第33話



「ヤマトはあなたのことが好きなのよ!」


 脳内に、昨日聞いた明日香アスカの言葉がリピートされたのは、その日の四時限目の授業中のことだった。


 国語の授業である。


 一般に国語の授業というものは退屈なものだ。問題を解かせるでもなく、解き方を教えるでもなく、ただ教科書に書かれてある文章の解釈を教師が行っていく。生徒はそれを聞きながら、板書をノートに写すだけ。この受動的姿勢があくびを呼ぶことになる。しかも真面目に聞いてノートを取ったところで、受験の役には立たない。なにせ、教科書に載っている文章は受験には出ないからだ。全くの時間の無駄である。


 その無駄をつぶすため、ほとんどの生徒は、教師の話を一応聞いている振りをしながらも、国語以外の教科を勉強しているのが常。いわゆる「内職」である。受験生ともなれば、一時間でも無駄にすることはできないのだ。教師の方もそれが分かっているのか、「内職」している生徒を見ても、あまり小うるさいことは言わない。


 しかし、結子は淑女を以って自らを任じているので、大方のクラスメートと違って、「内職」などという先生に失礼極まりない行為は差し控えていた。その代わり、ノートの端に漫画のキャラクターの絵を書いたり、乙女心が爆発したポエムを書いたり、カレシのことを想い浮かべてみたりというアーティスティックな行為にいそしむ。そんなことをされるくらいなら「内職」してくれた方がいいと先生は思うかもしれないが、これは礼儀の問題なのだと結子は断ずる。


 その時も一応は板書を取りながらも、ノートの隅にアニメのキャラを描いていた。可愛いキャラを描いていたはずなのに、できあがったものはなんだか不気味な感じになってしまい、「ゲッ」と思い消しゴムでなかったことにしようとしていたときに、不意に明日香の言葉を思い出したのである。


 大和が結子のことを好きだ、と明日香は言った。今つらつらと思い出してみると、それを言ったときの明日香の顔は悲痛な色に満ちていた。カノジョという立場にいる人間が、カレシが他の女の子のことを好きなのだと言わなければいけないその苦しさや情けなさは察するにあまりある。そうして、結子は思うのだ。


 なら言わなきゃいいのに、と。


 結子は明日香に対して同情的な気持ちは無い。引っぱたかれた怒りがいまだ完全に鎮火せずくすぶり続けているということもあるが、それを差し引いても、同じ女の子として共感できるところはない。ゼロである。全くの無。


 大和が自分のことを好き。


 それはそうだろうと結子は思う。しかし、それは明日香が思っているような「好き」ではない。あくまで気心が通じ合っているクサレ縁として好意を持っているというだけの話だ。それが明日香には分からない。彼女には分からないということが結子にはありありと分かる。ところで、分からないものの前では人は謙虚にならなければならない。分からないものがあるということを認め、受け止める。けして、分からないものを自分の分かるように分かろうとしてはいけない。それをやれば本質を見失うばかりか、しばしば誤解を生んで、罪もない少女が頬を張られるという不幸な事態を招く。


 あり得ないことではあるが、仮に大和が結子のことを女の子として好きなのだと仮定してみる。その仮定に昼食前にも関わらず吐きそうになった結子だったが、それに耐えてみたところ、


「それならそれでアスカは別れるべきだ」


 という結論を得た。カレシが他の女の子を好きなのだという確信を得ているのなら、すっぱりと別れれば良い。他の女の子に気持ちがあるような男の子とだらだら付き合うという行為は、自分を安くする、価値を下げる。


 それでも、好きだから別れられないというならば、そのままの相手を受け入れなくてはならない。別れたくはない。でも、好きな男の子のそのままは受け入れられない。全てを自分の思い通りにしたいというのは、子どもの我がままである。


 大人の女は子どもとは付き合わない。ゆえに結子は明日香に同情しない。


 明日香に対する自分の気持ちをきっちりと確認したところで、結子は四時限目終了のチャイムを聞いた。暇つぶしとしてはなかなか面白い思考実験だったけれど、一方で、「アスカが嫌い」という結論を得るためにこれほど回り道をする必要もないように思われた。嫌いなものは嫌いでいい。初老の国語教師が教室を出ると、結子は今日の給食に思いを馳せた。嫌いなものが無いといいなあ。

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