第7話 こいつは双鉤填墨ですぜ
三筆。
それは各時代の書道家の中で特に秀でた三人に送られる称号である。
空海、嵯峨天皇、橘逸勢による平安時代の三筆。
日下部鳴鶴、中村梧竹、巌谷一六による明治の三筆。
現代では、花川範村、世尊院成之、そして……。
「なんだって!? あの
「それはまだ調査中。でも、血墨会とは竹下巌こそが現代三筆の筆頭、唯一の師として仰ぐ連中が作った闇の書道協会なのー」
明治三筆から一文字ずつ拝借した名前を持つ不世出の天才、それが竹下巌である。
その実力は抜きんでており、花川範村、世尊院成之よりも三割上手いとされた。
しかし、ある日突然姿を消し、以降今日まで消息は不明である。
「パパが強引にでも大日本書道倶楽部の勢力を拡大しようとしているのは、この血墨会が今、陰でどんどん力をつけてきているからなんだよ」
「なるほど。確かにあの竹下巌が生きていて、新たな書道協会を作ったら倶楽部の苦戦は必至だな」
「でしょ!? だから」
「だが、俺は破門された身だ。
「もぉ、そんなこと言わずに助けてよー」
流が子供みたいに地団太を踏む。
それを苦笑しつつ見守りながら
「もっとも血墨会は俺も気になる。道中に奴らのことで何か分かることがあったら随時知らせるよ、流」
毅山はそう言って、相棒の筆(GPSは取り除いた)を高く掲げる。
謎の書道会とは、毅山的に実に燃える展開だ。藪をつついて蛇を出せの精神で、強敵をおびき寄せてやろうと企む毅山であった。
そして一か月後、毅山はとある美術館の前に立っていた。
旅すがら血墨会のことをあちらこちら聞いて回っていた毅山であったが、ここまで得た情報はゼロ。向こうからの接触もなかった。
また、書初め勝負にて血墨会のことを口走り、流が打ち負かして手下にした男も、ただ噂を聞いただけで実際は全く情報を持っていなかったらしい。
さて、どうしたものか。
と、そこでふと頭に浮かんだのがこの美術館である。
ここには竹下巌の常設展があるのだ。なんでも出資者が竹下の大ファンだそうで、金に糸目をつけず収集した作品たちを展示しているらしい。
血墨会が竹下巌を首魁とする集まりならば、この美術館は実に怪しい。
が、流によると、すでにこの美術館とも接触して血墨会との繋がりを探った結果、白と判断を下したという。
それでも毅山は敢えて訪れた。
と言っても、調査結果を疑ったわけではない。
もし竹下が生きていたら、これほど自分を死の淵に追いやってくれそうな実力者は他にいない、是が非でも一勝負お願いしたいところだが、その前にまずは実力を確かめておこうと思ったからである。
そう、毅山は若き天才書道家ではあるが、竹下巌の作品はこれまで見たことがなかったのだ。
というのも、毅山が生まれた頃にはすでに竹下は失踪しており、その存在を知ったのは小学生に上がった頃のことであった。
物心がついたばかりの毅山にとって、尊敬する父より三割上手いと評価される人物を知った時のショックがどれほどかは想像するにあまりある。
「そんな! 父さんより上手いなんて絶対嘘だ!」と、幼い毅山が素直に受け止められなかったのも当然と言えるだろう。
そしてそんな思いは今も心の底でくすぶり、毅山は今日の今日まで竹下巌の世界に触れることなく生きてきた。
もしかすると今日、毅山はとんでもない衝撃を受けるかもしれない。
いや、それはそれで最終目的である書道で死ぬことを考えれば大歓迎なのだが、あまりの格の違いにこれまで築き上げてきた自信がガラガラと音を立てて崩れ落ちる可能性は否定出来ない。
あまつさえ呆然自失となって失禁してしまったらどうしようって不安もある。
それでも毅山は意を決し、緊張した面持ちで美術館に入っていった。
職員にお手数をおかけしないよう、大人用オムツを装着しているかどうかは定かではない。
『竹下巌が天才と言われる所以は四つある。
ひとつめは正確無比な技術力。
古今東西ありとあらゆる名筆を完璧に臨書してみせるどころか、かつての自分が書いた作品を見ることなく一ミリの狂いもなしに再現してみせたこともあると言う。
ふたつめは大胆不敵な筆運び。
完璧に模写する力を持ちながら、そこを敢えて自分の解釈で崩す。その筆運びは見るものを唖然とさせ、竹下が持つ圧倒的な世界観を見事なまでに表現してみせる。
みっつめは卓越した空間センス。
書道の美しさはなにも書いた文字の美しさだけではない。筆を走らせない空間との、白と黒のバランスもまた作品の美しさを左右する重要なポイントなのだ。竹下作品が見る者の目を惹きつけるのは、まさに紙面全体の空間を把握する竹下の非凡なセンスによるものである。
最後は計算されつくされた墨の動き。
墨のにじみやかすれなどは運筆によってコントロールされるが、竹下のそれはまさに墨の魔術師と呼ぶに相応しい。墨のにじむ方向、かすれ具合など全てを計算している。竹下作品に偶然などという言葉はない。全ては必然なのだ』
(常設展パネル『竹下巌の世界』より)
毅山は一通り作品を見終えた後に、このパネルを改めて読み直した。
大絶賛である。
もし自分が竹下なら恥ずかしくて、この美術館の半径一キロには決して近づかないであろう。
まぁ、それはともかくとして。
毅山は改めて展示されている竹下の作品群を眺めて思う。
そこまで絶賛するほどの書であろうか?
いや、確かに上手い。技術レベル、細部にまで行き届く美術センスはなるほど凄まじい才能だ。
が、何故か魂に訴えかけてくるものがない。
これほどの作品を書く人物である。書への思いは人一倍強いはずだ。
にもかかわらず、作品を見つめれば見つめるほど、素晴らしい外見と空虚な内面のギャップに戸惑ってしまう。
これはもしかすると――。
「おや、あなたはもしや花川毅山先生ではありませんか?」
そこへ突然見知らぬ老人から声をかけられた。太鼓腹が今にもシャツを破って飛び出てきそうな、丸々と太った爺さんである。
どこかで見た顔だなと思いつつも、相手の名前が出てこないまま毅山は小さく会釈した。
「おお、やはりそうでしたか。初めまして。私はここの理事長をしている者です」
お会いできて光栄だと右手を差し出されたので、毅山も応じる。
ニコニコと人の良さそうな笑顔に、美術館のエントランスに飾られていた創始者の人物像が見事に重なり、毅山はああと合点がいった。
「聞けば大日本書道倶楽部を離れて今は流れ筆となって修行の旅に出ておられるとか?」
「え? ええ、まぁ」
実際はとある事件から追放されてしまったのだが、あえて毅山は黙っておくことにした。
自ら離脱し、厳しい流れ筆の世界に身を置く。そう思ってもらった方が箔がついてカッコイイ。
「素晴らしい。まさに竹下巌を同じ道を歩んでおられるわけですな」
「え? そうなのですか?」
「ええ。竹下巌もまた大日本書道倶楽部の会員でありながら、自分の書が小さく纏まるのを嫌い、脱会して流れ筆となったのです」
それは知らなかった。ある日突然姿を消したとは聞いていたが、まさか流れ筆になっていたなんて。
「その後、竹下巌がどうなったかは誰も知りません。流れ筆時代に書かれたと言われる作品も今日いくつか残っていますが、果たしてそれも真筆かどうかは定かではない。ですがね」
理事長が人目を憚るように声を潜め、毅山を手招きした。
「実は私、流れ筆時代の真筆を一幅持っているんですよ。手に入れた時はかなりボロボロで修復に出しておったのですが、先日ようやく戻ってきまして。まだ非公開なのですが、毅山先生でしたら特別にお見せしましょう」
毅山の答えを待つことなく、理事長はこちらですと歩き始める。
蒐集家が高じてこんな美術館を建ててしまった人物らしく、どうやら誰かに見てもらいたくてうずうずしていたようだ。
「さぁ、どうぞ」
空調も警備も完璧な保管室へ連れていかれると、その中でもひときわ厳重に収められている箱の中から理事長は一幅の掛け軸を取り出した。
幅一メートル以上ある大作だ。修復したとあって装丁が新しい。
毅山は恭しく受け取ると、保管室に併設されている畳の上に掛け軸を広げる。
「こ、これは……」
果たして現れたのは「波」の一文字が書かれた大字書であった。
墨がうねり、飛び散り、怒涛の勢いで巨大な和紙を侵食している。それはまさに岸壁で水しぶきをあげる冬の日本海の波そのもの。見る者を圧倒する迫力が、真筆ならばあったであろう。
「……やはり、な」
「な、何がやはり、なのですか、毅山先生?」
ご自慢の一品に痛く感激する毅山の姿を想像していた館長が、予想外の反応に戸惑いを隠しきれずに尋ねた。
「……理事長、不躾ですがこれはどちらから買い求めたものです?」
「海外の由緒あるオークションで競り落としたものです。鑑定書もあります」
「なるほど。ならばその時点では真蹟だったのでしょう」
「……どういう意味ですか?」
「これは贋作です。正確に言えば、双鉤填墨(そうこうてんぼく)によって作られた臨書です!」
双鉤填墨とはその名の如く、真蹟の輪郭を写し取り(これを双鉤と呼ぶ)、中を墨で充填させたものである。
「そして常設展の作品もおそらく全てそうでしょう」
「な、なんですと!?」
理事長は信じられないと首を振るも、毅山は確信があった。
そうでなければあれほどの作品に魂が籠らぬはずがない。
双鉤填墨は形をそのまま写し取るので、名人の域に達すると外見上は真蹟と見分けるのが難しくなる。
が、そこに一瞬の筆の走りに賭けた書家の魂は宿らない。内部に迸る熱い命の脈動まで再現することは出来ないのだ!
「信じられないなら、今一度鑑定家を呼んで観てもらうのをお勧めします。時に理事長、これらは同じ修復家に頼んでいたのではありませんか?」
「ええ、確かにそうですが」
「やはり。おそらくはそいつが竹下巌の贋作を作り、真作を盗んでいたに違いありません。そいつの名前を教えていただきますか? 上手くすればこれまで盗まれたものを全部、この俺が取り返せるかもしれない」
理事長はしばらく悩んだ様子であったが、やがて意を決したようにその名を口にした。
「
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