1.ひとりぼっちのミヤと小瀧

 大妖おおあやかしがミヤを送り出してから二時間ほど。


「あなたの言うとおりだった……」


 よろよろと疲れた様子で、ミヤが冬の滝へと戻ってきた。大妖が結び直した帯はかろうじて形を保っているが、振袖は、初詣から逃げてきたときと同じように着崩れている。


「三年経ってて……神隠しとかなんだとか言われてもみくちゃにされて、結局わたしに化けた妖怪だって追い回された……」


 そして、近くにあった岩の表面を手で払い、腰掛ける。


「わたし、死んだことにされてたよ」

「だろうな」


 白い息とともに吐き出された言葉を、大妖は気にした風もなく受けた。


「で、おれのところに戻ってきたわけか」

「他に行くところも思いつかなかったから、つい」

「ま、賢明だな」


 大妖はするすると近場の木に登り、ミヤを見下ろす位置に陣取る。


「で、お前さんはこれからどうするつもりだ?」


 ミヤは少しだけ考える仕草をしてから、


「行くあても思いつかないし……。そうだ」


 手を軽く打ち合わせて、樹上の大妖を見上げる。


「あなたの名前を教えてもらおうかな。わたしはミヤ」

「迂闊だなあ、お前さん。おれみたいな大妖にあっさり名前を教えるなよ」


 大妖は枝の上で器用にとぐろを巻いて、ミヤに呆れた視線を送る。


「ま、いいか。おれは小瀧こたきだ」

「コタキ……。滝にいるから?」

「蛇の大妖だからな。ところで」


 小瀧はするすると枝を伝い、突然ミヤに向かって飛び降りた。

 ミヤは、とっさに両腕を伸ばして小瀧を受け止める。見た目から想像したよりも、はるかに軽い衝撃に驚いた。


「よーし、よく受け止めたな。それじゃ、その崩れた着物を直してやる。じっとしてろよ」


 感心するのもそこそこに、小瀧はミヤの腕から合わせ・・・へ向かう。帯をまとめたときよりもさらに素早く、振袖の乱れを直してしまった。むしろ、ミヤが知るどの和装者よりも見事な振袖姿に仕上げられた。


「すごいね……」

「ま、なんてこたねえよ。ついでに、もう少しおれの力を分けてやった。ここに留まるつもりなら、それくらいないと不足だからな」

「え?」

「お前さん、帰るとこないんだろ?」


 一瞬、ミヤは言葉に詰まる。

 小瀧は地面におりて、目の前でしゅるしゅるととぐろを巻く。

 ミヤは地面に視線を落とし、ふうっとため息をついた。


「そっか……。わたし、ひとりぼっちになっちゃったんだね」

「話をよく聞けよ。ここに留まるんなら・・・・・・・・・っておれは言ったんだ」


 小瀧の言葉に、ミヤは顔を上げて目を丸くする。そして、


「じゃあ、わたしは……。ありがとう、小瀧」


 小瀧に、はにかんだ笑顔を向けた。

 小瀧はふいっと目を逸らして、


「ま、これくらい、おれにかかればなんてこたねえよ。それに、おれの力を受け取ったんなら、お前さんもあやかしみたいなもんだからな。人間としては暮らせまいよ」


 ぐにゃぐにゃと、とぐろを描きながらその場で回る。


「ねえ。小瀧は、誰かと一緒にいたことはある?」

「んー」


 ミヤの問いかけに、小瀧は、尾の先をちらちらと揺らす。思い出しているようだ。


「多分ねえな。おれはずっと、一匹でこの滝を縄張りにしてきた」

「そうなんだ。寂しくないの?」

「なかったな。おれは群れるたちの妖じゃあねえし」

「そうなんだ……。じゃあ、わたしの『恋心』をもらってくれたのは、どうして?」


 ミヤがさらに問いかけた、そのときだった。


「ミヤ……!」


 騒がしい足音と、ミヤの名前を呼ぶ声。ミヤがびくりと肩を震わせた。


「ミヤ、ミヤ!」


 音と声はだんだんと、ミヤと小瀧がいる滝に近づいてくる。

 ミヤは視線をあちこちさまよわせ、結局はそのまま立ち尽くす。小瀧は何も言わず、ミヤを長い身体でぐるりと囲んだ。

 ミヤが息を殺したまま動けないでいると、精悍な顔立ちに焦りをのせた青年が現れた。ミヤよりいくつか年上に見える。白いシャツにネクタイの学生服姿だが、防寒着の類は身につけていない。

 青年の姿を認めたとたん、ミヤが、はっと息を飲んだ。


「ミヤ、ミヤ! いるのか!?」

「アキちゃん……」


 ミヤの口から音がこぼれる。

 しかし青年は、そんなミヤの前を素通りして、


「聞いたぞ、帰ってきたって! 妖怪じゃなくて、本物のお前なんだろう!? 出てきてくれ!!」


 必死の形相で、滝の周りを探し回る。


「わたしたちのこと、見えて、ないの……?」

「ああ。おれがお前さんを囲んでる。結界みたいなもんだ。もっとも、お前がおれの外に出たとして、見えるかは怪しいもんだ」


 お前さんはもうあやかしもんだしなあ、と、小瀧は言った。


「そうなんだ……」


 呆然とつぶやきながら、ミヤはゆっくり小瀧の環から出る。

 青年は、そんなミヤには気づかず目もくれない。ミヤと小瀧が見ている前で――自分以外の誰かがいるとは気づかないままで、足を服を、土や枯れ葉で汚しながら探し回っている。


「ミヤ……」


 青年はついに、冷たい地べたに膝をついて、うなだれてしまった。

 ミヤはそんな青年を、横から見下ろしている。

 何も言わずに、ただ、じっと。


 いつまでそうしていただろうか。

 ぱきり。と、小枝を踏む音がした。

 音がした方向――滝への入口に、息を切らせた女がひとり立っていた。

 長い黒髪で紺のブレザー姿の、美しい女が。


「アキヒコ、こんなところにいた……」


 女は青年に近づきながら自分のマフラーを外し、青年の首にゆるく巻く。

 青年は答えず、うなだれた姿勢のまま、うわ言のようにミヤを呼んでいる。


「ミヤ、ミヤが……」

「ミヤちゃんは……いなくなってから三年、経ったのよ」


 女は青年の隣にしゃがみこみ、ゆっくりと話しかける。


「アキヒコ、戻りましょ。からだが冷えすぎているわ」

「俺が、あのとき……三年前の初詣、迎えに行っていれば……」

「……行きましょう。この滝、昔から何か出るって言われてるから」


 女に半ば支えられるようにして、青年は立ち上がる。

 ミヤはなにも言わず、ただ、去っていくふたりの後ろ姿を見送った。




「行っちまったな」


 小瀧がミヤのとなりでとぐろを巻く。


「あいつら、お前さんがここに来たことと関係あるんだろ?」

「うん」


 ミヤが軽く頷く。


「ああして並んでるとこ見るとさ、お似合いだなーって思って。仲いいみたいでよかったなって」


 ふふっと、ミヤは少女らしく笑う。


「でもね、それだけ。ここに逃げてきたときみたいなぐるぐるした気持ち、もう思い出せないの」


 あなたがわたしの『恋心』をもらってくれたからね。

 ミヤは小瀧に微笑みを向ける。


「……おれがお前さんの『恋心』を食ったのは、ほんの気まぐれだ」

「うん?」

「おれは恋慕の情を抱くとか愛情とか、そういうものはもともと持ち合わせてねえ。だから、あのときのお前さんを見ててよ、そんなにも心っつーものが揺さぶられるってのはどんなもんだと思ったわけだ」

「そうだったんだ」


 ミヤはゆっくりと歩き出す。小さな滝の周りの小さな池を、ぐるりと回る。


「どうだった?」


 池をはさんで小瀧と向かい合う位置で、ミヤは止まる。どこか楽しそうにも見える表情で。


「まあ、こんなもんかって感じだな」

「えー、なにそれ」


 何がおかしいのか、ミヤは笑う。そのまま、振袖が地面に付かないように畳んで池の縁にしゃがみこみ、気まぐれに水面をつついた。

 指先が触れたところが狭い範囲で凍り、ぽっと氷の花が咲いた。


「わあ、見て小瀧! きれい!」


 ぽっ、ぽっ。ミヤは子供のように水面をつつき、次々と花を増やしていく。


「おれの……いや、もうお前さんの力だ。思ったより強く使えるみたいだな」


 ぽっ。ぽっ。

 ミヤが作り出した氷の花は、水の流れに乗って、ゆっくりと動いている。


「わたしはひとりだけど、小瀧がいるからひとりぼっちじゃないよ」


 花のひとつを両手ですくい上げ、ミヤは、にっこり小瀧に笑いかけた。


「……よせやい。太陽なんて向けたら花が全部溶けちまうだろうが」


 小瀧は、水面に浮かぶ氷の花をひとつ、丸飲みにした。

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