第19話

 そして、悲劇は繰り返される。


 癪に障ることこの上ないが、どうやらクサレ縁の彼が予想以上に結子ユイコの心の深層に入り込んでいることを如実に示す事件が、立て続けに二つ起こることになる。


 一つ目が、「多すぎるランチ」事件である。概要は、先に起こった「多すぎるケーキ」事件と酷似している。


 それはある梅雨の日の朝のことであった。


 その日は給食センターが休みで、生徒たちは弁当を持参することになっていた。結子はその日の朝、いつもより少し早起きして、イソイソと手ずからお弁当を作っていた。結子は料理上手である。


「料理ができればいい事だらけよ、ユイちゃん。健康にはいいし、食費は抑えられるし、しかも男の子のハートもゲットできる!」


 そういう大義名分の下、小さい頃から母に料理を仕込まれてきたからだ。その仕込み方たるや、一切の妥協を許さないもので、日頃何にでも穏やかな母がこの料理を教えるという一点においては、鬼のごとき形相になった。結子は、「お母さん、顔、コワッ!」と半分泣きそうになりながらも、包丁や火の扱い方、具体的な料理を覚えていった。


 母の本心が明らかになったのは、十歳の誕生日のことであった。その日の夜、プレゼントとともに、結子は、「小宮山家、朝ごはん担当大臣」という非常に名誉な肩書きを贈られた。


「もう一人で大丈夫だとママは確信しました。明日の朝からママゆっくり眠ってるから、ユイちゃんが朝ごはんを作るのよ」


 両肩に手を置いてじっとこちらを見てくる母の目の強さに、結子はうなずくしかなかった。それ以来、小宮山家の朝ごはんはずっと結子が作っている。母は朝ごはんができた頃に起きてくる。


 なんのことはない。母が結子に料理を覚えさせたのは、娘のためなどではなく、自分が楽をするためだったのだ。料理を教え始めたのが結子が五歳の頃のことだから、それは実に五年がかりの遠大な計画であったわけだが、娘が朝ごはんを作るようになってもう四年が経つのだから十分に元は取れたといえよう。


 既に一家の主婦並みの腕に達している結子は、朝ごはんの用意をしながら、手早くお弁当箱におかずを詰めていた。いつもはそのおかずは昨夜の残り物になるのだが、今回はそうはいかなかった。なにせ自分の分だけを作るわけではない。


「明日は、キョウスケの分のお弁当はわたしが作ってあげるからね」


 前日カレシに向かってそんな大見得を切った手前、色彩に乏しい貧相なおかずを入れるわけにはいかず、昨日特別に買ってきたゴージャスなおかず達を調理していた。


 異変に気がつくことになったのは、平たく詰めたごはんに桜でんぶでピンクのハートマークを描くという乙女チックをしても、恭介が笑って許してくれるかどうかを真剣に考えていたときのことだった。小学生の弟が寝ぼけまなこをこすりながら起きてきた。洗面してからダイニングテーブルにつく弟に、両親を起こしてくるように命じる結子。そのとき弟はテーブルの上にあるお弁当箱に目をやった。


「なんかたくさんあるね。何でそんなにお弁当作ってるの?」


 不思議なものでも見るような顔でそんなことを言う弟に、結子は、あんたも早くお弁当を作ってくれるカノジョを作りなさい、と返してから、多いのはカレシの分だということを説明してやった。


「お姉ちゃんのカレシって二人いるの?」


 弟は出しぬけにとんでもないことを言い出した。純心百パーセント、まじりけなしの乙女が二またをかけるなどということがあり得ようか。結子は冷たい目で弟をにらんだ。弟はちょっとひるんだようだったが、それでも不服そうな顔でテーブルの上に指を向けた。その指の先を追って、ほわほわと湯気を上げているランチボックスに目をやった結子は、思わず息を呑んだ。ひい、ふう、みい、よー、いつ。改めて数えてみたお弁当箱は何と五つもあった。


――落ちつけ、ユイコ。


 自分に言い聞かせた結子は深呼吸などしてみた。ゆっくり吸ってゆっくり吐いてを三回繰り返す。もしかしたら、ランチボックスの数が減ってくれるのではないかという淡い期待を抱いたが、もちろん無駄であった。結子は絶望の深く暗い淵に落っこちて行きそうになったところ、どうにかその淵の端をがしっとつかんで落ちるのを免れた。今日はまだこれからいろいろと活動しなければいけないのである。学校に行って、カレシといちゃいちゃしたり、カレシとラブラブになったり、カレシをからかったりしなければならないのだ。そうそう落ちこんではいられない。結子は何食わぬ顔で、お弁当箱の数は規定通りである、と返した。


「わたし、わたしのカレ、あんた、お父さん……そして、お母さんの分」


 弟は首を捻った。「お母さんの?」


「そうよ」


「でも、お母さん、今日のお昼はマユコ小母さんとランチを食べに行くって言ってたよ」


 結子は内心舌打ちした。ママ友とひとり優雅なランチに出かけることをなにゆえ家族に対しておおっぴらにしてしまうのか。そういう主婦の楽しみ的なことは、へそくり同様、隠しておくのが普通だろう。我が母ながら相変わらず読めない人である。


 結子はあどけない顔をした弟のその肩に手をおくと、ぐいっと回れ右させて、さっさと母と父を目覚めさせてくるように言った。弟は肩越しにお弁当の列に目を向けて未練ありげな様子だったが、


「早く行かないと、あんたのお弁当にでんぶでハートマーク作ってやる」


 姉の愛を押しつけてやろうとすると、両親の寝室へと飛んで行った。


 結子は両手を頬に打ちつけて気合を入れた。


 弁当の列をじっと見る。


 自分の分。


 愛しのカレシの分。


 同じように給食センターが休みでお弁当の日になっている小学生の弟の分。


 父の分はいつも通り。父のお弁当はいつも結子が作っている。会社の部下からは、「いいっすね、愛妻弁当」と羨ましがられているらしい。愛娘弁当だと言うと、なお羨ましがられると言う。


 そして、最後の一つ。


 言うまでもなくそれは母の分などではなく、現在絶交中のクサレ縁の男の子、大和ヤマトのためのものなのだった。

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