第3話 茶室事件

「ふふふ、やっと見つけたよ、毅山きざん君」


 大日本書道倶楽部。

 東京の一等地に構えるその本部の一室にて、世尊院流せそんいん・ながれは和紙の手紙を片手に微笑んだ。


 流は現代三筆のひとりにして大日本書道倶楽部会長・世尊院成之せそんいん・なりゆきの娘であり、今や同倶楽部の実質ナンバー2である。

 その流の耳に、ある日、心書堂なる書道店への事業介入に失敗したという報告が届いた。

 大日本書道倶楽部の勢力拡大は父の野望であるが、流はあまりに急激すぎる発展はかえって崩壊を招くと危惧している。とは言え、厳格な父に真正面から意見することも出来ず、普段は見て見ぬふりをしていた。

 

 しかし、今回の失敗に際してとある流れ筆の邪魔があったとの報告が気になった。

 さらに手紙があったと知り、取り寄せて確認してみたところ、案の定、それは間違いなく流が長年探し求めていた人物のものであった。

 

「毅山君、そろそろ私のところへ戻ってきてもらうからね」





 さて、流が狩猟者の目付きで微笑んでいた頃、毅山はそんなことに気付くこともなく、とある地方の豪邸にある茶室で、茶を振舞われていた。

 

 毅山は現代三筆のひとり・花川範村はなかわ・はんそんの息子である。子供の頃から厳しく書道家として躾けられてきた。

 しかし、父も子もあまりに書道バカすぎて、それ以外は結構いい加減だ。

 だから毅山が茶の作法など知るはずもなく、仕方ないので隣に座るおっさんの真似をして茶碗を何度か回してグイっと飲み、苦みが残る口に菓子をぽいと放り込んでは、床の間に掛けられた作品を見つめていた。

 

 水墨画である。切り立った崖に松の木が一本。そこから鳥が今にも飛び立とうとしている。上部には大きな余白があり、そこにはぽっちゃりとした肉厚な字が数文字書かれていた。

 

「はっはっは。我が屋敷はこれまでこの茶室から眺める庭が一番の自慢でした。が、これからはこの掛け軸こそが我が家随一の家宝となるでしょうなぁ」


 そんな毅山を見て、茶を振舞ったご当主は機嫌を悪くするどころか、むしろ誇らしげに笑ってみせる。

 

「なんせ日本画の期待の彗星・鹿野雄徳しかの・ゆうとく殿と、若き天才書道家・花川毅山殿の合作。このような名品、他にはございますまい」


 言われて毅山は苦笑しながら、隣に座るおっさん――鹿野を見る。

 四十代半ばだろうか。禿げた頭といい、でっぷりと膨れ上がった腹といい、典型的な中年のおっさんである。これの果たしてどこが彗星なのか? 赤い彗星と呼ばれるあの人に謝ってもらいたいところではある。

 が、和服を身に纏い、偉そうに長い髭を蓄え、いかにも自信たっぷりと言わんばかりに佇む姿は、なるほど芸術家らしいなと毅山は思った。

 

「ふふふ。日頃からご主人にはお世話になっておりますからな。この雄徳が今持つ力を全て結集させて描かせていただきました」

「それはありがたい」

「ただ、私の描いた絵の余白に、あの花川範村の息子さんが字をしたためると聞いて楽しみにしていたのですが……いやはや、少し期待が大きすぎましたか」

「なん……だと!?」


 突然の暴言に、毅山は鼻息を荒くして立ち上がった。

 

「毅山殿、どうかお座りください。雄徳殿も、一体何をおっしゃるのです? 毅山殿の書に何がご不満か? 花川毅山と言えば、かの大日本書道倶楽部の将来を担う有望な」

「あっはっは。ご主人は日本画には詳しくとも、やはり書には疎いようですな。この男が大日本書道倶楽部で持て囃されていたのは三年ほど前の話。今は破門を言い渡され、かつての栄光で何とか食えているだけの流れ筆ですよ」

「なんですと!? それはまことですか、毅山殿?」


 毅山はしまったと下唇を噛んだ。


 毅山は普段、流れ筆としてちょっとした書き物や看板、道端で自分の作った詩集を売っている奴の詩をいい感じに色紙に書いてやったりして路銀を稼いでいる。

 しかし、この街ではそういった仕事が全く無く、おまけに前回あれほど大日本書道倶楽部を挑発する文章を送り付けたにもかかわらず、いまだ刺客が現れる気配すらない。

 なので仕方なく慣れないアルバイトなどをしてみようとした毅山であったが、書道以外はいい加減という教育方針が祟って、どこも初日にクビを言いつけられた。


 この深刻な人手不足な世の中にもかかわらず、だ。


 というわけで、この屋敷を訪れた時は所持金が底を尽いたのを言い訳に、禁じ手である「あの花川毅山が一筆書きますよ」と過去の実績をアピールしたのである。

 作戦は見事成功した。おかげで大日本書道倶楽部を追放された身であることを知らなかったご主人から手厚い歓迎を受け、この数日の逗留で毅山の体重はなんと五キロも増えたのである。

 

「……黙っていてすみません。しかし、俺の腕は鈍るどころか厳しい流れ筆の修行のおかげで、むしろ大日本書道倶楽部にいた頃とは比べ物にならぬほど上達しています。今回の掛け軸に書いた字も俺の自信作。それこそ鹿野さんの書を見る目の方が疑わしいと思いますね」

「なんだと? 小僧、この鹿野雄徳を愚弄するか!?」

「ふん。確かに絵は立派なものだが、お前に書の何が分かる?」

「おのれ。ならば言ってやろう、私の力作に対し、お前のこの腑抜けた筆筋はなんだ? かつての花川毅山が持っていた力強さがまるでないではないか!」

「それは腑抜けているのではない。雰囲気を考えて、敢えて力を抜いているのだ」

「雰囲気を考えて、だと!? それはどういう意味だ? もしや私の作品にお前本来の力を出す必要などないなんて言うのではあるまいなっ!?」

「そうじゃない。確かに俺は力強い書が得意だ。しかし、あんたの仕事が出来上がってきたのを見て、茶室に飾るにはやや緊張感がありすぎるように思ったんだ。俺は茶道には不心得だが、ここで茶を飲む人たちはきっと安らぎを求めているのだろう。だとすれば、そのような場にお互いが自己主張しあうような、力と力がぶつかるような作品を置いて、果たして心休まるだろうか。だから俺は絵と場の雰囲気を考え、敢えてあのように字を書いたのだ」


 言われて主人は床の間に飾った作品を見た。

 なるほど、確かに崖の松から飛び立とうとしている鳥の絵は見事なものだが、そこには何が動き出す時の緊張感が立ち込めている。

 それを毅山が書いたぽっちゃりとした字で緩和し、緊張感をむしろ何が始まる期待感へと昇華していた。


「まぁ偉そうなことを言ったが、もし仮に俺が先にいつものような字を書いて、それからあんたが絵を描いていたのなら、きっとあんたは俺の字に欠けているものを補うようにして作品を仕上げていただろうよ」


 しかも相手をそのまま言い負かすのではなく、最後に見事な落ちどころへと持っていく毅山に、主人は心の中で見事と叫んだ。

 大日本書道倶楽部を追放されていたのを黙っていたと知った時は、ここ数日食わせたものを全部吐かせるぐらい腹パンしまくってやろうと思っていたが、これならば許してやっても――。

 

「だ、だまれだまれ黙れぇ。おのれ、若造のくせしてこの鹿野雄徳に何という口をきくか。もう我慢ならぬ。花川毅山、お前に決闘を申し込ませてもらうぞ!」


 ところが鹿野の一言が、丸く収まるのを全てを台無しにした。


「雄徳殿、決闘などそんな血なまぐさいことを考えるのはおやめください」

「ご主人、勘違いされては困る。決闘と言っても我らは別に刀で切りあうわけでもない」

「え? では一体何を?」

「時にご主人、もうすぐ年の瀬が近づいてくるが、今年も年賀状のデザインはこの鹿野雄徳にお任せていただいてよろしいか?」

「年賀状? ええ、もちろん、そのつもりでしたが」

「結構。ならば花山毅山、年賀状のデザインで勝負だ!」


 鹿野が毅山に指を突きつけて宣告した。

 さすがは芸術家である。己の作品で決闘をするとは。

 しかもこの勝負、一見平等に見えつつも、実は書道家には分が悪い。絵はいくらでもアイデアに凝ることが出来るが、文字ではせいぜい「初春」とか「賀正」とか「謹賀新年」とか「あけましておめでとうございます」ぐらいしか書くものがないのだ!

 

 怒りに任せての決闘に見せかけて、実はその裏で計算を張り巡らせている……鹿野雄徳、恐ろしい奴!

 対して毅山はこの罠を見破ることが出来るのか!?

 

「ふん。なるほどな。だが、俺はいつだって勝負には文字通り、命を賭けている。あんたも命を賭けるかい、鹿野雄徳!?」

「くっ。書道家は死にたがりで困る。これだから書道は」

「そう、常に命がけだからこそ書道は全ての芸術を凌駕する美しさを誇る。命のやり取りを知らぬ日本画家など、俺の敵ではない」

「なにをおのれ! 分かった、この鹿野雄徳も命を賭けよう。それでよいな!」


 鹿野の返事にニヤリと愉悦の表情を浮かべる毅山。筆勝負の経験は豊富なれど、日本画家との対戦は初めてだ。

 

 もしかしたら死ねるかもしれない――。

 

 思わぬ展開にほくそ笑まずにはいられない毅山であった。

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