第79話

 応えると、顔を見せたのは大和ヤマトである。


「入っても?」


 律儀な声に、体を起こした結子ユイコは承諾の言葉を返した。


「いつまでいるのよ」


 時計の針は十時に近い。


「もう帰るよ」


 そう言いながら大和は、ラグの上にあぐらをかいて、物珍しげに室内を見回すようにした。


「久しぶりだなあ、この部屋に入るの」


 結子は、恭介キョウスケと付き合い始めてから、大和を家にあげることはあっても、部屋にあげることはなかった。大和も上がろうとはしなかった。それが今来たということは、何かしらの特別な意図を含んでいるのだろう。


「何か用?」


 その意図が想像できるような気がする結子はわざと冷淡な声を出したが、そういう結子の意図自体を見抜いているような顔で、というか何にも考えてなさそうな顔で、


「なんか女の子っぽい匂いするな、この部屋」


 大和は言った。


「ぽいって何よ。まさに女の子がここにいるんですけど」


「オレにできることがあるだろ」


 大和はいきなり言った。


「無いよ」


 結子もいきなり答えた。


「だったら、何か作れよ」


「どういうことよ」


「そういうことだよ」


 大和から通ってくる情があって、それは心地よく結子を温めた。


 しかし、その温度は、彼ではないということをはっきりと語っていた。


 結子は、よっとベッドから降りると、大和の前に両膝を揃えて座った。


 間近で正面から大和と見つめ合うことになった結子は、彼が綺麗な瞳をしていることを認めた。


「小四のときさあ」


「ん?」


「わたしにプロポーズしたこと覚えてる?」


「オレは今まで誰にもプロポーズなんかしてない」


「うおいっ!」


「それで? したとしたら?」


「したらって、たくう……覚えてないんじゃ訊いてもしょうがないわ」


「試しに訊いてみろよ」


「本気だったのかどうか訊きたかっただけだよ」


「本気だったよ」


 そう言った大和の目が微笑んでいる。


 結子はムッとした。「覚えてたの?」


「いや、覚えてない」


「おいっ!」


「覚えてないけど、オレがユイコにしたことだったら本気に決まってるだろ」


 不覚にも結子はその言葉に胸を鳴らしてしまった。


「あんたなら良かった」


「……ん?」


「ヤマトなら面倒が無くて良かったなって」


 結子は自分の口からするりと出てきた言葉に驚かなかった。大したことを言っているわけではないからである。それはもしかしたら大したことなのかもしれない。他人からすれば。しかし、大和に対しては何らの重要性も持たないことが分かっていたし、もちろん、持たせたいという気持ちから言った言葉でもなかった。


「ばーか」


 大和は軽い声で答えると、しかし、目に硬質な光を溜めて、


「二度と言うなよ」


 そう続けて、結子の額にデコピンを放った。


「はい」


 おデコが痛むのを感じながら、結子の答えはしっかりとしている。


 大和は立ち上がった。「じゃ、帰るわ」


「ヤマト」


「ん?」


 結子は、部屋を出ようとしている大和に声をかけて、振り向かせた。


「ありがとう」


 大和は、何とはなしに頬をかいた。


「大根おろすときはいつでも言ってくれ」


 結子は首を横に振って、「今度は自分でおろすよ」と答えた。


「そっか」


「でも、もしかしたらまたしてもらうかもしれない。その時はよろしくね」


「いつでも言えよ。アスカに拘束されてるとき以外はヒマだからな」


 結子はうん、とうなずいた。そのあと、


「『以外』があるってことはまだまだ拘束され足りないんじゃないの? アスカに言っとくよ、もっと縛ってあげなって」


 明るい声を出すと、


「いや、ソレ、マジでやめ……あっ」


 大和はそこで何かを思い出したような顔になって、「やべえ」と小さくつぶやいた。


「何かわたしにできることある?」


 大和は救われたような顔になって、


「アスカにメールするの忘れてたんだよ、どうすればいい?」


 言った。


 結子は考える振りをしてから、「『愛してるよ』ってメールしな」とアドバイスした。


「はあ?」


「そうすれば怒りがおさまると思うよ、アスカなら」


「そんな恥ずかしいこと書けるかよ」


 結子は、ちょっと携帯貸して、と手を差し出した。


 渋る大和に、


「いや、やんないから。あと、メールを覗いたりしないから」


 言う。


 大和の携帯を手にした結子は、「新しい機種にしないの?」などと訊きながら、メールソフトを手早く操作した。


「よし!」


 そうして、大和に携帯を返す。


「何したんだよ?」


「アスカに、『好きだよ』って送信しておいた」


「おいいいい! 何やってんだよ! それやらないって言っただろ! 『愛してる』とは書いてない、とかそういうノリだったらマジで怒るからな!」


 結子は、まあまあ、となだめるように両手を前に出した。


「ねえ、ヤマト。わたしが女の子だってことは認めるよね」


「だったらなんだよ!」


「女心は女の子には手に取るように分かるの」


 大和の携帯の一部がピカピカと光って、メールの到着を告げた。


 それを結子が指摘すると、大和はおっかなびっくり携帯電話を確認した。


 確認して、一言。


「ユイコ……」


「ん?」


「今度いろいろ訊いてもいいか? 女心について」


 結子は、もちろん、とうなずいて、すっかり悩みが晴れたような顔をした大和を玄関先まで送っていった。

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