第8話

 肩かけタイプの白色のカバンを斜めに下げた少年は、結子の姿を認めると手を振ってきた。


 結子も手を振り返した。


 清爽とした朝日を降らせる太陽のその向こうを張って一歩も退くことのないような美貌をまとって、恭介は立っていた。


 結子はまるでヴァージンロードを歩く花嫁のごとくしずしずと歩いていく。けっして、キャピキャピと走り寄ったりなどしない。彼の元まで歩くこの時間は、結子にとって、一日の中で至福の時間なのである。できるだけゆっくりと味わいたい。自分を待ってくれている人がいる。それは何という幸福だろうと結子は思うのだ。人は価値の無いものを待ったりはしない。恭介に待たれるたびに、自分には価値があるんだと認められるようで、結子は心弾むものを覚えるのだった。しかも、待ってくれているのが恭介のような人なのだから、格別である。


「待った?」


 現に待っている人に対して、結子は二度手間なことを訊いた。しかし、訊かずにはおれないのが、乙女心というものでもある。「待った?」とこの言葉を口にすることによって、もし、相手が「待ってないよ」と答えたら、


「ウソだ。ホントは待ってたんでしょ。キョウスケって優しいね、ポッ」


 という感じで頬を染め、一方で、「待ったよ」と答えたら、


「ゴメン、ゴメン。また遅れちゃった。わたしってダメな子だね、てへ」


 と言って舌をぺろりと出して可愛さをアピールする。どちらにしろ、カレシといちゃつくことができる。何という素晴らしいシステム!


「大分待ったよ」


――おや?


 結子は首を捻った。答えた恭介の口調には真実を告げる固さがあって、そこには恋のゲームをしかけられるようなスキが全く見当たらなかった。プランB――「てへ、舌、ぺろ」コンボ――はどうやら計画倒れにするしかないわけだが、そんなことより恭介はどうして真面目な顔をしているのか。「大分」待った、と言ったけど……。そこで、結子にはハタと気がついたことがある。


「ゴ、ゴメン、キョウスケ」


 結子は、表情を静かなものにしている恭介に向かって、謝った。「三十分待ちました」とはっきりした声で続ける恭介に、結子は平謝りするほかない。恭介とは、いつもこの公園前に七時三十分に待ち合わせている。それから二人仲良く学校までルンルン歩いていくわけだが、本日は既に八時。公園内で天に向かってそびえ立つ時計がそう告げていたし、家から公園まで十分ほどかかることは分かっているので、時計を見なくても八時だということが分かる。なぜ分かるか。言わずと知れたこと。家から五秒の隣家の前に七時四十五分に突っ立っていたからである。


 それすなわち、今、結子の後ろにいるクサレ縁ヤロウのせいである。ヤツがもっと家を早く出る習慣を持っていれば、もっと早い時刻に待ち合わせることができてもっと早く例の宣言を伝えることができ、カレシとの待ち合わせにも間に合い、めでたくいちゃつけたのだ。結子は、よっぽど振り向いて、「あんたのせいよ!」と言ってやろうかと思ったが、十五分ほど前に絶交したばかりなので、それもできない。


――ヤマトのヤツ!


 しかし、元はと言えば、昨夜のうちに恭介にメールしておき、今日の待ち合わせ時刻をずらしてもらえば良かったのだということに結子はハッと気が付いてしまって、歯噛みした。どうやら自分の失敗を人のせいにして逆ギレしている自分を醜いと思うことができるくらいには、結子は潔い心性の持ち主らしかった。


――潔さも良し悪しだなあ。


 と思いながら、結子は恭介に向かって体を二つに折るようにして頭を下げた。そのまま地面を見ている時間はほとんど無かった。すぐにぐいっと体を起こされて、結子は恭介の慌てた顔を見た。


「そこまでしなくていいよ」


 結子は両手を合わせて祈るようなポーズを取ると、ふるふると首を振った。


「ううん、させて。わたし、ちゃんと許してもらいたいの。キョウスケに嫌われたら、生きていけないから」


 結子の瞳から出されるキラキラビームを、恭介は視線を逸らしもせず受け止めた。多少顔がひきつっているような気がするが、受け止めてくれたことには変わりはない。結子は、恭介の価値を再確認した。


「それで?」


 目前の結子と、その後ろにいる大和を見比べるようにして、恭介が言った。結子は、「昨日の通り」と短く答えた。大和と絶交するということ、またその趣旨に関しては既に昨夜の内に恭介に電話しておいたのだ。恭介はあまり乗り気ではないようだったが、結子は押し切った。


「ちょっとヤマトが可哀想じゃないか?」


 あろうことかそんなことを言い出す心優しいカレシに、可哀想どころか大和自身の為にもなるのだと力説して彼の心配を拭った上で、「今後、優しくするのはカノジョに対してだけにするよーに!」と全然関係の無いことを念押しておいた。


「よお、キョウスケ」


 晴れやかな顔で挨拶してきた大和に近づいて、恭介は何ごとか耳打ちした。横目でそれを窺っていた結子は、大和が呆れたようなため息をつくのが見えた。


 結子は恭介と連れ立って歩き出した。


 大和は少ししてから二人の後を追った。


「離れて歩いてくれ」


 そう恭介が大和にささやいた言葉は、当然のことながら結子の指示だった。

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