第32話

 目が覚めると、朝である。


 窓辺のカーテンを通して、うす白い光が室内を明るく浸している。


「おはよう、ユイちゃん」


 不意にそばから声がして、結子はどきりとした。ベッドの脇にエプロンを見につけた母の姿がある。いったいここで何をしているのだろうか。


「起こしに来たのよ。大丈夫? うなされてたけど」


 それを聞いた瞬間、結子はガバリと身を起こした。サイドボードの上へと手を伸ばす。そこに置いてあった自分の携帯電話で時刻を確認すると、いつも起きる時間より一時間ほど遅れて起きたことが分かった。結子は青ざめる思いだった。完全に遅刻である。


「ごめん、寝坊した! 今すぐ朝ご飯の準備するからっ!」


 言いざまに掛け布団を蹴った結子が、パジャマ姿のまま部屋の戸に突進しようとすると、


「ユイちゃん」


 と後ろから静かな声。今は一刻を争うとき。父母と弟の食事をすぐ用意しなければいけない。一体何だ、と思ってイラッとして振り向くと、


「朝ご飯はママが用意しておいたわ」


 信じられないような言葉が優しく投げられた。結子は、それをうまく受け止めることができず、訊き返してみた。


「もう一回言って。お母さん」


 母は同じセリフを繰り返した。今度は理解できた。その瞬間、向かい合う母の背から後光が差してみえた。結子は、思わず母に抱きつきたくなった。寝坊した娘に代わって朝ごはんを作ってくれるなんて、何という素晴らしい母親を持ったのだろうか。そうして、結子は、「いや待てよ、なにか変だぞ」と思いはしたのだが、起きぬけで働かない頭では何がおかしいのか良く分からなかった。


 食卓についた結子は、自分が起きると既に朝食が用意されているという魔法に酔った。何だか遠い昔にそんなことがあったような気がするが、うまく思い出せない。それはともかく幸せで胸いっぱい、お腹も一杯にしてからシャワーを浴びて着替えると、もう家を出る時刻になっていた。


 七月の空は気持ちのよい青に染まっている。


 結子は家を出て数歩ほど歩いたところで、足を止めた。隣家の門前につく。インターホンを押して少し待つと、玄関から母と同じくらいの年の女性が現れた。


「まあ、結子ちゃん!」


 女性は、数年ぶりに会った親戚に対するかのような歓迎のビッグスマイルを作ると、「ちょっと、待ってて」と言い置いてから、玄関を開け放したまま家の中に消えた。結子が勝手知ったる隣家の廊下を覗き込みながら待っていると、すぐに、母親に追い立てられるようにして大和が現れた。


「この子をお願いね、結子ちゃん」


 門越しにかけられる大和の母の言葉は、決まり文句である。小学生のときからつい最近まで、結子は大和と一緒に登校しており、その登校前にいつもかけてくる言葉だった。ちゃらんぽらんの息子がちゃんと学校に辿りつけるかどうかよっぽど心配だったのだろう。結子はあいまいにうなずいた。お願いと言われても、さすがにもう一人で学校くらい行けるだろうから、何をお願いされることもないはずである。


「やーれやれだな。やっとオフクロの機嫌が直ったよ」


 歩き出して少ししてから大和がほっと息をつくようにして言った。


「何か怒られるようなことしたの?」


「してない……けど、したのかなあ」


「どういうこと?」


 大和は渋い顔を作ると、


「お前と絶交してたことが、オフクロの気に入らなかったみたいなんだよ。そういう問題じゃないって言ってるのに、『とにかく謝って許してもらいなさい』ってそればっかでさ」


 そう言って、恨みを含んだ目で結子を見た。どうやら絶交期間中に、母親にそれと悟られた大和は、そのことで随分と責められたらしい。


「『女の子に素直に謝れないなんてウチの子じゃない』的なことまで言われたんだぞ」


 結子は満足げにうなずいた。そこはやはり女同士、大和の母は結子に同情的なのだ。


「オフクロだけじゃない。オフクロがガミガミ言うのに便乗してオヤジも怒り出すし。お前のおかげで、親子の関係が危機に陥ったよ」


「わたしのせい?」


 結子はじろりと隣を見た。


 大和は少し気圧されたようである。


「いや、だってさ、お前が何の説明も無しにさあ……」


 声が先細りになるということは、自分が悪かったということを認めているというそのことである。実に結構。


 結子は気を取り直した。


「そんなことより、アスカちゃんの件だけど、失敗したから。どうしたって、わたしと友達にはなれないらしい。わたしはもうこれ以上の努力は無理。それを信じないなら、キョウスケにでも誰にでも頼めばいいわ」


 これを伝えたいがために、今日一緒に登校することを決めたのである。


 大和は神妙な顔で黙り込んだ。それから、ふう、と重苦しいため息をついた。


「お前ならどうにかなると思ってたんだけどなあ」


 結子は肩をすくめるようにした。そんな期待をされても困る。


 しばらくとぼとぼと歩いていた大和は、やがて顔をまっすぐに上げた。


「お前がちゃんとやってくれたことは信じるよ。ありがとう」


 こちらに目を向けて言う。


 結子は、「どういたしまして」と謝辞を受けたあと、


「あともう一つあるんだけど」


 と続けてから、


「勝手にわたしの夢の中に出てこないで。おかげで寝坊したじゃん」


 言った。

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