第78話

 夕食後、その後片付けをして、お風呂に入ってから、部屋着に着替えてリビングに戻ると、父がお酒を聞こし召しながら大和と将棋をしているのが見えた。それを、岡目八目で、弟がそばから見ている。


「うーん、強くなったな、大和くん」


 リビングのソファに腰をかけた父が、目前にあるテーブル上の盤面をにらみながら言う。


「おじさんに鍛えられましたからね」


 大和が言うと、父は将棋盤に伸ばした指をまた引っ込めた。


「そんなに鍛えた覚えは無いがなあ」


 父は、うんうん唸りながら、盤上の戦をいかにして勝利に導くか、難しい顔で熟慮を始めた。


 既に時刻は九時を回っている。


 結子はダイニングテーブルに座ると、そこで通販の雑誌を広げていた母から、お茶を淹れるようにとのオーダーを得た。すぐに立ち上がった結子は、キッチンでお湯を沸かし始めた。少ししてピュイーとケトルの笛が吹かれて、結子は、五人分のアップルティを淹れた。立ち昇るかすかなリンゴの香気が甘やかである。


「参りました」


 母に給仕したあと、リビングテーブルに三人分のカップを運んで行くと、父が深々と頭を垂れている姿に遭遇した。どうやら父は戦に負けたらしい。将棋なんていう頭を使いそうなゲームに、どうして大和が勝てるのか、結子は不思議だった。


「あんた、頭悪いのにさ」


「そう見せてるだけなんだよ。『能あるハゲタカは爪を隠す』って言うだろ」


「――それが、ユイコが聞いたヤマトの最後の言葉であった」


「ええっ! なんでオレ、死ぬ感じになっちゃってんだよ!」


 弟が少し冷ましたアップルティを一息に飲み干すと、


「次はボクの番だね、大和兄ちゃん! 一緒にゲームして!」


 しゅたっと手を挙げた。


 カップに唇をつけていた大和はそれをソーサーに戻してから、よしっ、と座っていたソファから立ち上がると、弟に引っ張られるようにして、リビングを出た。弟の部屋に行くのである。


「たまに来るいとこじゃないんだから」


 大和の人気ぶりに、空っぽになったカップたちをキッチンに導いた結子は呆れたように言った。


「大和くんは面倒見がいいから」


 母が言う。そうして、


「大和くんだったら楽よねえ」


 続けられた言葉を無視する格好で、自室に下がる許可を貰った。廊下に出て階段を昇っていくと、弟の部屋から何やら楽しげな笑い声がする。この頃流行っているカードゲームでもやって楽しんでいるのだろう、と結子は思いつつ自室のドアを開けた。


 暗闇に電気を灯してから、ベッドにごろんと横になる。七月下旬の夜気がちょっとじっとりしているので、部屋のクーラーを「ドライ」にしてつけた。光に魅かれて小さな虫が入って来るので、夜は窓を開けられない。


 その窓越しに結子は月を見上げた。


 中天に、ふっくらとした輝きがある。


 今頃、同じ月を恭介も見ているのだろうか。そう思うと、無性に恭介と会いたくなった。今、何をして何を考えているんだろう、と、思わず手にした携帯電話で電話をかけてみようかという強烈な誘惑に駆られたけれど、どうにか思いとどまった。電話をかけてどうするというのか。何も話すことなどできなくて、ただの無言電話になるだけだ。結子は、ぽいっと放り投げた携帯を、しかしちょっとするともう一回手にして、


「今すぐ会いに来て」


 というメールを打ってみたらどうなるだろうか、と真面目に考えた自分にゾッとした。


 結子はもう一度携帯を放り投げてから、月を眺めた。


 眺めた月に叢雲むらくもがかかる。


――明日、会いに行こうかな……。


 そんな気になったけれど、会ってどうすればいいのだろうか。


 結子は、大和との間に単なる幼なじみという関係を超えたつながりがあることを認めた。そんなつながりがいつからできてしまったのか不思議だけれど、そこは問題ではない。関係は認めたわけだけれど、でもだからと言って、この前のデートの時の恭介の行為は許せない。


 許せない自分に対して、恭介は謝ってくれるだろうかと考えれば、それはどうにもおぼつかない。そもそもが、


――キョウスケは悪くないし……。


 ということを認めるのにやぶさかでないところまで結子の気持ちはクールになっていた。


 悪くないのであれば、恭介は謝る必要は無い。必要は無いし、謝ってほしくもない。


 しかし、だとすると、一体どうすればいいのだろうか。こっちからは謝れない上に、あっちの謝罪を求めることもできないとしたら、これは全くの手詰まりである。厄介極まりない。


 結子は、はあ、とため息をついた。


 いつの間にか、隣の部屋から笑い声が消えている。


 その静寂を打って、ノックの音が聞こえてきた。

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