第20話

 もう一つの事件も、同日に起こった。


 カレシに手製の弁当を渡した結子は、


「今まで食べたお弁当の中で一番うまかったよ」


 という、気持ちはよく分かるのだがちょっと微妙な褒め言葉――というのも、これまで食べたお弁当というのは母親に作ってもらったものだろうから、それと比べられてもという気がする――を、お昼休みの終了間際ランチボックスを返されながら、受け取った。それでも好意は伝わったので気をよくした結子は、今朝の事件のことを冗談交じりに恭介に話した。友人に話すのはやめておいた。前回同様、ドジっ子アピールだと思われるのはつまらない。話を聞き終わった恭介はひとしきり同情の言葉をかけてくれたあと、


「で、いつまで絶交状態でいるつもりなんだ?」


 と、口に出してこそ言わなかったが、軽い批難の色を映した瞳がそう言っているように結子には思われた。その固めの色に耐え、結子はそのままじいっと恭介の目を見返した。真面目な顔でずっと見つめ続けていると、やがて彼はふいっと目を逸らした。頬が少し赤らんでいる。可愛い人である。


 うまくごまかした結子は、放課後一緒に帰る約束をしてから自分の教室に戻った。敷居をまたぐと教室のそちこちで嘆きの声が落ちた。自分の存在がクラスメートにとってそれほど鬱陶しいものなのか、と自惚れた結子だったが、さにあらず、みな結子には目もくれず、教室入り口の反対側にある窓のその外に目を向けている。雨が降ってきていた。


 梅雨時なので雨が降るのは当たり前。にもかかわらず、席についた結子は、近くから、


「あ、ヤベ、傘忘れた」


 アホな子の声を聞いた。聞きおぼえのありすぎる声。毎日曇りか雨のこの時期に傘を忘れるとはどこのバカだ、と考える時間をほんの少しも取ることもなく、大和のものであることが知れる。


「別に問題ないだろ。三組のカノジョに相合傘してもらえ」


「そうしてカノジョの方に余計に傘をさしかけてやって、お前は制服の片側をびしょびしょに濡らせ」


「風邪引け」


「相合傘の様子を明日の朝、黒板に落書きするのは任せろ」


 周囲から慰めの言葉を次々にかけられて、大和は苦笑しているようだった。 


 そんな会話を聞くとはなし聞いていた結子は苦笑どころでは済まない事態を迎えることになる。


 帰りのホームルームを終えて、授業から解放されたとき、まだ雨はしとしとと降っていた。約束通り、生徒用玄関前で恭介と合流した結子は、カレシに向かって丁寧に相合傘をお願いした。恭介はぎくりとしたようである。少し間を取ってから、


「ユイコ、どうか誤解しないで聞いて欲しいんだけど」


 慎重な滑り出し。


「なあに?」


 結子は目をパチパチさせた。


 恭介は息を吸い込むと


「いや別に相合傘が嫌だってわけじゃないんだけど、もちろん。ただ、その……ほら、人の目もあるし」


 精一杯の勇気を吐き出した。


 結子は目を細めて、カレシをたじろがせた。たじろぎつつも、


「怒ることないだろ」


 と言う恭介に、結子は静かに返す。


「別に怒ってなんかないわ。ただ迷ってるだけ」


「迷う?」


「そうよ。キョウスケが相合傘してくれないなら、わたしには二つの選択肢が現れる。恋愛ドラマのヒロインが失恋したときみたいに雨に濡れてトボトボと帰るか、それともわたしの魅力をその辺の男子で試してみるか」


 何だか良く分からない。特に後半が。恭介が説明を促すと、


「だからあ、傘が無いんだからさ、濡れて帰るか、それともこの辺で困った顔でたたずんで、『ぼくの傘に入りませんか、そこの美しいお嬢さん』って声を誰か――できればカッコイイ人――にかけてもらうのをひたすら待つことになるってことよ」


 結子はちょっと怒って言った。まさか恭介に相合傘を断られるとは思っていなかったのでショックを受けていたのである。と、その瞬間、恭介はホッとしたような顔を作った。カノジョが怒っているのに何を安堵しているのか。ムッとした結子に、


「傘が無いなら先にそう言えよ」


 と恭介は言いながら、持っていた傘を開いた。


「それ以外でどうして相合傘なんか頼むのよ」


「それは……まあ、そうなんだけど」


「わたしのこと、傘を持っててもカレシの傘に入れて欲しいって言い出すような子だと思ってたんだ。そうして、それを実際にわたしが言ったら、キョウスケは断るってことね」


「スイマセンした」


 冷静に考えれば別に何も悪くない恭介が、しかし素直に謝ると、


「アイスおごってください」


 別に批難する資格などない結子が当然のように言った。


 恭介は傘を二人の上に差しかけた。飾り気のない黒い大きめサイズのもので二人でも悠々としたものである。どうやら、カノジョが傘を持っていなかったからという言い訳が立てば、相合傘をするのに抵抗は無いらしい。


「それにしてもユイコが何か忘れるなんて珍しいなあ」


 歩き出しながら、恭介が言う。


 結子は歩調を合わせながら、傘はちゃんと持ってきたと返した。


「ユイコ」責めるような声である。


「違います。持って来たんだけど、今は無いの」


「盗まれたのか?」


「うーん、ある意味そうかも」


「どういうこと?」


「ヤマトのバカがさ、傘忘れてきたとか言ってたから、あいつのためにね――」


 そこまで言ってから、結子はハタと足を止めた。


 慌てた恭介が傘を差しかけてくる。


 雨は穏やかに振り続ける。


 立ちすくんだ結子はしばらくの間、傘にかかる雨音をただ聞いていた。

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