本と寒さとネッシーと

リタ(裏)

本と寒さとネッシーと

 みずべちほーに日が沈む。凪いだ水面の遥か遠く、黒々として広大な山脈の影が押し黙ったままそびえている。そのさら上には茜雲の名残が群青色の空に浮かび上がり、まるで一枚の絵画のようだ。


「寒いな」

「……うん」


 湖畔に沿って続く道を、イワトビペンギンとコウテイペンギンの二人が歩く。背後には明かりを落とした水上ステージが薄らと夜霧に浮かんでいた。レッスンに励んだ昼間の熱気はとうに冷え切り、湿った大地を踏みしめるブーツの足音だけが耳に残る。


「暗くなると急に風が冷たくなるよな」

「そうだね」

「……あのさぁ、本当にそう思ってるのか? 」


 イワトビペンギンはむっとしたように冠羽を吊り上げた。実際、コウテイにとってこの程度の寒さと宵闇は極地エリアとは比べものにならないほど“ぬるい”ものだ。かといってイワトビペンギンの言葉を無碍にも出来ず、コウテイは言葉を濁して目を逸らした。ロイヤルペンギンの呼びかけで『PPP』を結成してから日も浅く、まだどことなくぎこちない空気が二人の間に流れていた。


「……あまり気を遣われてもな。俺、そんなに絡み辛いか?」

「えっと、その、ごめん……」


 コウテイが気まずそうに目を伏せ、イワビーはばつが悪そうに頭を掻いた。2人は無言のまま闇の中を進む。たまたま“ねぐら”の方向が一緒だっただけでこんな辱めのような目に遭わねばならぬのかと、コウテイはこの帰り道を選んだことを少し後悔しはじめていた。


 何とかこの空気を打ち払おうと頭を捻るも、紡ぐべき言葉は泡のように浮かんでは消える。イワビーがどんな“人物”なのかさえ、コウテイはまだ分かりかねていた。気を紛らわせるに湖を見ると、やはり何時もと変わらぬ広大な景色が広がっている。今夜は月も出ており、白い光がきらきらと湖面に散りばめられていた。『そうだ、これを話そう』とコウテイがはっと顔を上げる。だが、その横にイワビーは居ない。慌てたコウテイが振り向くと、背後ですっかり小さくなったイワビーが目に入った。彼女を置いて行ってしまったなんて、本当に愛想を尽かされてしまう。コウテイは彼女の元へ慌てて駆け戻った。


「……どうかした? 体調が悪いのか?」

「違う。見てみろよ、湖の中」


 真剣な顔のイワビーが腕を伸ばし、虚空を指差す。コウテイは怪訝に思いながらもつられて湖をった。月影が寄せる波に砕けている、いつもの夜の湖だ。一体何があったのだとコウテイは彼女に問うた。


 彼女は答えの代わりに『静かに』と指を唇に立てると、もう一度腕を掲げた。だが、相変わらず湖面に丸い月が揺れているだけだ。何も無いじゃないかと、コウテイは興味がなさそうに言い放つ。『そこではない』と言いたげに、イワビーは息を殺して指先を大きく右へ逸らした。コウテイがしぶしぶ顔を振ると、確かに離れた場所で波紋が丸く広がっている。



「……風か?」

「風なら波になるだろ。なんで丸く広がるんだ」


 それもそうか、とコウテイは独りごちた。再び波が消え、そしてまた離れた場所で泡が立つ。クジラじゃないか、とコウテイは最もらしい口調で突っぱねたが、湖にクジラなんか居るわけないと突き返される。


「じゃあ、カバ。それか、ワニ」

「待て、ワニは想像の生き物だろ」

「……え?」

「え?」


 お互いが気まずそうに目を逸らしているうちに、再び波は収まってしまった。夜風が空を切る寒々しい音だけが湖面を撫でつける。イワビーは小さくくしゃみをしたが、コウテイは何も答えなかった。ただやるせなさだけが残り、肩を竦めて暗い湖面を見つめているしかなかった。



――

――――



 明くる日、コウテイペンギンは“森の賢者”であるコノハズクとワシミミズクへ、先日湖で見た謎の生き物について相談するべく図書館を訪れた。そこでは迎え入れる歓迎の声もなく、鳥のアニマルガールたちが忙しそうに建物の中を飛び回っている。飛べないペンギンには目もくれず、積み上がった本の束を棚の隙間に詰め込んでいた。


 コウテイペンギンは迷路のように立ち並んだ本棚と本の山を越え深奥の書庫を目指す。そこには賢者と名高いアフリカオオコノハズクとワシミミズクが居るはずだ。彼女たちならば何かを知っているだろうと、ロイヤルペンギンからのアドバイスだった。


「……なるほど、夜の湖で得体の知れない生き物を見た、と」

「それが何か知りたい、ということですね」

「ええ、そうです。私と、イワトビペンギンが波を見ていて。気になるからって、私が…… つまり、コウテイペンギンが聞きに行ってこいと」

「……我々はたしかに“森の賢者”です。頼られるのはやぶさかではありませんが、湖のことまでは……」


『まずは森と湖の違いを教えたほうが良いのでは』とワシミミズクは事もなげ皮肉を言い放った。コノハズクは呆れたように首を振り、書庫の目録に目を落とした。


「そうですね、まずは…… 助手は博物学と動物学のところへ行ってくるのです。私は神話と伝説のところをあたってみます」

「はい、分かりました。コウテイペンギンさん、しばしお待ちを」

「いえ、ありがとうございます」


 数分の内に、コウテイペンギンの前に分厚い本の塔が築かれた。フクロウたちが文字通り“飛び回って”集めた資料の山だ。巻き上げられた埃がコウテイの鼻をくすぐり、思わず咳込みそうになる。


「……大切な資料なのですよ。落書き、唾付けはご法度なのです」

「うう、すみません。……それにしても、こんなにたくさんの本があるなんて」

「“湖の化物”を見たヒトは、お前たちが初めてではないのです。これこそ『歴史の積み重ね』ですね」


 これだけあれば十分でしょうと、フクロウの2人も席に着いた。開かれた本のページを滑るようになぞる指をコウテイは呆気にとられて眺めていた。


「湖の怪物、これは世界中に類型が見られる未確認生物の汎存種(コスモポリタン)とも言えるでしょう」

「つまり…… 島中で見られているのですか?」

「いや、もっと広くです。6つの大陸と7つの海。我々には想像もつかないような、途方も無く広い世界です」

「有名どころといえば、チャンプ、オゴポゴ、モケーレ・ムベンべ…… そして『ネッシー』でしょうか」


 ネッシー、とコウテイは小さく呟いた。何とも迫力のない、気の抜けるような名前だ。もちろん、今までの人生のなかでは一度も聞いたことがない。なぜ、彼女たちはこのようなことまで知っているのだろう?


「全ての始まりは西暦1933年。ある夫婦が謎の巨大生物をネス湖周辺で発見しました。」

「翌年の1934年には“外科医の写真”が発表され…… ああ、写真というのは、この本に載っている絵のようなものです。この写真には水面から長く伸びたヘビの頭部のようなものが写っていました」

「ロバート・ラインズ博士が撮影した、ネッシーのものとされるヒレと全体像の写真も有名ですね」

「それらの写真から導かれた特徴から、正体は中生代の海生爬虫類『プレシオサウルス』だとされる考えが根強く残ることになりました。ジャパリ博物館に残っているであろう、化石標本にサンドスターが当たればあるいは……」

「それだとプレシオサウルスそのものではなく、その動物を元にしたアニマルガールになるのでは?」

「……アニマルガールになった上で、不慮の事故によって元の動物に戻ることは確認済みなのですよ」

「元の姿、それは化石にもどるのではなく?」

「それだと、パーク各地でリョコウバトやオオウミガラスが目撃されていることに説明がつかないので……」


 フクロウたちの果てが見えないやりとりを、コウテイペンギンはやっとの思いで追いかける。会話の意味を噛み砕いて呑み込むにはあまりに大雑把だったが、とにかくその気迫だけは伝わってきた。


「二人とも、凄いですね。その…… 『言い争い』?」

「……これはディスカッションです。私と助手で相互にやりとりすることによって、情報の精査を行っているのです。横から見れば長方形でも、斜めから見れば円柱だったりすることは多々あるのです」

「はあ……」

「博士は自分の想像した結果を基に、そこへ理由を後付けする“きらい”がありますからね。軌道修正するのも助手の役目です」

「え、ワシミミズクさんは博士のことが“嫌い”なんですか?」


 コウテイは慌てたように二人の顔を交互に見やった。フクロウの二人は呆気にとられたように顔を見合わせたが、それはすぐに苦笑いに変わった。『言葉のあやです』と、コノハズクが優しげに説明する。コウテイはそんな彼女たちの振る舞いや思考をすぐには理解できなかったが、だからこそ興味を惹かれ、そして羨ましいと思った。『いつかPPPの皆とも、これほど気心の知れた仲になれる日が来るのだろうか?』再びネッシーの正体について意見を交わし合う2人の話に耳を傾けながら、コウテイはぼんやりと考えていた。



 ――

 ―――――



「……さて、我々が生き物の正体について教えられるのはここまでです」

「ありがとうございました。イワトビペンギンにも伝えておきます」

「そうそう、最後に一つ伝えておくことがあります」


『一体何だ』と頭上に疑問符を浮かべるコウテイの眼前で、コノハズクがピンと指を立てた。


「これが最後のアドバイス。我々の話したことは、すべて忘れるのです」

「……はい?」

「ロイヤルペンギンは2人で図書館に向かわせたのではなく、わざわざコウテイペンギン、つまり貴女に聞きに行くよう頼んだのですよ」


『あの子は文字が読めないからでは』と言いかけたコウテイを遮るように、ワシミミズクが博士の言葉を引き継いだ。


「ロイヤルペンギンは、きっとお前の口からイワトビペンギンへ答えを伝えて欲しいのでしょう。ですが、お前が我々の言葉をそのまま伝えても、それは我々がお前の口を借りているに過ぎないのです。コウテイペンギンがどう思ったのか、それを伝えるのですよ」


 コウテイは一瞬考え込むように目を伏せたが、答えの代わりに大きく頷いた。コノハズクは満足げに鼻を鳴らし、再び机へと向かった。彼女の仕事を邪魔しないように、コウテイはワシミミズクと静かに挨拶を交した。


「……ワシミミズクさん。今日は本当にありがとうございました」

「困った時はまた来てください。おおかた、PPPはお互いにまだ馴染んでいないのでしょう? 」

「はは、お見通しでしたか」

「最初はそんなものですよ。きっかけはなんでもいいから、まずは自分を出してみてください。自己紹介は、まず自分から。私と博士も、そこから始めました」


 励ましているのだか惚気ているのか分からないような呟きを残し、ワシミミズクは音も立てず本棚の向こうへ消えた。独り残されたコウテイが図書館の窓から空を見上げると、西の空はすでに色づきはじめているようだった。黒い粒のようなカラスたちが鳴き交わしながらねぐらの森へと帰っていく。木々は西日を受け、その揺らめく影が図書館の床や壁に二つと無い紋様を創り出す。そのどれもが、雪と氷に閉ざされたコウテイの故郷では見たことの無い風景だった。


 夕日の眩しさに目を細めながら、コウテイはワシミミズクの言葉を頭の中で繰り返した。今度はちゃんと、自分の感じたこと、考えたことをイワトビペンギンへ伝えられるのだろうか。いつかはイワトビペンギンだけでなくPPPの皆が持つ『自分』を知り、そして、私という『自分』を伝えたいと思った。


 図書館から外へ出ると、コウテイの髪を揺らしながら一陣の風が吹き抜けていった。やはり、この程度の風は寒さの内に入らない。彼女の胸中には、吹雪すら融かすほどの熱が宿っていた。

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本と寒さとネッシーと リタ(裏) @justice_oak

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