第41話

 結局、母が来るまでには六時限目が終わっていた。母は、娘が倒れたとき、お隣さんと人気店でランチを楽しんでいたらしい。その店が家から少し離れたところにあったので、結子が倒れたことの連絡自体はすぐに母の携帯電話に行ったものの、すぐに駆けつけられなかったということだ。娘が体調不良であることは朝の時点で分かっているのにもかかわらず遊びに出掛けるとは、さすが我が母である、と結子は感心した。


 保健室に、息せき切ったりせず悠然と入って来た母は、娘の近くにひとりの少年が寄り添っているのを見た。少年は立ち上がると、母親を娘のそばに通すため、一歩退いた。母は、彼が娘にとってどういう子か分かったような微笑を浮かべると、


「気分はどう? 結子?」


 体を起こしている娘に尋ねた。結子は、母がいつもの呼び方で自分のことを呼ばなかったことにホッとしつつ、


「ちょっと頭が痛いのと、あと、分からず屋に対してイライラしていること以外は平気」


 答えた。


「立てる?」


「多分ね」


 床に揃えて置いてあった上靴に足を入れて立つと、少しふらついた。横から母に支えられた結子は、


「大丈夫だから、放して」


 その手を押しのけるようにした。十四歳である。人前で子ども扱いはやめてもらいたい。


「大丈夫だとは思えないけれど」


「お母さん」


「ハイハイ」


 母は娘から手を放すと、保健室の先生に礼を言った。それから先に立つと、危なっかしげな様子の娘を、しかしもう手助けしようとはせず、クラスメートが届けてくれた結子の学校指定カバンを肩にして、さっさと廊下に出た。


 結子がゆっくりと歩き出そうとすると、すぐに隣から手が取られた。恭介である。結子は、まともにムッとした顔を向けてやったが、彼は全く気にしていない様子で、


「手が嫌だったら、また背負ってもいいけど」


 真面目な顔でそんなことを言ってきた。「おお、早速、好機到来かニャ」と一瞬思った結子だったが、保健室を出て母の車までいくルートは人目があり過ぎた。結子はおんぶを断った。


「じゃあ、このままでいいね」


 恭介が手に少し力を入れるのが分かった。


「いつもは嫌がるのに」


「いつ転ぶか分からない状態だったら、いつだって嫌がらないよ」


「じゃあ、もっとか弱い体だったら良かったなあ」


「行こう」


「いいえ。大丈夫だから放して。一人で歩ける」


「二人でも歩ける。そうだろ?」


 いつもの恭介らしくもない強引さである。そう言ってやると、


「ちょっと怒ってるからね」


 固い声。結子は、自分が何か怒られるようなことをしただろうかと考えたが、熱のせいか上手く頭が回らなかった。なので、率直に訊くと、


「ユイコにじゃないよ。自分自身にだよ」


 という答えが返って来た。それから、恭介は保健室の先生に向かって、色々と無理を言ったことを謝罪した。先生は肩をすくめるようにした。結子は、恭介が何を怒っているのか訊きたい気持ちはあったが、頭が痛くて、話したり考えたりするのが億劫になってきたので、やめた。詳細は後日。レポートにまとめておいてもらっても良い。


 廊下に出て待っていた母は、娘の手を取っている男の子に向かって、


「車までお願いできる。本田くん?」


 言って、結子の顔を渋くさせた。「結子には自分で歩かせるから、大丈夫よ」と母が恭介に言ってくれるのを期待していたのである。恭介は、自分の名前が呼ばれたことに対してびっくりしたようだが、すぐに、はいと言ってうなずいた。どうして恭介のことが分かったのか、あとで母に聞いてみたところ、「だって、名札に名前が書いてあるでしょ」としれっとした答えが返ってきた。


「キョウスケは教室に帰らないといけないでしょ」


 結子は一応の抵抗を試みてみたが、


「車まで送って行ったら、ちゃんと帰るよ」


 無駄だった。


 保健室を出て廊下を渡っていくと、六時限目の後は掃除の時間、結子は、ほうきやぞうきんを装備した少年少女たちに思う様、無遠慮な視線を向けられた。


「わたしの顔、赤くなってない?」


「熱のせいだろ」


 恭介は素っ気ない。


「もう本当に大丈夫だから」


 下駄箱で上靴を下足のスニーカーに履きかえたとき、もう一度言ってみたが、彼は断固として結子の手を取り続けた。結子はため息をついた。大和との絶交の件について、恭介のアドバイスをことごとく無視して頑なな態度を取り続けてきたことの、その報いを今受けているのかもしれない、と思った。


 生徒用玄関を出て、屋外の掃除をしている生徒たちの冷やかしの視線に耐えながら歩いていくと、やがて来客用駐車スペースへ出た。


「ありがとう、本田くん。これからも、結子のことお願いしますね」


 母は車の前で余計なことを言うと、自分だけ先に運転席へと乗り込んだ。


 結子は助手席に入る前に、カレシに別れのあいさつをした。


「自分で歩けたけど、一応ここまでアリガトウ」


 恭介は苦笑したようである。「どういたしまして」


 結子は、ちらちらと周囲を見回して誰もいないことを確認したあと、恭介に抱きついた。


「ユ、ユイコ……?」


 恭介は焦った声を出した。結子は最後の力を振り絞ってギュッと力を入れて彼を抱きしめてから、すぐに離れると、


「お礼言ってなかったの、思い出した。助けてくれて、ありがとう。それから何かしらの病気が移ってたらごめんなさい」


 言って、助手席のドアを開けた。颯爽さっそうと乗り込みたかったのだけれど、実際は、恭介に手を貸してもらってシートについた。シートベルトだけは何とか自分で締めた。

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