とは死ぬことと見つけるがよい!」

「なっ!? 爺さん、その言葉をどこで?」

「ふっ。すべてはワシを倒せたら教えてやろう」


 老人・木曽が最後の卒業生・加賀美芙美の名前を呼んだ。

 元気な文太とは比べ物にならないぐらい小さく、泣きそうな声で返事をした芙美が、おずおずと毅山たちの前に立つ。

 

 芙美は昔から気が弱い女の子だった。

 小さな頃は常に母親の傍から離れず、小学校にあがっても文太や穂香の陰に隠れて、決して自分から前に出ようとしなかった。

 そんな芙美が小学校を卒業し、来月からは親元を離れた生活をしなくてはならないなんて、どれだけ不安で心細いかは誰だって想像がつく。

 実際、卒業式を迎えた彼女の表情は、おめでたい場であるにもかかわらず、見る者に痛ましさを感じさせるものであった。

 

「芙美よ、卒業おめでとう。おぬしにはこの言葉を贈るぞい」


 そう言って木曽が表に返した紙には『友達』とあった。

 

「これから島を出て、親から離れて暮らすのは寂しいじゃろう。じゃがおぬしにはいつだって文太や穂香がおる。友達が常におるのを忘れぬことじゃ」


 芙美が目に涙を浮かべながら、うんと頷いて振り返る。

 文太が任せろとばかりに胸をたたき、穂香が仕方ないわねと微笑んだ。

 気弱な芙美にはとても心強いことだろう。

 

「さて、続いては毅山殿の書じゃ。毅山殿は芙美にどんな言葉を贈るかの?」


 木曽の言葉に芙美が振り返るのを見て、毅山はその言葉を表にした。

 芙美の目がにわかに大きく見開かれた。

 

「頑張れ、芙美!」


 毅山が『みんな一緒』と書いた紙を見せながら、芙美にエールを送る。


「お前も出来るさ! 勇気を出せ!」


 人一番寂しがり屋な芙美に必要なのは、その不安を少しでも取り除いてあげることであるのは誰の目から見ても明らかである。

 だからふたりとも「お前はひとりぼっちじゃない。仲間がいるんだ」って言葉を選んだ。


 しかし、毅山の言葉には、それ以外の意味も含ませていた!


「お前が寂しがり屋なのは知ってる。でも、同時にそんな自分を変えたいと思っていることも俺は知っているぞ。お前、島の岬で叫んでたよな。大きな声で。みんなみたいに強くなりたい、って!」


 それは本当に偶然であった。

 小さな島と侮って、近道しようとしたのがいけなかった。森の中で道に迷い、ようやく開けたところに出たと思ったら小さな岬で、そこに毅山の知らない、いやおそらくは島の住民の誰もが知らない、頑張って大きな声を張り上げる芙美の姿があったのだ。

 

「やっぱりあの時、聞こえてた……」

「すまん。あの時は咄嗟に何も聞こえなかったって嘘をついちまった。だってあの時はお前になんて言ってやればいいかわからなかったからな。でも、あれからよく考えたんだ。お前は勘違いしている、って」

「勘違い?」

「あのな芙美、人間ってのは誰だってお前みたいに本当は臆病なんだ。文太だって、穂香だって本当は親元を離れたくないんだよ」

「え?」

「そうだよな、お前ら?」


 突然話を振られて子供たちは言葉を詰まらせた。でも、

 

「……そうだよ……私だって……ホントはお母さんたちから離れたくない」


 まずは穂香が涙をボロボロ流しながら、その苦しい胸のうちを吐露した。

 

「な、泣くなよ、お前ら! そんな、お前らが泣いたら俺だって我慢してるのに……」


 普段は無敵なガキ大将の文太の目元も潤んでくる。

 そんなふたりを見て、芙美はどこか安心したような表情を浮かべて泣いた。

 

「そうだよ、怖いのはお前だけじゃない。みんな怖いんだ。みんな一緒なんだ。だからお前も出来る、きっとみんなみたいに強くなれるんだ!」

「……うん!」


 芙美がまだ涙を流しながら、笑顔で毅山の胸に飛び込んできた。

 

「見事じゃ、毅山殿! あちらに行っても友達が一緒にいることと、そんな彼らは自分と変わらない、みんな同じ気持ちなんだということを掛け合わせた、まさにダブルミーニング書道! さすがは範村の息子、ワシの完敗じゃな」


 いつの間にか卒業生のみならず、集まった島の住民たちも皆もらい泣きをする中、東波は抱きついてきた芙美の頭を優しく撫でる毅山を褒め称えた。

 その表情はとても勝負に負けた者とは思えぬほど満足気であった。

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