第9話 毅山、南へ……

 死。

 それを毅山は常に意識してきたつもりだった。

 特に尊敬する父・範村から『書道とは死ぬこととみつけたり』との名言を受け賜わってからは、死ななくてはならないと思っていた。

 

 そんな毅山ではあるが、しかし、よくよく考えてみると筆勝負に敗れた対戦相手が本当に自決する様を見るのは初めてである。

 悶え苦しみ、口から泡を吐いて絶命した米田。

 その姿を見て毅山の脳裏に浮かんだ想いはただひとつ。

 

 どうしよう――

 

 そう、困惑以外の何物でもなかった。

 

 勿論、敗北を受け止め、潔く自害したことは尊敬に値する。

 自分もその時はかくありたいと思うほどだ。

 が、今まで死にたい死にたいと思ってはいたが、いざ目の前で死なれたら、残された方は大迷惑以外のなにものでもないと初めて分かった。

 しかも今回は立会人がいない。しかも密室だ。これはもしかすると自分が殺したのではなかろうかと警察に疑われるのではなかろうか?

 定年間際の老刑事が「この事件だけはワシの手で解決したいんだ」と執拗に自分を追ってくるのではないだろうか?

 そもそも筆勝負って決闘罪とかの折り合いは一体どうなっているのだろう!?

 

 毅山、大パニックである。

 そして「やばいよやばいよ」と口走りながら出した結論が……。

 

 そうだ! 自分が敗れた時のことを考えて、予め遺書を残しているんじゃないか?

 辞世の句を詠まずに突然自害したことからも、その可能性は高い。遺書さえあれば、自分の疑いは晴れるに違いない! 

 という、自己保身な考えによる家捜しであった。


 招き入れられた仕事場は勿論、これまで盗み取ってきた竹下巌の真蹟を保管していると言っていた隣の部屋など、家の中を徹底的に探しまくる毅山。

 ありとあらゆるタンスを開け、机の引き出しのなかをひっくり返し、死んだ米田の服の中も探す。

 

 が、ない。どこにも遺書が見当たらない。

 それどころか家の中はますます金銭目当ての強盗が侵入したかのような状況へと変貌し、ますますパニックに陥った毅山はついに!

 

「うわああああああああああ!!!」


 大声をあげて逃げ出してしまったのであった。

 

 

 

 

 二か月後。

 

「毅山君のヘタレ」


 電話の向こうでながれが盛大に溜息をついた。

 

「目の前で人が死んで気が動転したのは分かるよー。その段階で私に電話してきたのは褒めてあげる。でも、それからスマホの電源を切るわ、二カ月ぶりに連絡してきたと思ったらそんな所まで逃げてるわって」

「そんなこと言ったってスマホの電波から警察に居場所を知られるかもしれないし、逃亡者は北に逃げるって言うから逆をついて南を目指していたら……」

「で、気付いたら南の島にいた、と。はぁ。ビビリすぎだよ、毅山君」


 ビビりすぎ? いや、そんなことはない!

 流は知らないのだ、逃亡者の苦労を。定年を間近に控える老刑事の執念を。

 おそらくは今も「この事件を解決せにゃあ辞めるに辞められんわ!」と新人刑事と一緒に数少ない手がかりから着々と自分へ近づいて――。

 

「……てことで、もう大丈夫だから」

「へ?」


 怖い妄想を逞しくしていたので、毅山は流の言ったことを咄嗟に理解できなかった。


「へ、じゃないよ。聞いてなかったの? あの電話の後、米田って人の家へ調査員を向かわせたけど、そんな死体はなかったって。多分、血墨会が回収したんじゃないかな」

「え? ……ってことは?」

「うん。警察は毅山君を追うどころか、事件そのものにも気付いてないと思う」

「マジか!?」


 老刑事最後の事件簿、まさかの結末である。

 

「だから早く協会に戻って私を手――」


 毅山は通話を切った。そしてすぐ怒鳴って掛けなおしてくるであろう許嫁の行動を予想して、素早くスマホの電源をオフ!

 よし、これで完璧に自由だ。

 

「やったぁぁぁぁぁ!」


 二か月にも及ぶ逃亡生活(全部毅山の一人相撲だったわけだが)が終わり、開放感のあまり大声をあげる毅山。

 胸いっぱいに深呼吸する。ああ、こんなにもシャバの空気が美味しかったとは知らなかった!


 さらには気分が変わると見えてくる景色も変わってくる。

 さっきまでは南の島の冴えない寒村にしか思えなかったが、よく見れば石積みの塀に囲まれた軒の低い家々や、雲一つない青空に映えるヤシの木、遠くで青く煌めいている海にはまだ初春にもかかわらず波乗りを楽しむひとりのサーファーと、実に南国らしい情緒が満ち溢れているじゃないか。

 

 これは観光をせねばなるまい!

 

 いや、しなくてはならないってのも変な話だが、つまるところ、それだけ毅山は浮かれていたということであった。

 

 

 

「おっと、こんなところに古物屋が」


 観光と言っても別にリゾート化されているわけでもない、ただの田舎の島である。とりあえず辺りをぶらついてみるかと思っている矢先に、毅山は思わぬ宝島を発見した。

 古物屋には時々思わぬ書道具の掘り出し物があったりする。このように開放感を堪能している今、冷やかしで覗いてみるにはちょうどいいかもしれない。

 

「おおっ! こ、これは!」


 ところがいきなりとんでもない値打ち物を見つけてしまった。

 硯である。

 丸みを帯びたフォルムに、墨を溜める墨池の上部には見事な草花の彫り物。漆黒の石面には金星と呼ばれる石紋が散らばり、あたかも澄んだ空の夜空を見上げるが如くである。

 おそらくこれは端渓硯。中国広東省で採取される良質な石で作られた逸品だ。しかもその見事な風格から、『古端渓』と呼ばれる相当古い時代に作られたものだと推測される。

 

 これほどまでの商品、果たして店主の希望価格はいかに!?

 

「あー、悪いけどそれは値段を付けられないんだわ」

「すげぇ! それほどの価値が!?」

「いやいや、お兄さんが考えるような意味じゃなくて。これ、この島の校長先生から頼まれて置いてるんですわ」

「校長先生?」

「ええ。島にある唯一の学校、といっても小学校ですけどな、そこの校長先生から『この硯が欲しいって人物が現れたら自分が直接値段交渉をするから』って言われてますんや」


 そういうことか。

 毅山は頭の中で自分の懐具合を確認する。

 勘違いの逃走生活で結構使ったが、年賀状対決で貰った200万がまだ半分ほど残っているはずだ。

 それで譲ってもらえるかどうかは分からないが、交渉してみる価値はある。

 

「……小学校がどこにあるか、教えてくれねぇか?」

「お、兄ちゃん、買う気だね。でもこの時間だと学校に行っても無駄ですわ」

「ん? ではどこに?」


 尋ねる毅山をよそに、店主は黙って店の外へ出た。

 そして店主の思わぬ行動に面食らった毅山が後に続いてやってきたのを見ると、右手で海を指さして一言。

 

「浜に行きなされ。この時間、あいつはサーフィンをやってますんで」

 

 

 サーフィン。

 この言葉の語源が実は書道にあると知っている人は少ないだろう。

 中国は宋の時代、大波のごとく大量の墨汁から筆を振り上げ、見事に操ってみせた書道家・差不韻さふいんがその由来だ(民明書房『知られざる書道の世界』より)。

 ゆえに大量の墨を使う大字を書くことを「サーフィンをする」と表現することもあるのだが……。

 

「なるほどなるほど。つまりおぬしはあのビッグガンライディング書道したいって言うんじゃな?」


 浜には犬と一緒に波乗りする老人しかいなかった。

 まさかと古物屋の話をしてみると、なんとこれがビンゴ!

 仙人みたいな長い白髭を蓄えた老人が「こいつは驚いた!」と言いながらも、嬉しそうに笑った。

 

こいつ愛犬とタンデムするのも飽きてきたところじゃ! オーケー、ここはひとつおぬしとゲットしてみようかのぅ! おぬしののテイクオフをみせてみるがいい!」

「ゲット……つまり俺と筆勝負をして、その実力によってはあの硯を売ってくれる、と?」

「その通りじゃ。ワシとビッグウェーブに乗ってみい、お若いの!」

「分かった。爺さん、調子乗ってワイプアウトするんじゃねーぞ」

「言ってくれるねぇ。よし、だったらこのレジェンドのライディング、見せてやるとするかの!」


 これまたあまり知られていないが、書道とサーフィンは意外と共通言語が多い。だからサーフィンをしない毅山にも老人の言わんとすることが分かった。

 こうして毅山は謎の老人と筆勝負をすることになった。


「あ、爺さん、筆勝負をするのはいいが、いくつか条件がある。まずひとつ、ちゃんと立会人をつけて、これがお互いの同意に基づいた正式な決闘であることを第三者に証明してもらうこと。もし立会人がいなければ、遺書を予め用意しておくこと。それから――」


 しかし、さすがは花川毅山。米田との戦いで学んだ教訓をしっかり活かしてくる。

 つまりはますます面倒くさい奴になっているのであった。

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