第4話 龍

 茶室の床の間に飾る為に作った合同作品から、思わぬ形で年賀状のデザイン対決をすることになった花川毅山はなかわ・きざん

 もしかしたら今度こそ死ねるかもしれない。


 しかも仮に勝ったとしても、年賀状のデザイン料に二百万円が支払われるという。

 二百万もあればしばらく仕事を探して汲々とすることもない。余裕を持って筆勝負での敗北に努めることができるだろう。

 

 しかし、相手は将来の日本画を背負って立つと目されている鹿野雄徳しかの・ゆうとく

 さらには勝負内容が年賀状のデザインとあっては、どう考えても書道家である毅山の方が不利だ。

 

 どうする毅山? 負ければ死ねるし、勝っても丸儲けなんてことを考えていたら甘いぞ。なんせまだ連載は四話目なんだ、こんなところで負けて死んだら文字数が圧倒的に足りないッ!

 

 だから頑張れ、毅山! 頑張ってくれぇぇぇぇ!!!

 

 

 

 

「毅山殿、失礼いたしますよ」


 一言断りを入れてから、屋敷の主人が毅山の逗留する部屋の襖を開けた。

 

「あ、どうもご主人。昼間から戴いておりまふ」


 部屋に置かれたテーブルに所狭しと料理を並ばせ、今もそのひとつに箸を進めては毅山が応える。

 この屋敷に辿り着いた時、毅山は路銀も尽き、やせ細っていた。

 しかしそこから茶室での一件までの間に五キロ太り、それなりに肉付きも良くなった。

 そして今、毅山の体格は相撲取りに着々と近づきつつある。それもそのはず。年賀状勝負が決まってからというもの、毅山はひたすら食っちゃ寝食っちゃ寝を繰り返していたのだ。

 

「また食べておられるのですか、毅山殿。そんなに食べて、まともな書が書けるのですか?」

「ご主人、書道ってのはああ見えて体力勝負。食べて食べて力を付けなければ、いい字は書けなげっぷ」


 最後にげっぷを出されて、主人は心底うんざりした。やっぱりこいつ、腹パン食らわすしかないかもしれない。

 

「……言っておきますが、もし年賀状勝負で見るも無残な惨敗をするようであれば、雄徳殿は貴方を許しませんよ? あなたを絶対切腹させるはずです」

「そうでなければ困る。それに勝ったら二百万も頼みげっぷ」


 やれやれ。一体どういうつもりだろうか?

 主人は溜息をついて、部屋を後にした。

 

 

 

「ふむ。あやつめ、勝負を投げたか」


 数時間後。主人は次に毅山の対戦相手である鹿野の屋敷を訪れていた。

 別にどちらに肩入れしているわけでもない。ただ、滅多に見ることが出来ない、せっかくの大勝負だ。どちらの様子も見てみたかっただけである。

 

「まったく、困ったものです。対して雄徳殿はどうですかね?」

「ふ、当日を楽しみおいてください。来年の干支は龍。これほど描き甲斐のある題材はない」

「ほー、それは楽しみですなぁ」


 ただ食っちゃ寝を繰り返しているばかりの毅山と違い、雄徳は多少やつれた感じがあるも、心身ともに気が充実しているのが見て分かる。これは当日の作品を見るまでもなく、勝負あったであろうか?

 

「まぁ、あやつがどうであれ、この鹿野雄徳、作品には常に持てる力の全てをかけるのが信条。それが真の芸術家というものだということをあやつに教えてやりましょう」

 

 高らかに笑い声をあげる雄徳。その声には鬼気迫るものがあった。

 

 

 

 そしてついに迎えた年賀状対決当日。

 きちんとした着物姿で登場した鹿野雄徳に対し、毅山の体型たるやもはや履いていたズボンのボタンさえ留めることが出来ぬほどデブっていた。

 

「なんと醜い! 貴様、そんな無様に成り下がるとは心底見下げ果てたぞ」

「ははっ。そんなことより大切なのは作品でげふ。どんなものを描いてきたか、そちらから見せてもらおうかげふ」


 げふげふ五月蠅い毅山に呆れ果てたのか、鹿野は渋面になりながらも手にしていた風呂敷をゆっくりと開く。

 

「おおっ、これはまたなんと神秘的な!」


 現れたのは蒼い瞳孔をした白龍の絵であった。

 身は透き通るほど白い。が、よく見ると鱗の一枚一枚が丹念に描かれている。それでいて白さが際立つのは、鹿野の驚異的なセンス、技術力の賜物であった。


 優雅に広がれた両翼、尾の先まで神経を研ぎ澄まして描かれることによって生まれる躍動感、そして何より秀逸なのが見る者を吸い込むような、どこまでも深い蒼い瞳孔だ。その蒼さが絵全体を引き締め、かつ白竜の白さを見事に強調している。


青眼の白龍ブルーアイズ・ホワイトドラゴン図です。どうぞお収めください」

「素晴らしい! 素晴らしいの一言しかありませんよ、雄徳殿」

 

 主人は感極まって語彙がなくなった。

 それはもし仮にこのあと続く毅山の作品がどれだけの駄作であったとしても、鹿野にこの絵を描かせたのは彼の存在があったからに他ならない、それだけで毅山を逗留させた価値があったと心から思ったほどだった(ただし腹パンはする。それとこれは話が別)。

 

「なるほど。たいしたもんだげふ。では、俺の作品も見てもらうでげふか」


 そう言うと毅山は、その背から一枚の色紙を取り出そうとする。

 その姿があまりに自然であることに、主人は驚きを禁じ得なかった。あれだけの作品を見せられた後だ。本来ならもっと緊張感や力みが出るはず。にもかかわらず、毅山の所作にはまるで気負ったところがない。


 それはあたかもあんな作品など俺の相手にならないと言わんばかりであった。

 が。

 

「なんだ、これは!? おのれ花川毅山、人を馬鹿にするのもいい加減にしろぉぉぉ!」


 取り出された色紙を見て、鹿野が怒りに身も震えんばかりに大声を出した。

 対して主人は、ただただ呆気に取られていた。

 

 差し出された色紙。そこには何も書かれていなかったのだ!

 

「貴様ぁ、日本画と書道の違いはあれ、この鹿野雄徳にあれだけの口をきく実力者と思っておったのに、とんだ見込み違いであった。ええい、このような者を相手に本気で作品に取り組んだ我が恥ずかしいっ。落として前として今すぐ腹を切ってもらおう!」

「ふん。俺が腹を切る時は負けた時だけげふ」

「何を言ってる、貴様。お前は勝負を投げ」

「勘違いするんじゃねぇげふ。俺の作品はな、今からこの場で書くんだげっぷ」

「何?」


 驚くふたりをしり目に、毅山は廊下に予め用意しておいた、墨がなみなみと注がれている硯を取ってくる。

 そして色紙を床に置くと、おもむろに筆に巻いた晒を解いていく。

 

「うん。墨も筆もこの日の為に最高潮に仕上げておいたげふ。そしてもちろん、俺自身も」


 手にした筆を硯の墨に浸す。

 

「書道とは気合の芸術と言われる。それは一度筆を墨につけた以上、考えることも、躊躇うことも、そして間違うことも決して許されない、その一瞬が勝負の芸術だからだ!」


 お気づきだろうか、毅山の言葉からデブ言葉がいつの間にか消えている。

 いや、正確には違う。デブ言葉が消えたのではない。今、毅山の体内で脂肪が物凄い勢いで燃焼されているのだ!

 

「なんという気合じゃあ! 気合だけで体から湯気が立っておる」

「こやつ、まさかこの気合に必要とするエネルギーのために太ったと言うのか?」

「ふん、よく見ておけ。文字しかないと思われている書道だがな、実はちゃんと絵になる文字もあるんだぜ!」


 墨に浸した筆をついに毅山が掴む。しかし!


「なに!? 軸の中央をがっちり握りしめた!? 馬鹿な、一体奴は何をするつもりだ!?」


 筆の持ち方には基本的に単鉤法と双鉤法の二種類があると言われている。どちらも親指を下に、人差し指か、あるいは人差し指と中指の二指を上にして筆を挟み込む持ち方だ。

 本来ならこのふたつの持ち方で問題はない。

 が、今から毅山が書こうとしている字は、これらの持ち方では力不足。もっと力強く、筆を鋭利な刃と化して文字を書くには、まさしく小刀を持つように握りしめるしかない。

 

「行くぜ!」


 気合の一声とともに毅山の体からさらに熱気が迸り、筆先で色紙を削るが如く一心不乱に全身の力で筆を運ぶ。

 

「な、なんだこの運筆は!? こんな書道が、こんな字が本当にあるのかね、雄徳殿?」

「この書き方、まさか甲骨文字っ!?」

「甲骨文字? それは確か黄河文明の?」

「そう。世界四大文明のひとつ、中国は黄河を中心に起きた文明に使われた漢字の起源。それが甲骨文字。その名の如く亀の甲や牛の骨に彫った象形文字だ」

「彫る……そうか、だから毅山殿はあんな彫刻刀のような持ち方を……おおっ!?」


 次第に書きあがってくる文字の姿を見て主人が感嘆した。

 その隣で雄徳もまた目を見開いて唸る。

 

「なんてことだ……書道に絵がないというのは私の思い上がりだった。漢字とはそもそも形を模して意味をもたせたもの。その起源である象形文字となれば、まさに書の絵と言える!」


 これにはさすがの鹿野も賞賛の声をあげた。

 広大な翼はない。光り輝く鱗もない。それどころか鋭くとがった角すらもない。

 しかし今、毅山が書き上げた甲骨文字は、見る者に龍を想像させるに十分な特徴と迫力があった。

 

「甲骨文字・龍。おそらく世界最古のアンシェントドラゴン、完成だ!」


 筆を硯に置いて、ふぅと息を吐く毅山。

 その体は、まさにこの屋敷に辿り着いた時と同じように痩せ細えている!

 それを見て主人はこの勝負甲乙つけがたい、かくなるうえは共に召し抱えるしかないと、四百万の出費を覚悟したのだった。

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