第6話 毅山、敗れる!?
「んっ……」
窓から飛び込んでくる眩しい陽の光と、冬の朝の研ぎ澄まされた玲瓏な空気に気が付いて、毅山は目を覚ました。
昨夜は遅くまで口喧嘩していたふたりであったが、毅山を落とそうとずっと気を張って疲れが出たのか、
それを見て自分も寝ようと、押し入れから布団を引っ張り出そうとした毅山だったが、「若い男女が同じ部屋で寝たなんて知ったら、パパ、きっとカンカンだろうなぁ」なんて脅し文句を言ってくる。
なので仕方なく、毅山は旅館の窓際にある例の椅子に座り、テーブルに足をのせて眠ることにしたのだ。
これで障子を閉めれば「同じ部屋」とは言えないだろう。
閉めた障子の向こうから「毅山君のヘタレ!」としばらく悪態をつかれまくったが、毅山も疲れていたのですぐに深い眠りの淵へ落ちて行った。
「はぁ。こんな上等な旅館で、まさかこんなところで寝ることになるとは思ってもいなかったな」
さすがに布団とは違い、体の節々に変な凝りが残っている。
とは言え、睡眠は十分だったようで頭は冴えているから、ここはひとつ散歩でもしてこようかと、そーと音を立てずに障子を開けた。
流が掛け布団をあらぬ方向へ蹴飛ばし、絶妙な浴衣のはだけ具合で眠っていた。
「おいおい、いい年した女の子の寝相じゃねぇぞ、これ」
毅山は視線を上手く逸らしながらはだけた浴衣を戻し、掛け布団をしっかり肩まで掛け直してやってから部屋を出る。
あけましておめでとうは、戻った時に言えばいいだろう。
浴衣姿では寒いからと受付で丹前を借り、幅の広い丹前帯を締める。
履物は下駄と洒落込みたいところだが、さすがに朝の早い時間帯にカランコロンと音を立てるのはマズいと思い、自らの靴を履いた。
おそらくは流もしばらくしたら起きるだろう。なので一時間後に朝食が取れるようお願いして、毅山は正月早朝の見知らぬ温泉街を散歩に出かけた。
「お前、花川毅山だな?」
ところが旅館の敷地から出てわずか三歩で呼び止められたかと思うと
「悪いがこの俺と『筆勝負』してもらおう」
いきなり腕を掴まれて白いワゴンカーに押し込まれてしまった。
「おい、乱暴なやつだな。こんな拉致みたいなことをしなくても『筆勝負』なら今ここでしてやる」
新年早々筆勝負とはツイてるのか、ツイていないのか。
どちらにしろ強引な手口にはさすがにムッとした。
が、自分が花川毅山と知って筆勝負を仕掛けるヤツである。腕には相当な自信があるのだろう。ここは多少の無礼には目を瞑ってでも戦う価値がある相手と思いたい。
「ここではやらねぇ。場所を移動する」
「なんだと? あまり遠くに連れていかれたら、勝って帰る時が大変なんだが」
「心配するな。車でほんの五分程度のところだ。それにお前はどうやっても俺には勝てない。それこそ無駄な心配ってもんだぜ」
薄ら笑いを浮かべて勝利宣言をする男。正直なところ、それほどの実力者には見えないが、やはり黙って付き従うことにした。
勝って当然、負ければラッキーの精神である。
やがて男の言葉通り、車は温泉街を少し出たところで止まった。
「ここは……小学校?」
「さぁ、こっちだ。準備はすでに整ってあるぜ」
準備? 準備とは一体どういうことだろう?
よほどの大作でも書かせるつもりだろうか?
疑問を抱きながら男の後についていく毅山。だが、その疑問はある建物の中に入った途端、氷解した。
「なっ!? こ、これは……!」
男に連れられて入ったのは、体育館であった。
その名の通り、本来ならば運動をする建物である。しかし、その大きさ故に、時には運動以外の用途で使われることもある。入学式、合唱コンクール、劇の出し物、そして!
「これは……元旦書初め大会!」
「そう。地元の子供たちを集めた、こども書初め大会よ!」
体育館には一面に新聞紙が敷かれ、その上に毛氈と呼ばれるフェルトの下敷きを広げた子供たちが集まっていた。
下は一年生から、上は六年生まで。皆、一年の計は元旦にありとばかりに正月の朝から熱心に書道をして……いるわけもなく、中には真面目に作品制作に取り掛かっている子がいるものの、多くの子供たちが筆でチャンバラをしたり、お互いの顔に落書きをしたり、書初めそっちのけで携帯ゲーム機に興じていたりしていた。
「くっ……こいつら、こんなに幼くして筆を持てるという恵まれた境遇にいながら、なんてことを……」
「ふふふ、どうした花川毅山? 心が乱れているようだが?」
「はっ、いかん。平常心平常心、深呼吸をして心を落ちつかせ……ぶほぅ!」
深呼吸をした毅山。が、すぐに大きく
「げほっ! げほっ! く、くぅ、なんだこのヒドい匂いは!?」
「はっはっは! これは墨汁の匂いよ」
「まさか! 香しき墨汁がこのようなヒドい匂いになるはずなど……ま、まさか!?」
「その通りさぁ。あんたが普段使っている固形墨と違って、子供たちが使う最初から液状になっている墨汁には一般的に合成樹脂やら塩化ナトリウムがどばどば入っているんだぜぇ?」
「なっ!? どうしてそんなヒドいことを!?」
「ふ、そんなのは品質管理の為に決まっているだろう? さぁ、花川毅山、早速我らも筆勝負と行こうではないか。この子供たちと同じ墨汁を使ってなぁぁぁ」
毅山の顔色が一瞬にして青ざめた。
毅山は子供の頃に受けた書道の英才教育の影響により、なんの修行もしていない子供たちが筆を持つという状況にトラウマを持っている。
しかもその恵まれた子供たちが筆を持ってふざけていたり、あまつさえ筆を投げ出してゲームに現を抜かすなどを見せられては、心穏やかにはいられない。
さらに今は流れ筆と言えど、もともと書道家のサラブレットである毅山は、使う道具も一流品を取り揃えている。最初からの液体になっている墨汁なんて使ったことがない。
というか、そんなのに大切な筆を浸して本当に大丈夫なのか心配で、勝負が切って落とされても身動きひとつとれなかった。
「どうしたぁ、花川毅山? 試合放棄かぁ? うん?」
対して対戦者の男は自信満々に『初日の出』と書き上げる。お前は小学生か?
「くっ、くそう。このままではあんな子供みたいな字に負けてしまう。しかし、一体どうすれば……」
「はっはっはぁ。弁慶雅鳳アニキの仇、取らせてもらうぞ!」
「は? 誰だそれ?」
「お前におでん屋勝負で負けた雅鳳アニキのことだ!」
それぐらい覚えておけよと言われたものの、今の今まで完全に忘れていた。
「アニキは俺に教えてくれた。花川毅山は強敵ではあるが幼年期のトラウマを抱えている、と。そこを突き、さらには一流ゆえに使ったことはないであろう墨汁での勝負に持ち込めば、こんな俺でも勝つことが出来るだろう、ってな!」
「くっ、なんて卑怯な!」
「黙れ! 人生ってのはどんな方法でも勝ちゃいいんだ!」
男が開き直る。
対して毅山はさすがに焦りを感じていた。
死にたい、ずっとそう思っていたが、しかしそれはこんな惨めな負け方ではない。
正々堂々と己の全てを出し切って死にたかった。
と言うか、そうじゃないと『書道とは死ぬことと見つけたり』なんて恥ずかしくて言えないじゃないかっ!
「く、くそぅ。こんなことで死んでたまるか!」
毅山は体内の気を練り上げようと心を落ち着かせる。
が。
「……だ、ダメだ。どうしても子供たちの騒ぎ声と安物墨汁の匂いが気になって集中できないっ!」
筆もいまだ墨汁に浸すことすらできなかった。
「はっはっは! 勝った! あの花川毅山に勝ったぞ! これで俺も血墨会の仲間入りだ!」
男が何とも怪しげな組織の名前をあげて叫んだ。
血墨会? なんだろうそれは?
が、毅山にとってそんなことはもはやどうでもよかった。
こうなっては敗北は必至。今のうちに辞世の句を考えないと――。
「あー、その名前を聞いちゃったら、黙って見過ごすわけにはいかないなー」
その時、体育館に丹前をマントのように羽織った、ひとりの女性が入ってきた。
「流!? どうしてここに!?」
「んー、だってほら、私が眠ってる間にあんなことやこんなことをされちゃうぐらいだったらウェルカムなんだけど、毅山君ってヘタレじゃない? こそこそ夜明け前に逃げちゃう可能性もあるなぁと思って、昨夜のうちに筆へこっそりGPSを」
「はぁ? お前、なんてことを!?」
毅山の筆は十年修行を終えた際に尊敬する父・範村からもらったものだ。
そんな大切なものにGPSを付けるとは! いくらなんでもやりすぎだった。
「怒んないでよー。だいたいそのおかげでこのピンチに駆け付けることが出来たんだからー」
だが、流は怒る毅山を無視してその傍らに立ち、胸元から一本の筆を取り出す。
「おにーさん。その勝負、毅山君に代わってこの私が受けてあげるわ!」
「なんだと!? 俺が勝負を挑んだのは、そこの花川毅山だ! どこの骨とも知らぬ小娘など、俺の相手にならんわっ!」
「そうかなぁ? わたし、大日本書道倶楽部のナンバー2にして、現代三筆のひとり・世尊院成之の娘、世尊院流なんだけど?」
「なに!? いや、言われてみれば確かにお前の顔、『月刊書道界』で見たことがあるぞ! よーし、ならばいいだろう、交代を認めてやる。大日本書道倶楽部のナンバー2を倒したとなれば、俺はきっと血墨会でも幹部待遇で迎え入れられるに違いあるまい」
「はい、決定ー。じゃあ毅山君はちょっとどいててねー」
そう言って流は毅山をドスンとその大きなお尻で吹き飛ばした。
「いてて。いや、それよりもやめろ、流! そんな安物の墨汁に筆を入れてしまえばきっと後悔するぞ!」
「しないしない。最近のは安い墨汁だって結構しっかりしてるんだよー、毅山君」
そして筆を何のためらいもなく墨汁につけると、すらすらと澱みない達筆で書き上げる。
筆の走り、墨のかすり、滲み、どれも申し分ない。
「
「負けた!」
対戦相手の男が、あっさり負けを認めた。うん、『初日の出』でどうして流に勝てると思ったのだろうか? それはこの男にしか分からない。
「はい、勝ちましたー。命を取るのは許してあげるけど、これに懲りたらもう血墨会に入ろうなんて思わないでよー、いい?」
「……はい」
「もう、そんなにしょげかえらないの。良かったら私が、倶楽部のどこかの支部に仕事がないか世話してあげるから」
「え? マジっすか、姐さん!?」
男が途端に欣喜雀躍して小躍りし始める。流のことを早速姐さん呼ばわりするあたり、本当に調子のいい男だ。
ただ、今はそれよりも毅山には気になることがあった。
「なぁ、流。血墨会ってのは一体なんなんだ?」
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