第17話

 昔の話。


 それはまだ結子が若葉だったとき、感性は瑞々みずみずしく考えは青かった頃の一幕。


 ある日、小学校から帰宅した結子は冷蔵庫の中に絶望を見た。取っておいたハズのカボチャプリンが無い。忽然と消えている。結子はカッとした。キレた。トサカにきた。プリンがひとりでに消えるわけがないのだ。とすれば、話はカンタン! 誰かが食べたに決まっている。人のおやつを盗み食いする行為は、小学二年生の結子にとってはもっとも恥ずべき悪行だった。


 結子は荒々しく冷蔵庫の戸を閉めると、疑いの矛先を弟に向けた。近頃アイツは調子に乗っている。結子より小さいというただそれだけのことでむやみと母の歓心を買い、そのことで図に乗って、姉よりも立場が上なんだと思っているきらいがある。「お姉ちゃんの物はボクの物」的な傲慢で浅はかな考えを持っているに違いない。


 許せん!


 結子は、文字通りの意味で弟を吊るし上げた。


「あんたって子は! よくオムツを換えてやってた恩を忘れたの! 恩をアダで返すなんてっ!」


「ボ……ボク知らないよ」


「ウソ言うな!」


「本当にボクじゃないよ」  


 足先がもう少しで床から離れそうな状態で、弟は涙目になった。結子は泣き顔などに頓着しない。というより、泣けば許されると思っているその態度がますます気に喰わない。イライラがつのった結子は、弟のおしりをひっぱたいて己の罪を悔い改めさせてやろうと思ったが、そこを母に見とがめられた。


「え? カボチャプリン? ああ、あれなら、さっき大和くんにあげたのよ。回覧板持ってきてくれたから」


 結子は弟から手を放すと、何事も無かったかのように、「遊んできなさい」と言って、涙に濡れた少年を外へと送り出した。


 母を恨むのが筋だったかもしれないが、そこはそれ、子どもの無分別、結子の憎悪はお隣の鼻たれ小僧に向けられた。結子は隣家におもむくと、大和を呼び出して、そのへらへらした顔に、家から持ってきた白い軍手を投げつけてやった。


「決闘よ! プリンのかたき!」


 突然の軍手アタックを受けて、玄関先で呆然とする大和少年。


 その後ろから、


「いらっしゃい、結子ちゃん。おいで、チョコレートケーキ食べよ」


 優しげな声が流れてくる。


 結子はおもむろに地に落ちていた軍手を拾って、それをはたいて汚れを払うと、大和の手をぎゅっと握って、鷹揚に彼を許した。もう出会って三年の付き合いである。プリンごときで壊してしまうには惜しい仲だ。


「これね、大和が結子ちゃんに食べさせてあげたいって自分のお小遣いで買ったのよ」


 口に入れたケーキの成分に愛情が入っていることを知って結子はせきこんだ。大和は照れ隠しに母親に向かってキャンキャンと吠えている。結子は、そのまま優しい甘さのチョコレートケーキを堪能しつつも、同時に悔しい気持ちになった。


「特別な日でもないのに、プレゼントするなんてっ! しかも自分のお小遣いで」


 それではまるで大人の振る舞いである。そんなこと結子はしたことがない。もちろん、彼とは付き合いが始まって三年が経っているので、誕生日にプレゼントをあげたことはある。しかし、何でもないときに自腹を切ってご馳走したことはない。先を越された。


「ヤマトがわたしの先を行くなんて! 絶対に許さない。お返ししてやらなきゃ!」


 結子は翌日、すぐさま大和に返礼した。小熊の貯金箱を割って、豆腐プリンを買った。よほどプリンが好きなのか感動した様子の大和に、にやっ、とした結子の得意げな顔は一日しか続かなかった。大和は翌日、結子の返礼に対する返礼をしてきたのだ。敵もなかなかやる。結子も日を置かず、返礼の返礼の返礼をした。そういうことがしばらく続いて、それはいずれ資金が尽きて終わったわけだが、


「自分の分のものを買う時にヤマトの分まで買っちゃう癖はあのときついたんだな」


 結子がそう話をまとめると、恭介はうなずいた。


 二人は今、通学中である。


 晴れた空からは眩しい日の光が降り注いでいる。


 二日前のおそろしい事件の遠因について思い出したところを、結子は朝の話題に提供していたのだった。恭介はいつものように微笑しながら聞いてくれている。


「自分のことばっかり話をしてるような男とは付き合う価値ナシ! 話を聴いてくれる男と付き合いなさい」


 というのは母の教えである。


 この基準からすると、恭介には十点満点中九点をあげたい。彼は実によく結子の話を聞いてくれる。十点をあげてもいいけれど、結子は慎重な女の子である。未来は誰にも分からない。恭介が結子のロミオだということがはっきりするまで軽はずみはできない。


「それにしても、ユイコって結構怖い子だったんだなあ」


 恭介はしみじみとした声を出した。


 結子がうなずく。


「昔はやんちゃでした。よくヤマトと一緒になって、近所のジャングルジムを占拠してたりしたわ。『ここは女王ユイコの城だ』とか言って」


「会えたのが中学生になってからで良かったよ。そのとき出会ってたら、捕えられて女王の奴隷にされてたかもしれない」


「まさか」


「ホントに?」


「もちろん。キョウスケだったら女王を守る騎士にしてあげてたよ」


 長い登り坂である。同じ制服姿の中学生の姿がそちこちに見える。登りきったところが校門だった。


「……でもやっぱり会いたかったなあ。幼稚園のときとか小学生の時とかのユイコにさ。ずっとユイコと一緒にいたヤマトが少し羨ましい」


 ふっと一人ごとのように言う恭介に結子は感心した。この人はどうしてこう、欲しいと思っている言葉をピンポイントでくれるのか。にわかに起こった手をつなぎたくなる衝動を結子は、すんでの所で抑えつけた。さすがに衆目がありすぎる。


「じゃあ、また帰りね」


 恭介と別れ、スキップを踏みたいような気分で結子は教室に入っていった。いつも通りの朝のざわめきの中を自分の机までルンルンとした気分で歩いていくと、彼女の席に不機嫌な顔をして座っている男の子を見た。知った顔である。知り過ぎていささかうんざりする顔でもある。上から彼を見下ろすような格好になる結子のその視線をとらえた彼は、


「いい加減にしろよな、ユイコ」


 朝のあいさつもそこそこに唐突な声を出した。

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