第9話

 それから学校に着くまでの間、結子はいつも恭介と二人きりで登校しているときと同じテンションを保っていた。愛しい人を隣にして、良く話し良く笑い、ほんのちょっぴりのからかい。素晴らしきかな、人生! しかし、その恋人の方は、自分たちの少し後ろを歩く少年のことがどうにも気になるようで、いつも通りの陽気でいるというわけにはいかないようである。訳も分からず絶交された友人のことを気にかけて、ちらちら後ろを見ている。


「ヤマトのアホのことなんかほっといて、わたしのことだけ見て!」


 という意を込めて、隣から少し肩をぶつけるようにしてやったが、恭介は、「どうした?」と心配の声をかけてきただけで、結子の意図は通じなかったようである。結子には、恋人には過不足なく自分の想いを読みとってもらいたいといういささか現実離れした願いがある。


「難しいかもしれないけど、あなたならきっとできるわ、キョウスケ。がんばってね」


 そう言ってポンと彼の背を軽く打って、何のことを言ってるのかさっぱり分からない恭介に困惑した顔を作らせたところで校門に着いた。制服姿の少年少女たちに混ざって、生徒用玄関で下履きを上履きに替える。ぺたぺたと廊下を歩いて行くと、ややあって、想い合う二人の間に別離の時がやってくる。


「一日あなたと離れるなんて耐えられない。浮気しないでね」


 別れ際、結子は小さく切実な声を出した。恭介は難しい顔をしている。


「ええっ!」


 今度は結子の声は、近くを通り過ぎた同級生を振り向かせるほど、大きかった。


「いや、違うって。大和のことを考えてたんだよ」


 恭介は浮気願望を否定した。


「やっぱりちょっと可哀想だと思ってさ」


「キョウスケにまでヤマトのことを無視しろとは言ってないわ。ていうかそんなこと、もちろんしてもらいたくもないし。わたし一人のことなんだから」


「あんまりいい結果にはならないと思うけど」


 不吉なことを言って、恭介は去って行った。その背を見送りながら、結子は、


――キョウスケくんの言う通りかも……。わたし、間違っているのかしら。


 などというナヨナヨした気持ちは持たなかった。代わりに持ったのは、


――反対上等!


 向かい風の吹きすさぶ荒野にひとり立つサムライのごとき強い思いである。


 結子には、人の意見を聞く耳を持つことは大事だが、しかし最終的に決めるのはその人自身でしかないという信念がある。自らの信念に殉じることが武士の生きる道である。そうなのだ! 結子は思った。この「絶交大作戦」を必ずやりきろう、と。武士じゃないけど。


 その日の午前中、結子は徹底的に大和を無視した。口を利かないのは当然として、できるだけ彼から離れるようにさえした。授業と授業の合い間の休み時間にはわざわざ自分の席を立って、大和から離れたところにいるクラスメートの席におしゃべりに行った。大和は、事の重大さがイマイチ分かっていないのだろう、平気な顔で他のクラスメートと話をしていた。そんな能天気な大和を見ないようにしながらも、


――ふふふ、いずれ分かるわ、己の立場がね。


 ニヤリと怪しい笑みを浮かべ、その様子を見た周囲の友人を無駄にびびらせる結子だった。


 昼休み時間になると教室を出た。これも大和と接触しないための行為である。行く先は図書室。


――こういうとき、キョウスケのところに行かないわたしって何て慎み深い子なんだろう。


 結子は自分で自分を褒めた。昼休みにカレシと会いたいのはやまやまなのだが、それをすればさすがに周囲から顰蹙ひんしゅくを買う。中学校にいるのが、ラブラブアピールを大っぴらに見せつけられて、それを温かい目で見守れるような聖人君子ばかりであれば良いが、まさかそんなことはない。


「小宮山さん、またキョウスケくんのところに来てるよ」


「いくら付き合ってるからっていい加減にして欲しいよね」


「ホント来ないで欲しいよね。ていうか、いっそ学校に来ないで欲しい」


 最後のは少し結子の妄想が入っているかもしれないが、しかし、それに類することが容赦なく陰日向で言われることになることは確かである。加えて、自分のことだけならまだ良いが、問題は、恭介の評判まで落とすかもしれないということにある。「いっつもカノジョとベタベタしている軟派ヤロウ」というレッテルが恭介に張られ、特に男友達からの評判が悪くなる。それを結子は一番に怖れているのである。カレシの評判まで考えることができる小さなレディ。この辺が、明日香と自分の違いである、と思い、結子はひとり満足の吐息を漏らした。


 柔らかな光の射し込む廊下を歩き、図書室の前についた結子。扉の前に立ち止まり深呼吸。ここに来るといつもこうだ。学校の中にある異空間。結子は図書室のことをそんな風に感じていた。扉を一枚へだてたその向こう側は外界の喧騒とは完全に隔絶され、豊饒ほうじょうなる知の世界が広がっている。知を求めることにさしたる関心の無い結子は、来るたびにいつも圧倒されるような気分になるのであった。


 やがて心を決めた結子は図書室の扉を横に滑らせて開くと、重たげな静寂の中にゆっくりと足を踏み入れた。

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