第31話

 夢を見た。


 昔の夢だ。


 夢の中の結子ユイコは小学四年生であり、まだあどけなさの残る、しかし生い先が楽しみな美少女予備軍であり、小学校の教室の真ん中におり、そして同じクラスの男子の髪をギュッとわしづかんでいた。


「や、やめろよ~。何すんだよ~」


 髪をつかまれた男の子が悲鳴を上げる。しかし、結子がそんなことに頓着するような甘い女ではないことは前述の通り。結子は構わず男の子の髪をむんと引っ張ってやると、「痛い、痛い!」という情けない声が立て続けに上がった。


「ボクが何したって言うんだよ~」


 頬をぷくぷくさせた男子が、結子の手をどうにか外そうともがきながら、哀れな調子で言った。


 結子は、彼の頭をひっこ抜こうとでもするかのような勢いで髪を引っ張ると、彼を教室前まで引きずっていき黒板に押し付けるようにした。黒板には、女の子と男の子が仲良く手をつないで歩く姿が大きく描かれており、それぞれの子の体のところに小宮山結子と岩瀬大和ヤマトの名前が大書されてあった。


「コレ書いたのあんたでしょ。今すぐわたしに謝らないなら、あんたのほっぺたを黒板消し代わりにしてその絵を消してやる」


 そう言うと、結子は早速、彼の顔を黒板に押し付けようとした。


「目には目を、いたずら書きには鉄拳を!」


「そんな諺ないよ~」


「ウルサイ」


「やめて、やめて、謝るから」


 男の子の必死の声が上がったが、結子は無視した。結子は謝罪そのものが聞きたいのであって、「謝罪する」という宣言が聞きたいわけではないのだ。あわれ、男の子の頬は黒板によってむにゅりとつぶされた。


「謝れ」


 結子が手に力を込めると、その手と黒板にサンドイッチされた男の子は慌てて言った。


「ご、ごめんなひゃい」


「聞こえない!」


「ごめんなひゃい!」


「はっきり発音しなさい!」


「無理だよ~。ごめんなひゃい~」


 結子はフンと鼻を鳴らすと、彼の髪から手を放して、両手を払った。そのあと、黒板を消すように指示すると、男の子は涙目で黒板消しを手に取った。事態の成り行きを遠巻きに見守っていたクラスメートたちは、一応の解決を見て、ほっと息をついた。


 そんな中、結子が、黒板がちゃんともとの美しいグリーンになるか目を光らせようとすると、


「なんの騒ぎ?」


 後ろから声がした。


 その能天気な調子に、下火になった結子の怒りは再び燃え上がった。


 振り向いた結子の前に、少年がひとり立っていた。大和である。本来であれば、結子の役回りを演じなければならなかった子だ。本来の結子の役回りは、彼を止めること。落書き少年に対して注意の声を上げる大和の傍らで、結子は、「大丈夫だよ。わたしだったら気にしてないから」と軽やかに言う。幼い恋心を刺激されて暴走しようとしている少年を止め、あまつさえ静かに手ずから黒板消しを取る。結子は落ち着いた大人ぶりを周囲にアピールする。


 その期待を裏切る形で事が終わってからのこのこ現れて、しかも、


「ああ、そういうことか。そんなことでいちいち怒ることないのに」


 と、結子の元々の役回りを奪うかのような発言までしたので、


「ふざけろ!」


 結子は、さっと大和に近づくと、彼の胸倉を絞り上げた。長い付き合いのせいである。むかつくことに、大和は全く怯えた様子を見せなかった。


 結子は額がぶつかるくらい大和に顔を寄せた。


「わたしたち何てあだ名されてるか知ってる? 『夫婦』って呼ばれてんのよ。それもこれも、ああいうヤツのせいなの。何であんたは怒んないのよ」


「別にいいじゃん」


 大和はひるまない。


「良くないでしょ。何でカレシもいないのに、いきなり夫がいることになるの?」


「じゃあ、結婚する?」


「はい?」


「オレと結婚しよう、ユイコ」


 結子は、大和の胸元から片手を離すと、その同じ手でとりあえず大和の額にデコピンしておいた。


 大和はそれを承諾のサインと受け取った。「OKだな?」


「そんなわけないでしょ!」


「何だよ。みんなにからかわれるの嫌なら、本当にそうなればいいじゃん。本当にそうなればからかわれることもないだろ」


「やめてよ。みんなにからかわれたから、プロポーズするなんて聞いたこともない」


「前代未聞さ」


 カッコよく言い直して何やらご満悦の大和少年から一歩離れると、結子は深々と頭を下げた。


「ごめんなさい」


「えー! 何でだよ。別にいいじゃん。この前、一緒に風呂入った仲だろ」


 ショッキングピンクなセリフに周りが湧いた。彼の言うところの「この前」というのが、幼稚園時代であるという事実を言っても聞こえないほど周囲のボルテージが上がる。さすが、我が好敵手。熱砂のようにちりちりした心の中で、結子は同時に感心していた。こちらを心底からいらいらさせる術を心得ている。彼と付き合ったらそれはそれはストレスフルな生活を送れることだろう。


「だから、結婚しようぜ、ユイコ」


 大和は片膝を折って教室の床につけると、騎士が姫に対するかのようにうやうやしく結子の片手を取った。そのあと、「宣誓! オレ、岩瀬大和は、スポーツマンシップに則って正々堂々、小宮山結子に永遠の愛を誓います!」と教室を震わせるような声を出した。


 結子の体も震え出した。


 そちこちから、パチパチパチパチという拍手が上がった。


 あろうことか、自分の手の甲に唇をつけようとしてくる男の顔を、結子はもう一方の手で思いきり張ったのだった。

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