第39話

 うっすらとした視界に天井が映った。いつも見ているものとは違う天井である。


――どこだろ、ここ……?


 まわりを見ると、どうやらベッドに横たわっているようだ。白い清潔な寝具が目に入った。さっきまで教室にいたハズだけど、どうしたんだろう。そう思いつつ首をひねると、すぐ近くに男の子の顔が見えた。ベッド脇の椅子に腰かけてこちらを見ている。乙女の寝顔を横から覗き見するとはどこの破廉恥少年だ、と寝起き早々に憤った結子だったが、すぐに怒りの気持ちは恥ずかしさに取って代わった。


「気がついたか、ユイコ?」


 心配そうな色を含んだ繊細な声が降る。


 結子は胸元までかけられていたかけ布団の端を両手でひっつかむと、ぐいっと引きよせて、顔の下半分を隠した。起きぬけの間抜けな顔は、誰にも見られたくないのはもちろんだけれど、中でも見られたくない相手というものがいる。


 結子が半分顔を隠した状態でじっとしていると、彼は、のどが渇いていないか訊いてきた。言われてみれば、カラカラである。結子がこくりとうなずくと、少年はサイドボードにあった水差しからグラスに水を注いでくれた。


「起きられるか?」


 一瞬、優しく背中に手を回してもらって起こしてもらいたいなあ、と思った結子だったが、彼とはそこまで気安い間柄ではない。これがクサレ縁の彼だったとしたら、そんなこと言っている間にさっさと起こせよ、と言っているところだが。結子は苦労して体を起こした。何だか体が重い。


 渡されたグラスで喉をうるおすと、生き返ったようになった。


「ありがとうございます、王子」


 自分では透き通った声を出したつもりだが、出たのはガラガラ声である。眉をしかめた結子の前で、少年は怪訝な顔をしている。


「大丈夫か、ユイコ? オレ、誰だか分かる?」


 結子はグラスを持ったまま大きくうなずくと、


「はい、モチロンです。あなたはファンタジー国の第一王位継承者であり、わたくしはあなたにお仕えする端女はしためです」


 すらすらと言った。少年はハッとして席を立った。


「そこを動くなよ。今、保健室の先生呼んでくるから」


 結子はニヤニヤした。


「冗談よ、キョウスケ」


 つまらないジョークを飛ばしたカノジョに向かって、恭介は少し睨むような目をしたが、すぐにその瞳は柔らいだ。


「気分は?」


「スゴクいい」


「本当か?」


「うん、あなたがそばにいてくれるから」


「オレがそばにいても熱は下がらない」


 つれない言葉を聞くと、結子は、恭介の手が自分の額に伸びてくるのを見た。


 結子は、熱を確かめようとするその手を、反射的に避けた。


 恭介はちょっと傷ついた顔をした。


「いや、だって、汗かいてるからさ」


 結子が言い訳すると、


「そんなの気にしないよ」


 と分からない言葉が返された。そっちが気にしなくてもこっちが気にするのである。触れられるのは嬉しいけれど、もっとノーマルなときにしてもらいたい。結子は、再び手を伸ばされるのを避けるように、


「それで、今、何時限目?」


 訊くと、六時限目だという答えが返ってきた。とすると、お昼休みの時間から数えて、二時間弱眠っていたことになる。先ほどの恭介のセリフから推して、どうやらここは保健室であるようだ。


「わたし、どうしちゃったの?」


 どうしてこんなところに来てしまったのか、尋ねたところで、ベッド周りのカーテンがシャッという音を立てて、開いた。カーテンの向こう側から、白衣を纏った三十くらいの女性が姿を現す。保健室の先生である。かすり傷で何度かお世話になった覚えがあった。


 先生は、起き上がっている結子を見たあとに、恭介に批難の視線を送ると、


「本田くん。小宮山さんが気がついたらすぐに知らせるようにって言ったでしょう」


 言った。それを聞いた恭介は、今気がついたかのような調子で、謝った。


「……まあ、いいけど。さ、じゃあもう、あなたは教室に戻りなさい」


「嫌です」


「そう、嫌なの……って、え?」


 先生はびっくりしたような顔を作った。


「ここにいて、小宮山さんを見てます」


 恭介の口調は淀みない。


「何言ってるの? あなたがいてもしょうがないでしょう。さ、戻りなさい」


「じゃあ、まだ僕も気分が悪いってことにしておきます」


「どこからどう見ても健康そのものなんだけど」


「心の病です」


「本田くん!」


「嫌です。僕はここを離れません。どうしても離したいなら、体育の先生でも呼んで来て、力づくでやってください」


 結子は、二人のやり取りをぼんやりと聞いていた。何だか話が良く分からないが、恭介が強い声を出すのを初めて聞いた。しかも、それがどうやら自分が原因であるらしい。


 先生は、はあ、とため息をつくと、説得するのを諦めたような顔で、恭介の横をすり抜けて、結子に体温計を渡した。結子が体温を測って先生に返す。先生は、数値を確認してから、


「いま、お母さんが迎えに来てる。それまでここで休んでらっしゃい。それから、もし余裕があるなら、あなたのカレシくんを教室に戻るように説得してくれる? 本田くんはもう既に五時限目をサボってるのよ」


 そう言って、カーテンを閉めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る