第12話

 図書室という異空間を抜けて廊下を歩く結子はしかし、いまだ夢見心地だった。体がほわほわする。一声かけてもらえたことがこれほど嬉しかったのは、むかーしむかし、ほのかな恋心を抱いていた近所の高校生のお兄さんに、何かの拍子にあいさつしてもらったとき以来である。


――あれが、わたしの初恋だった。


 遠く過去を思いやった結子だったが、その初恋の君の顔ははっきりと思い出せず、代わりにくっきりと浮かんできたのはクサレ縁の少年のボウズ頭(小一バージョン)だった。結子は慌てて、想像上のイガグリくんのおでこにデコピンを放って、ボウズ頭を自分の頭からかき消した。


 そんなことをして遊んでいるところへ、前から愛しのカレシ、本田恭介が歩いてくるのが見えて、結子は驚くとともに、心中深く納得するものを覚えていた。あえて会うのを避けようとしているのに出会ってしまうなんて。


「運命ね。これは」


 結子は、二人の間に赤い糸が結ばれているのを確かに感じた。


 恭介は持っていた文庫本を見せると、返すのを忘れていてクラスの図書委員から警告が来たブツだと説明して、苦笑いした。


「ちょっとここで待ってて、ユイコ。教室まで送るから」


「えー、そんなー、わざわざ悪いよ。キョウスケ」


 結子は体をくねくねさせてみた。


「ユイコ」


 恭介がやけに真面目な声を出す。


「はい?」


 結子はどきりとした。


 ここから教室までの距離はわずかである。わざわざ送ってもらうまでもない。そういう気持ちを冗談めかした形で伝えたわけだが、もしかして、「オレと一緒に歩いてるところを見られたくないんだね」的な誤解をして気分を害したのだろうか。軽はずみをちょっと後悔した結子だったが、


「そういうしぐさ、オレ以外の人の前ではしないでね」


 すぐにそんな必要がまったく無かったことを知る。


 結子は心臓をきゅっと柔らかくつかまれたようにドキリとした。そのどきどきはさざ波のように体をめぐって手足の先にまで到達した。体をくねらせる仕種をどうして独占したいのかは分からないが、何はともあれ、愛しい人から、「オレだけの前で」と言われて感動しない女の子がいるだろうか。


 そういうことをさらりと言ってしまうのだから恭介には恐れ入る。カレシ持ちの友人に聞いてみたところ、告白時はともかくとしても、付き合い始めたあと、自分の気持ちを伝えようとする男の子はほとんどいないらしい。「言わなくても分かるだろ」的な以心伝心の世界に女の子を付き合わせて自己満足に浸るか、「そのくらい察してくれてもいいだろ」的に甘やかされたマザコンぶりをいかんなく発揮して逆ギレするか、そのどちらかであるらしい。そういう満足な意思表示ができないヘタレ男子どもと自分のカレシの間に明確なラインが一本引かれていることを知って、結子は満足した。


 この幸福感を崩さないようにもうこのまま今日は授業を受けずに早退したいなあ、と恭介を見送りながらほわほわ考えていると、すぐにカレシは帰って来た。


「愛の逃避行をしましょう、キョウスケ!」


 いきなり口火を切った結子に、恭介は、


「いや、逃げるのは良くないよ、ユイコ。立ち向かおう。オレたち二人ならできる!」


 ノリ良くそんなことを返した後に、かあっと頬を赤らめるのだから可愛くて仕方が無い。


「目の保養になりましたか?」


 歩き出した結子は上機嫌で言った。何のことか分からない顔をしているカレシに、図書カウンターの麗人について述べる。


「川名さんてホント綺麗だよね~」


 機嫌が良くなると男の子をからかいたくなるのは女の子に共通する基本性質であると結子は断定するものである。


「ああ、そう言えば、川名だったな。図書係」


「『そう言えば』って……」


 その口調が、カノジョの前だからということで遠慮している風でもない自然なものなので、結子はカレシの体調を危ぶんだ。


「……大丈夫、キョウスケ?」


「何が?」


「だって、普通、目がいくでしょ。あんなに綺麗な人」


 恭介はきょとんとしたあと、


「じゃあ、もう一回見に行くか、一緒に?」


 見当はずれなことを言った。


「いや、見せものじゃないんだからさ。……もしかして、キョウスケってあんまり美人に興味無い人だったりするの?」


 結子は昨日の帰り道でふと思いついたことを訊いてみた。


「どういうこと?」


「だからさあ、綺麗な顔よりも愛嬌があったり、面白かったりする顔の方が好きな人っているでしょ。そういう人?」


 恭介は首をひねった。「別に、そんなこと無いと思うけどなあ」


「わたしに遠慮しなくてもいいよ。でも、言葉は選んでね」


 これまで恭介は自分の内面を好きになってくれたのだと思いこんでいたが、もしかしたら、彼には「非」美人好きという特性があってそれで好きになってくれたということも考えられる。仮に恭介がそういう趣味の人でそのために自分を選んだのだとしても、結子は雄々しく受け入れる覚悟だった。女だけど。だが、受け入れたあと今度は女の子らしく一人寂しく泣こうとも思った。そうしてさめざめと涙を流したあと、母に、「どうしてもっと可愛く産んでくれなかったの!」と叫んで、ティッシュ箱からティッシュを全部抜き出したり、和室の障子紙を舐めた指で穴だらけにしてやったり、ケーキを作ったあと片付けを放棄したりして、思う存分、癇癪かんしゃくをぶちまけてやろうと決意した。


 しかし、結子の母にとってまことに幸運だったことに、家の中は思春期の暴風によって荒らされるようなことにならずに済んだようである。恭介は、グラビアの女の子を見ていても、大体友人達と趣味が一致するということを以って、自らへの疑惑を打ち消した。


 それを聞いた結子はホッとしたが、「グラビアって……ふーん、キョウスケも、そういうの見るんだ」と冷たい目で見て、カレシを慌てさせることも忘れなかった。

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