第8話 魂を越えろ!

 米田草市。

 現代三筆のひとり・竹下巌の贋作を作っていた男の名を、美術館の理事長は確かにそう言った。

 しかもこの男、毅山が動向を追っていた闇の書道会・血墨会の一員らしい。

 出来すぎた偶然だろうか?

 いや、竹下巌の作品である以上、そこに血墨会が絡むのは必然である!

 

 かくして毅山は理事長から米田の居場所を聞き出すと、早速敵のアジトへと向かったのであった。

 

 

 

 

「遅い! 待ちくたびれたぞ、花川毅山!」


 美術館から電車で三駅、バスで二十分ほどの閑静な住宅街に、米田の住む家があった。

 ごく普通の一軒家だ。とても贋作を作り、真作を盗む悪党のアジトには見えない。そのあまりの普通さぶりは、理事長から詳しい地図を描いてもらっていたにもかかわらず、気が付かなくて前を通り過ぎたぐらいである。


 悪党のアジトならばアジトらしく、分かりやすくそれなりの風格を出しておいてほしいものだ!


 なかなか家が見つからず、苛立った毅山はまず真っ先にそう文句を言ってやろうと思っていた。

 

「すまん。道に迷ってしまった」

 

 にもかかわらず、開口一番思わず謝ってしまったのは他でもない、悪人であるはずの米田がわざわざ家の外に出てきて、うろうろする毅山に声をかけてきてくれたからである。

 そんないい人にいきなり怒るなんて出来るはずがない。

 

「ったく、こっちは美術館に忍ばせていた仲間からお前が俺の贋作に気付いたようだと連絡を貰い、仕事も中断して待っていたんだぜ。道に迷ったら迷ったで一言連絡ぐらい入れたらどうだ?」

「面目次第もない。今後はこういうことがないようにするから許してくれ」

「ちっ。これだから良いところのおぼっちゃんは。まぁ、いい。準備はすでに済ませてある。中に入れ」


 苛立ち気味に家の中に入る米田の背中を、毅山が慌てて追いかける。

 いきなり劣勢に立たされる毅山であった。

 



「さて、お前がここに来た理由は分かっている」


 仕事場と思わしき和室に招き入れられ、米田自ら豆から引いて入れてくれたコーヒーと、行列が出来る有名店の洋菓子で厚くもてなされた毅山の前に、一本の掛け軸が置かれた。


「むぅ! こ、これは……!!」


 恐る恐る広げてみると、それは美術館でも見た竹下巌の流れ筆時代に書かれたという「波」の大字。しかし。

 

「これが……これが竹下巌の真蹟かっ!」


 作品から放たれるオーラに、毅山の心が、身体が震えた! 美術館で見た贋作とはまるで違う、まさに竹下の熱い魂がそのまま書という形となり、時代を越えて、毅山を飲み込まんと襲い掛かる。


 ああ、大人用のオムツを買っておいてよかったぜ――。


 少しチビりながらそんなことを思う毅山。

 ただ、同時にどこか不思議な感覚にも襲われた。

 竹下巌の真蹟を見るのは間違いなく初めてである。にもかかわらず、どこかでこの書風に触れたことがあるような気が……。

 

「どうだ、素晴らしかろう?」

「ん? ああ! さすがは竹下巌先生。凄い字だ!」


 米田に声をかけられて、毅山ははっと我に返った。

 見ると米田はニヤニヤと薄らい笑いを浮かべている。

 どうやら竹下巌の真蹟を前にして、毅山が声を忘れるほど感動したのだと思っているようだ。


(まぁ、確かに感動して少しチビってしまったけどな)


 とは言え「どうだ、すごいだろう?」と踏ん反り返って見下ろされるのも気持ちが良いものではない。

 何処でこの書風に触れたのか、記憶の中を探るのは後回しにした方が良さそうだ。


「さすがは現代三筆のひとり、見事としか言いようがない」

「そうだろうそうだろう。だが、美術館の奴らはこの竹下先生の本物と俺の双鉤填墨による偽物の区別がつかんのだ」

「信じられん! あんなもの、この真蹟と比べたらゴミだ! ゲロだ! 鼻くそだ!」


 思わず毅山が鼻息を荒くした。

 真の美を知る者として、偽物が褒め称えられるのを許すことが出来ない性格であった。


「え? いや、まぁ、だからそんな輩に真蹟を渡す必要性など……」

「いや、この違いを表現するに、月とスッポンなどでは生ぬるい! 月と雨でぐちゃぐちゃになった靴下ぐらいの差でようやく」


 さらに言葉を荒げる毅山。が。


「おい、貴様ァ! さっきから聞いていたら俺の双鉤填墨を好き勝手に言いやがってぇ! あれを習得するのにどれだけの年月を費やしたと思っているんだぁぁぁ!」


 米田がキレた。当たり前だ。

 

「ええい、あわよくばお前を血墨会に取り込んでやろうともてなしてやったが、そういう態度を取るのなら俺にだって考えがある! 血墨会四天王がひとり・双鉤填墨の米田草市、お前に筆勝負を申し込むぞ!」

「ふ、もとよりそのつもりでやって来た。あ、コーヒーとケーキ、ご馳走様でした。特にコーヒーが絶品だったぜ!」

「くっ。褒めるのか貶すのか、どっちかにしろォォォォ!」


 米田が吠えた。天然相手に何かと大変なのであった。

 

 

 

「なに、これを臨書するのか!?」


 米田との筆勝負、その意外な内容に一瞬毅山はたじろいだ。

 

「そうだ。お前は俺の双鉤填墨をゲロだ、クソだ、濡れた靴下だ、蛆虫だと罵った」

「ちょっと待て、蛆虫とは言ってないぞ」

「ええい、黙れ。とにかく、そんな偉そうな口を叩いた以上、俺よりもっと上手くこいつを書けるはずだ!」


 米田が指差すその先には、竹下巌の真蹟『波』がある。

 臨書とは手本を書き写すこと。すなわち米田はこの『波』を自分以上に上手く書き写してみろと毅山に要求したのだ。

 

「もしお前が俺以上のものを書けたら、この『波』はもちろん、これまで俺が双鉤填墨でまんまとすり替えた竹下先生の真蹟も持っていくがいい。しかし、もし書けぬのなら、筆勝負の掟に則ってお前には死んでもらう。いいな?」


 念を押されるまでもなく、そんなことはとっくの昔から承知している毅山である。

 が、それでも即座に頷けずにいたのは、言うまでもなく課題の難易度の高さが故だ。


 竹下巌の『波』はエリート書道家の毅山から見ても、圧倒的な技術とセンス、そして魂によって書かれた傑作であった。それを米田は熟練の双鉤填墨の技で完璧に形を写し取っている。

 すなわちただ形を似せただけでは、米田には絶対に敵わない。勝つ為には作品に竹下の魂までも再現してみせないといけないのだ。

 

 ――出来るのか、俺に?

 

 毅山は自らの胸に問いかける。

 ……何も答えが返ってこない。

 

「どうした、花川毅山? この期に及んで怖気づいたか!?」


 毅山がなかなか勝負を受けないので、米田が焦れて煽ってきた。

 

「ふん。自分には出来ぬにもかかわらず、あのように偉そうな口をきくとは。恥を知るならこの場で腹を切り、死んで詫びてみせろ、花川毅山!」


 米田が口走った『死』という言葉に、毅山の身体がびくりと震えた。

 恐怖からではない。父・範村から『書道とは死ぬことと見つけたり』と言われてから、死は常に身近なものである。


 では一体何ゆえに震えたのか?

 思い出したのである。自分がいかに死ぬべきかを。筆勝負に己の全てを賭け、全力を出し切って敗北しての死こそ、自分が求めてやまないものだと。

 

 そして毅山は先ほどの自身への問いかけが誤っていたことに気付いた。

 出来るのか、ではない。やれるのか、ではない。

 

 

 ――竹下巌の臨書、今の俺には荷が重すぎるかもしれないがどうだ、やりたいか?

 

 

 頭が答えるよりも早く、心が、身体が反応した。

 毅山は俄かに立ち上がると、米田が用意していた大字用の大きな筆を両手で握りしめ、バケツに入った墨へ十分にひたす。

 白紙の横に置いた竹下の真蹟『波』には見向きもしない。

 頭の中には先ほど見た時のイメージが今もくっきり残っている。ならば下手に視線を移すよりも、まっすぐ前を向いて一気にイメージを形にしてしまった方がいい。

 

「うおりゃああああああ!」


 毅山は掛け声とともに、墨が滴り落ちる筆を勢いよく紙面へとぶつけた。

 筆にたっぷり含んだ墨が周囲に飛び散る。

 

「な、なんだと! 竹下先生と全く同じ位置に墨を飛び散らせたっ!?」


 墨の飛び散りなんて普通は計算して出来るものではない。

 あり得ない奇跡に米田が驚愕する。

 が、毅山はそんな米田の声なんか耳に届いていないかのように、筆を走らせた。

 へんに当たる『さんずい』は岩肌にぶつかった波が飛び散るが如く。

 つくりの『皮』は海水のうねりを表現して自由奔放な曲線を描く。

 しかるに毅山の書き上げるそれは、現代三筆のひとり竹下巌のそれと寸分違わず同じであった。

 

「お、おそるべし、花川毅山。しかし、最後の『払い』こそが今作品最大の難所。あれこそ俺の双鉤填墨でしか再現できぬはずだっ!」


 本来『波』という字は最後の払いが右下に収まっている。が、竹下の『波』は大きな波が空へと昇る龍が如く波飛沫を上げる様を、大胆に筆を大きく上へ跳ね上げることによって表現している。

 墨のかすれ、飛び散り、ともに一瞬の芸術たる書道の全てがここに集約されていると言ってよいだろう。

 もしこれを双鉤填墨ではなく純粋な臨書として再現できる者がいるとするならば、それは稀代の天才書道家・竹下巌本人しかありえないはずだ!

 

「いけぇぇぇぇぇぇ!」


 米田が見つめる中、毅山は最後の咆哮をあげて筆を勢いよく跳ね上げた。

 その軌道はこれまた竹下とまるで同じ。かすれ、墨の飛び散りも恐ろしいほど精密に一致している。

 が。

 

「は、はははっ! 馬鹿めっ、最後の最後で無駄な気負いが出たな、花川毅山!」


 毅山の筆は勢いのあまり紙の上部から飛び出し、当然の如く、墨もまた微かなかすれとともに紙面からはみ出していた。

 

「その若さでここまで竹下先生に肉薄するとは驚いたが、しかし約束は約束。死んでもらおう」


 勢いよく紙面から飛び出した筆を、あたかも刀のように空中に振り上げたまま微動だにしない毅山。

 その毅山に近づき、身柄を確保しようと手を伸ばした瞬間、米田はあり得ないものを見た。


 毅山の身体から発せられるオーラが、ある人物の形を取ったのだ!

 

「なっ!? 竹下……先生?」


 驚く米田に、オーラの生み出せし人物が静かに指先を下に向ける。

 その先には言うまでもなく毅山が先ほど書き上げた作品。最後の最後で失敗した駄作……。

 

「な、なにっ!? こ、これは……まさかそんな……」


 米田がよろよろと後ずさり、尻もちをついた。

 失敗作だと思っていた毅山の臨書。しかし、そこに自分の双鉤填墨にはない竹下巌の魂が見事に再現され、しかも最後の最後で竹下よりも伸びやかに浮上する線に毅山の魂までもが見て取れたのだ。

 

「なんてことだ、これは失敗ではない。こいつ、竹下先生を再現するどころか、乗り越えてみせやがった!」


 竹下巌の弟子であり、長い年月をかけてようやく身に付けた米田の双鉤填墨。それは竹下作品の外面を完全にコピーするものであった。

 しかし、毅山は少し作品を見ただけで外面どころか内面まで、さらにはそこに自分自身すらも表現してみせたのである。

 

「くっ。完敗だ、花川毅山。約束通り、その『波』も隣の部屋に保管している他の真蹟も持っていくがいい」


 もう俺には必要ないものだ――確かに米田はそう続けて言った。

 が、力の全てを使い果たした毅山には、その言葉の意味を考える余裕などなかった。

 ただそれでもただひとつだけ。どうしても訊ねたいことがあった。

 

「竹下巌は……生きているのか?」


 そう、竹下巌の生死の確認である。

 今回の臨書対決には勝った。が、それは決して竹下巌に勝ったわけではない。

 いや、むしろ『波』の真蹟を見た時に思わずおしっこを少しチビってしまった時点で自分の負けだ。

 

 だから戦いたい。

 竹下巌……現代三筆のひとりであり、他のふたりよりも三割上手いと言われたこの天才に、今の自分が持てる力の全てをぶつけて、そして――。

 

「さぁな。自分で調べるといい。さらばだ花川毅山!」


 が、米田は答えなかった。

 代わりに懐から何かを取り出して口に放り込むと、水差しの水で飲み込む。

 突然のことに呆然とする毅山の前で、やがて米田が苦しみ出し、口から泡を出して悶絶するまでそう時間はかからなかった。

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