第3話 「死」


***




 波音が目を覚ますと、そこはどこか使われていない古い納屋のようなところだった。ぼんやりとかすむ視界の中で、起き上がろうとすると体中を倦怠感が襲った。


「……ど、こ? あ、そうだ! 黒サンタは!?」


 辺りを見回すと、すぐ近くに赤いサンタ服の男が倒れており、波音は少し安堵する。


「ねぇ、黒サンタ、ここ、どこ?」


 波音の問いには答えがなかった。身体をゆすぶってみるが、彼の身体から血のりが広がっているのに気づいて波音は顔を青くした。


「もしかして……そんなッ」


 思い出してみると自分は満身創痍だったはず、と波音は思うが、彼女の身体にはどこにも傷はついていない。それはつまり、最初の時と同じように彼が力を使って自分の傷を治してくれたということに他ならない。

 さらに、この見たことがないのに、どこか懐かしいと思うような感覚。もしかしたら、またタイムリープをしたのかもしれない。


「……な、なんでよ……自分だってこんなになってるじゃない! それなのに……」


 思わず彼に語り掛けるが、何度やっても言葉は返ってこなかった。

 おそるおそる彼のサンタ服から覗く首筋に波音は手を伸ばす。


「……ひゃッ! ……ぅそ…嘘ッ!」


 黒サンタには、すでに脈がなかった。

 それだけではなく、彼の身体は氷のように固く冷たくなっていて、まるで置物のように波音には感じられた。


「嫌ッ! ……そんな! ……そんなの!!」


 波音は涙を流し、自分の置かれた状況に絶望を通り越して恐怖すら覚えた。


「一人にしないでよッ、誰かッ、……誰か、助けて……!」


 ここがどこかもいつかもわからない状況で、殺人者の言っていた「あいつ」の正体もわからないまま、唯一の頼みの綱だった黒サンタが目の前で死んでしまった。

 そのことが理解した波音は恐怖で身がすくみ、ただ、子どものように助け求めることしかできなかった。


「助けて……ッ、誰かっ……誰かぁッ!」


 波音の泣きわめく声が、納屋の中でこだました時。

ふいに扉の方から、冷たい空気が流れ込んできた。

 


「やめてやめて、はなして!!」


 甲高い子どもの声が聞こえ、波音はハッとする。


「やだ、怖い行きたくない!」


 その声は次第に大きくなり、鮮明に聞こえるようになってくるようだった。

 突然のことに波音がパニックを起こしかけるが、


「……は、か、隠れ、なきゃ……」


 冷静さを取り戻し、波音はすぐさま辺りを見回して、納屋の奥にあった木箱の影に彼の身体を引きずり、自分も身を隠した。

 金属が擦れるような音がしてから、大きな音を立てて納屋の扉が開く。


「この糞、糞畜生!!一生そこに入ってろ、死ね!!」

「いやああああぎゃああああああああああ」


 ヒステリックな女性の引きつるような声の後、扉が乱暴に閉められて再び金属音が鳴り、泣き叫ぶ男児の声だけが密閉された空間にこだました。

 男児はうずくまり、しばらく泣き続けていたが、ふと顔を上げる。

 その特徴的な眼を見て、波音はそれが誰なのかがわかった。


「……アイツの、子ども時代だ……」


 胸の奥が底冷えするように、キュッと引き締まるのを感じる。

 そして同時に、波音の脳裏に一つの思考が浮かび上がった。


(アイツがいなければ、黒サンタは死ななかった。両親も危険にさらされることもなかった……だから、……私が、あの子を……)

 波音の目が、少し前まで自分に刺さっていたであろう包丁を捉える。男に今までされてきたことが次々に想起され、波音の心に静かな憤りが芽生える。しかし、次の瞬間には自分が想像した行動に、身体が震えた。

(でも、できるのは、アイツを殺して未来を変えられるのは、今、私だけ……)


 波音は意を決し、震える手で包丁を持ち上げる。その刃には未だ波音の血が赤黒く残っていた。

 音を立てないように、一歩、また一歩と男児へと近づいていく。

 近づくたび、心に自分がこれからしようとしていることの重みが心にのしかかってきた。

 ついにうずくまる男児の背後に波音は到達し、

(ごめん、ね)

 刃物を両手で振り上げ、


「……っ、……くッ」


 しかし、波音は振り下ろすことができなかった。

 (やらなきゃやらなきゃやらなきゃ、私がやらなきゃ、……でもッ!)


 両手が震え、瞼からは涙がしたたってくる。

 その涙が地面に落ちるのと同じように、男児の足元に涙がぽたぽたと落ちる。その様子を見て、波音の奮い立った勇気は、殺気はすっかりくじけ、その場に座り込んでしまう。

 乾いた音をして、包丁が転げ落ちる。


「……だ、誰?」


 その音に泣いていた男児が顔を上げる。改めて間近で見たその顔はたしかにあの悪魔のもののはずだった。しかし波音の前にいたのは、親の愛情に飢えて泣いているただの子どもだった。

 波音はそっと手を伸ばし、彼を抱きしめる。


「……ごめん、……ごめんねぇ……。寂しかったでしょ……? つらかったよね……?」


 波音が声をかけると男児はビクリと身体を震わせ、大粒の涙を流して慟哭した。その背中を、波音は自分の持つ全ての優しさをもって強く抱いた。

 男児の慟哭がおさまった頃、波音は腕の中の男児を見つめ、悟った。

 それは、黒サンタが波音の自室にいた時に感じた、あの嫌な予感だった。


「ねぇ、……君。……これから、ここで私、きっと殺されるの。……だから、君はせめてあの陰に隠れていて。……わかった?」


 男児が不思議そうに波音を見つめ、それでも首を縦に振った。男児が物陰に去った時。


「ひゃははははははあああああああああああああああ!!!!」


 もう二度と聞きたくなかった笑い声が、その場に響いた。

 金属錠が鈍器で強引に壊される音が聞こえ、けたたましい音を立てて扉が開く。


「見つけたああああ見つけたああああああ!!!! この時、この場所でえ、俺はお前に会っていたんだああああああああ!!!ひゃっはああああああああ!!!」


 男が相も変わらず下卑た仕草で歓声を上げるのを、波音は黙って聞いていた。


「そう。……で、私を殺すなら、早くして」

「あああああん? なんだその口のきき方はあああ!!!!! てめええええ風情があああああああ!!! 調子にのんなよおおおおお!!!」


 男の刃が波音の身体を切り裂き、鮮血が舞う。それでも波音は、その視線を崩さず、


「……可哀そうな、や、つ……」

「うるせええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」


 突き刺し、殴り、何度も傷口をほじくるようにして波音へ苦痛を与える。それでも歯を食いしばるだけで動じない波音へ、男は感情をむき出しした。


「くくこのクソああ女あがあああああああああああああああああああああああ!!!!」


 刃物を波音の目前に突き立て、


「もうううう助けはこねぇええええええぜえええええええええ!!!! 死ねえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」


 それを振り下ろす。

 今度こそ、波音は終わりを覚悟した。


 ザクッ。


 肉に金属が突き刺さり、細胞を傷つける嫌な音がした。

 しかし、その男の突き立てた刃物は、波音の皮膚には触れていなかった。何かによって遮られ、波音を傷つけることができなかったのだ。

 目を開けて、波音は驚愕する。


「あ……あ……君……! ……なんでッ!?」


 男の刃物が刺さっていたのは、男の幼少期そのものである男児の背中だった。


「……へ? ……あ、……え?」


 たった今何が起こったのか男は理解できていないようで、うろたえている。

 その横で、男と全く特徴が一致する顔をした男児が波音に言う。


「ひゃ……お姉ちゃん、を、……殺すヤツ……お、……俺が……あ、……殺」


 男児が身体に力を失い、倒れる。

 男は倒れる男児の顔を見て、その次に自身の大腿部に突き刺さった包丁を見て、ようやく事態を理解する。

 そして、発狂。


「ひゃ、……ひゃははは、ひゃはははあ!! 嘘だあああ!! 俺があああああ俺ををををををををを!? ひゃ、ひゃ、ひゃがぎゃああああああああああああああああああああ!!」


 男の身体が光に包まれ、断末魔の叫び声が納屋に響く。そして、そのまま男も、その声も残響すら残さずに消滅した。


 「……あ……あ……」


 波音は倒れる男児に近づき、その亡骸を抱きしめて泣く。


 その背後で、誰かの笑い声が響いた。


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