撃てよ、深紅の花を零して

淡島ほたる

届かない月

 1990年の雪国で、私の恋人は世界を奪われた。

 流れる景色はすべてが真白く、ひとつ息を吐くとそれだけで心までもが凍りつきそうだった。電車に揺られるたび、私は膝にのせたすみれ色の包みを抱えなおす。ずっしりとした重さにすでに陰鬱とした気持ちになりながら、それでも、もうすこしだ、と気を奮いたたせた。



 あの夜、私達は雨と煙の立ちこめる街の片すみの、薄汚れた居酒屋にいた。もう何度会ったかはわからない。付き合うという言葉を一度たりとも使わずに、私と彼はあいまいな場所でつながっていた。

「……深陽みはる

 私を呼ぶときの、低い声が好きだった。

 彼はたとえば、雲に覆われた月のようなひとだ。朧気だけれど、あたたかくこちらを照らしてくれるような人。

 すっきりとしたブルーのシャツを身につけた彼は私のとなりに腰を下ろすと、慣れた手つきでメニューをひらいた。さあどれにしますか、と微笑んだ顔は柔らかい。

 焼き鳥と日本酒を頼み、会話はゆるやかに弾んだ。アルコールですっかり火照った身体を、青りんごのシャーベットで冷やす。ふと沈黙が降りてくると、彼は目を伏せて私の左手を取った。すこしずつ、指が絡められる。

 なんですか、と問うと、いずれ俺は罪を犯す、とつぶやいた。酔っているのだ。こんなに美しい瞳をした彼が、なにかを脅かすような真似をするはずがないだろう。きっとそうだ。私は笑って、ゆるしますよ、とこたえた。

 みずみずしい薄緑色の氷をスプーンで崩しながら、私は「暁月あかつきさん、ほんとうはあまり、人を好きじゃないでしょう」と言った。人当たりはいいのに、どこか距離を置いている雰囲気がしたからだ。ほんの直感だったのだが、彼は重くかなしげな目で私を見つめた。

「それに気づいたあなたも、仲間だな」

 翳を落とした表情に、ほんの少し、ぞっとした。なにかが憑依したみたいな笑いかた。だれにだって、ひとつやふたつ、他人に見せない顔があるに決まっている。私はかってに結論づけて、そうかもしれませんね、と笑った。



 彼が地方の大学に勤めていると知ったのは、二度目の逢瀬のときだった。

「……とは言っても、まだまだ新米で。いつかね、独立したいと思ってるんだ。いまとは、まったくちがった方法で」

 照れくさそうにそう話す彼を、私は純粋に応援しようと思った。

「暁月さんならできますよ、絶対」

 私がジョッキを力強くテーブルに置いてそう言い切ると、

「ほんとうに?」

 心底うれしそうに訊ねる彼がかわいくて、私は「はい、絶対です」と笑った。うつくしい富士額をしていた彼の、笑ったときに片方だけさがる眉がすきだった。



「もう、深陽には会えなくなる」


 真夜中の喫茶店でやけに清々しい顔でそう言われたとき、だから私はあまり悲しくなかったのだ。ただ自分自身に対して、ずっとずっと、怒っていたような気がする。なんで私は、彼の門出を素直に祝福できないのだろう。いつかはこうなるとわかっていた。彼はだって、あらたな場所で頑張ると話していた。それを知ったうえで、彼と関係を持ったはずだった。抗えないことだってあるのだと、私は静かに泣いた。あつ、と言い捨てた彼を上目遣いでにらんだ。

「猫舌のくせに、無理するからですよ」

「君と会うのは最後かもしれないだろ」

 挽きたての熱いコーヒーをがぶがぶ飲む暁月さんはかわいかった。

 私は、あまりに愚かだ。

 テーブルランプに灯る鈍い光がちかちかと明滅を繰り返して、やけに目障りだった。


 そのうち彼とも疎遠になり、私は地元のちいさな街を離れ、都会のコールセンターで働いていた。

 彼から電話がきたのは、ひとり暮らしもようやく板についてきた頃だった。

 冬の晩、鍋を火にかけ、昨夜のシチューを温めていると電話が鳴った。なんだか胸騒ぎがしていた。心音がうるさくて、鎮まれ、と何度も唱えながら水に濡れた手を拭いた。

 銀色の受話器を取る。ひさしぶり、と言った彼の声は、まるで何百年もの呪縛を解く鍵に似ていた。幾重にもかさなった記憶が、無造作に揺すぶられては心の奥深くに降りそそがれる。

「きみ、深陽か」

「……暁月さん」

 まぬけな声が出た。これが幻というものかもしれない、と思った。

「死ぬ前に、君の声を聞こうと思って」

「どこにいるの」

「俺はどこにもいないよ」

「今から、会えませんか」

「もう、いないから」

 遠くとおくでサイレンの音がして、私は彼の、いつかの言葉を思い出していた。

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撃てよ、深紅の花を零して 淡島ほたる @yoimachi

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