第11話

 やがて結子は一冊の恋愛小説を選び出した。少し前にベストセラーになったものである。現実で恋愛をしているときに、虚構でも恋愛をするのは全くの無駄であるようにも思われるが、その無駄が良いのだ、と結子は断ずる。無駄を愛する者こそが、品のある人間だと言えよう。こせこせと効率を求めるような人間に大したヤツはいない。


 だから結子は、セコセコしたことはしない。定期試験の対策もきっちり三日前からしかやらないし、夏休みの宿題も同様、もしも残ってしまったら提出しないという潔さ。それをしばしば、「計画性が無い」と母に叱られることになるわけだが、結子は気にしない。人生は、山登りとはわけが違うのだ。到達地点もなければ、到達ルートも決まっていない。なのに、何に対して何を計画すればよいというのか。全くナンセンスである。


 しかし、そんなことを口にすれば、結子の倍以上のお年を召し、人生に対して違った主義を持っている母からお小言を頂戴し、次第によってはそれだけではなく、お尻叩きを受けることにもなりかねない――この件に関しては、いい加減、結子はお年頃なのでせめて体罰は、するにしてもビンタにしてもらいたいと常々主張しているが、母は、「女の子の顔を叩けるわけないでしょ。お嫁のもらい手がなくなっちゃったらどうするの」と、どれだけ強く引っぱたく気か知らないが、そう答えるのが常だった――ので、乙女心の奥深くにしまいこんでいた。


――そうだ、お嫁の貰い手!


 母の言葉を思い出した結子は、にわかに明日香アスカへの怒りが再燃するのを覚えた。あんなに思いきり引っぱたいてくれちゃって、顔に消えない傷でもついたらどーしてくれるのか。男の子だったらいい。名誉の負傷なり、勲章なり言って威張ることもできるだろう。しかし、女の子の場合、傷なんか何の足しにもならない。しかも、その原因が、愛しい人を守るために負った傷とかであればまだ何とか格好もつくが、嫉妬に駆られた小猫ちゃんとのキャットファイトなのだから救われない。それでなくても、この頃、髪の生え際のにきびが気になっているところだというのに、これ以上、もともと大して自信があるわけでもない顔にマイナス要素をプラスされてはたまらない。


 お嫁の貰い手がなくなってひとり寂しく老後を送っている暗黒の未来を想像した結子は、その手に力を込めた。手の中の文庫本がギュウッとその身をしならせる。そのまま、書架の林から憩いの読書広場へと出てふと見ると、さっきの友人はいまだテーブルについて本の世界を漂流中のご様子。明日香にされた暴行を思い出してイライラとしていた結子は、友人の後ろから抱きついて彼女をこの現実世界へ強制召喚してやろうという悪心を起こした。


――その前にまず本の貸し出し手続きしよ。


 そうすれば予鈴まで思う存分、友人と遊ぶことができる。結子は、自分の冷静さに満足した。


 貸し出しカウンターへと足を進めた結子は、そこに一人の少女を認めた。本日の貸し出し担当の図書委員である。彼女は、カウンターの上に大部の書物を広げて顔を俯かせていたが、結子が近づいて行くと、客が向かってくることに気がついたのか、その顔を上げた。


 図書委員の少女の顔を目にした瞬間、結子の頭を清々しい衝撃が駆け抜けて、理不尽な明日香への怒りも、カノジョをちゃんと監督していない大和への苛立ちも、三国世界に入り浸っている友人への邪心も何もかも、あらゆる負の感情がさっぱりと消え去った。


 川名環タマキ。それが図書委員の少女の名である。彼女を知らない人間はおそらくこの学校にはいないだろう。そう言えば言い過ぎかもしれないが、過ぎるにしてもそこまで過ぎはしないだろうと結子は思う。


 学校一の美少女として知られている子である。その圧倒的な美貌は他の追随を許さない。彼女を見ると、結子は、満天の星や雨上がりの虹、あるいは咲き初めた桜を見たときと同種の感動が胸を浸すのを感じるのである。おうとつのある女の子らしい体つき、冬の光を集めて作られたかのような白い肌、少し癖のついたショートの髪は夜の一部を切り取ったかのような高貴な黒である。陰を作れそうなほど長い睫毛が彩るアーモンド・アイズ、薄桃色の唇には艶がある。


 大和のカノジョ、片桐明日香のことを結子は美少女だと思うが、それも川名環の前ではかすんでしまうだろう。その輝きは、街灯と月光くらいの違いがある。川名女史の場合、片桐嬢とは違って、ルックスだけではなくその所作も洗練されている。共通の友達を介して彼女と少し話したことのある結子は、そのおとなしやかで奥床しい態度に面食らった覚えがある。品の良い、という形容が当てはまる生身の人を、初めて見た。しかも成績優秀で一年の時から常にトップ付近にいるというのだから、もはや笑うしかない。男子の人気も相当に高いが、当然のことながら、既に彼女にはカレシがいた。


――川名さんに比べたら、わたしも片桐サンもあんま変わんないか。


 そんなことを考えて、うんうん、と結子が一人うなずいていると、


「貸し出しですか?」


 と清流のせせらぎのような澄んだ声が聞こえてきた。


 結子が慌てて手にしていた文庫本を差し出すと、川名女史は手早く、しかし急がない優雅な所作で、貸し出し手続きを取ってくれた。本を受け取る結子。


「読んでみて面白かったら教えてください、小宮山さん」


 不意に名前を呼ばれた結子は心臓を撃ち抜かれた思いがした。


 川名女史は柔らかく微笑んでいる。


――一回ちょこっと話しただけなのに、名前、覚えててくれたんだ。


 結子はたいへん幸せな気持ちになって、図書室を出た。古代中国オタクの友人に話しかけることは、もはやどうでもよくなっていた。

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