第40話

 話を聞いたところによると、昼休み中に教室で気を失った結子ユイコは、恭介キョウスケによって保健室まで運ばれたらしい。そう言えば、男の子の背中の頼もしい感触をうっすらと覚えている気がしないでもない。あれは恭介だったんだ! 結子は自分自身にがっかりした。折角好きな人に背負ってもらったというのに、その記憶は漠としたもやの中である。今度はしっかり意識があるときにおぶってもらおう。どういう状況であればそんなことになるのかは全く分からないものの、とりあえず結子はそう心に決めた。


 恭介はずっと付き添ってくれていたようだ。その愛情溢れる振る舞いに結子は頬を染めながらも、おかしな寝言を言ってなかっただろうか、とか、いびきをかかなかっただろうか、とか、寝顔が変な顔で彼をがっかりさせたのではなかろうかとか、そんなことを考えてしまって頭が痛くなってきた。


「大丈夫か?」


 心配そうに声をかけてくる恭介に、結子は力強くうなずいた。


「乗り越えてみます」


「乗り越える?」


「こっちのこと。それより付き添いなんて、よく先生が許してくれたね」


 授業を受けない理由が「カノジョが心配だから」では、保健室の先生と担任を納得させられないだろうことは火を見るよりも明らかである。とすれば、何らかイレギュラーな手段を採ったということになる。


 恭介は珍しく言葉を濁した。先ほど先生に向かって強い声を上げたことといい、今日はカレシの色々な面が見られていい日だなあと思いつつ、結子が、どうせすぐ分かることだよ、と軽く脅してみせると、


「許してくれなかったよ。すぐ帰るように言われた。でも帰りたくなかったから、仕方なく、オレも気分が悪いからここで休ませてもらいたいって言ったんだ」


 恭介は言いにくそうな様子で答えた。


 なるほど、と結子は納得したが、そんなあからさまなウソを許してくれるあたり、保健室の先生は優しい。目覚めたらすぐに知らせるという条件で結子を診ていることまで許してくれたというのだから、よっぽどである。


 恭介は決まり悪げな顔をしていた。結子は微笑んだ。およそ恭介という人はウソをつくような人ではない。マジメ一点の堅物というわけではけっしてないけれど、彼の芯の部分は誠実さで作られている。自分を誤魔化したり飾ったりするところが一切ない。そういうところが好き。彼が自分の性情を裏切ってまで、カノジョの為にウソをついたということは、結子にとっては嬉しかった。そして、それは同時に悲しいことでもある。


 結子は微笑を収めると、目線を上げて、壁にかかっている時計を確かめた。六時限目はまだ半分ほど残っている。結子は先生の願いを容れて、恭介に向かって教室に戻るようにと告げた。


「わたしは大丈夫だから」


 恭介は断固として首を横にした。


「いいから戻って。キョウスケのクラスの六時限目って、なに?」


「国語」


「それは……是非、受けないと」


「国語の授業は受けてもムダだって、いつもユイコ自身が言ってるだろ」


「そうだったっけ?」


「そうだよ」


「覚えてないなあ。ああ、アタマがイタイ」


 結子は大げさな声を出したあと、授業時間に内職したりノートに落書きしたりするのはともかく、授業自体をサボるのはよろしくない、と説いた。しかし、恭介はそれでも、嫌だと言い張った。ここで結子の母が来るまで待つと言う。いつもの柔らかさをすっかりと脱ぎ捨てたような頑固さである。


「お母さんと会うことになってもいいの?」


「構わない。もうお父さんとは会ってるし。この場でご挨拶するよ」


 恭介は全く動じない様子を見せた。


 家族に会わせようとして、学校から家までの途上でひそやかに続けてきた努力は一体何だったのだろうか、と結子は人生の不条理を思った。


 校内放送がかかった。どこかの先生が職員室に呼び出されたらしい。


 あくまでカノジョのそばにいるんだと頑張るカレシに対して、嬉しい気持ちが高まる一方で、結子はちょっとイライラしてきた。何でわたしの気持ちを分かってくれないのか、と考えれば他でもない。言葉にしていないからだ。結子は、自分の心底に沈んでいた悲しみを、ぶちまけることにした。


「キョウスケがこのままここにいたら、わたしがサボらせたことになるでしょ。もう既に五時限目をサボらせてるし、ウソもつかせてるし。そういうのはイヤ。だから、わたしのためを思ってくれるなら、今すぐ帰ってください」


 助けてもらっておいてこの言いぐさは無いだろう、と何もかも言ってしまってから思った結子だったが、オブラートに包んでいるような余裕は無いし、このくらい言わないと恭介はテコでも動きそうにない。そうして、動きそうにないどころか、実際に動かなかった。


 恭介は、結子が嫌だろうと関係ない、と静かな声で言うとベッド脇の椅子に腰かけた。


 結子は小さく天を仰ぐと、「じゃあもう勝手にしてください」と投げやりに言って、ベッドに横になった。寝具を引っ付かんで頭までかぶせ、ふて寝スタイル。何という分からず屋だろうか! これじゃあ、まるで……まるで、そう……まるでわたしみたいだ。カレシの中に自分と共通する性質を発見した結子は、喜んでいいのか悲しんでいいのか、微妙な心もちのまましばらく横になっていた。

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