第34話 人の心
いろいろありながらも、丸六日はクルク族の若者たちと行動することとなった。傭兵仕事を引き受けるだけの時間はなかったが、三人の商売を手伝って稼ぎを山分けしたので、少しずつ資金も貯まっている。
七日目の朝。メルトはひとり少しばかり荷車から離れて、周囲の様子を見にいくことにした。
顔を上げると、頭上いっぱいに高く澄んだ青空が広がっている。ヒルカニアに入って以降、雨にあうことはない。このまま東進していけば、ますます雨とは縁遠くなることだろう。
灰色と茶色と緑が混ざりあい、まだら模様の広がる大地を、メルトは静かに踏みしめる。目をこらして遠くまで見渡す。北方には山々の影があるが、少し東に視線をずらすと、わずかだが家のようなものが見えた。町か村かはわからないが、人はいるらしい。
あまり荷車から離れるわけにもいかない。来た道を戻ろうとするメルトだが、その前に、剣の柄をにぎった。
メルトが剣を抜くと同時、気合の入った声が響く。小さな人影が、彼に向かって躍りかかってきた。振りかざされた剣をメルトは難なく受けとめる。そのまま鮮やかに右へと薙ぎ払うと、剣の持ち主は「あわわ」とこぼしてよろめいた。
「あと三年修行してから出なおしてこい、チャク」
「むーっ、偉そうな奴め!」
「もうこのやり取り何回目だ。いい加減飽きたぞ」
「飽きたとはなんだ!」
ガルード
「昨日まではこの時間、フェライと試合して楽しんでたじゃないか。そっちこそ飽きたか?」
「フェライは今日、サンディとナン作ってるぞ」
「ほう? フェライの方はうまくやっているみたいだな」
自分と比べて、メルトは苦笑する。
クルク族たちにとってただのイェルセリア人であるフェライは、三人のうち誰からも敵視されることなく過ごしている。持ち前の人当たりのよさから、特にサンディに気に入られて、最近は女二人でいることも多かった。
「さて、なら早いとこ戻るか。あいつらを心配させるわけにもいくまい」
「あ、こら待て!」
さっさと
メルトは思わずため息をついた。
「あっ。メルト、お帰りなさい!」
青年と少年の帰還にすぐ気付いたのは、フェライだった。マーレラーフの町で買った、白地に青い花柄が散らばるマグナエを巻きなおし、元気よく手を振る。ただ、二人に駆け寄ったフェライはすぐに別のことに気がついて、目を丸くした。
「あら? チャクくん、その膝どうしたの?」
「ひざ?」
首をかしげるチャクにうなずき、フェライは彼の右ひざを見た。
「血が出てる」
おそらくは
口もとを引き結ぶチャクを見ていたメルトが、肩をすくめた。
「俺を追っかけて走ってたところで、盛大に転んでな」
「い、言うなよ!」
「あらら、それなら早く治さないとね。とりあえず傷を洗いましょうか」
ガルード
少女は手早くチャクの傷口を洗ってしまうと、彼のそばにひざまずいて目を閉じた。肌をなでる『なにか』の感触に気づき、メルトは少し眉を寄せた。精霊たちが騒いでいる。ひとりの少女の呼び声を聞き、そちらに力を注いでいる。
やがて、チャクの傷口にかざされた彼女の手が、淡い光を帯びた。いくらか遅れて、傷口がふさがっていく。少年の黒い瞳は、深い感嘆の色を宿して、自分の膝の変化を見つめていた。
傷口がふさがると、フェライはそっと目を開けて立ちあがる。おー、と言っているチャクにほほ笑みかけた。
「とりあえずこれで大丈夫。無茶しないでね」
「むっ……かんしゃする」
「どういたしまして」
「フェライは、ほんとにゆうしゅうな巫女だな。それで剣も強いのは、ちょっとずるいぞ」
少女と幼い少年のやり取りをながめ、メルトはそっと口の端を持ち上げた。
一種の職業病だろうか。フェライは誰それが怪我をしたと聞くと、まっさきに治療のために飛んでいくところがある。その行動をカダルの手先に知られでもしたらやっかいなので、最初はメルトもたしなめたりした。しかし、世の人々はメルトの想像以上にあっさりと、『治癒のわざを持つ巫女様』を受け入れたのだ。イェルセリアの外の人間にとってそれは、旅をしながら人々を診てくれる医者のような存在で、フェライ以外にも似たことをしている
そして、このクルク族たちは、さらに
「さーさあ! 今日はフェライも手伝ってくれて、早いこと朝食ができたよ!……と、あれ? チャク、どうしたんだ」
陽気にこちらへやってきたサンディが、首をかしげる。チャクは鼻を鳴らした。
「なんでもない。サンディには関係ない」
「そうかい。なんでもいいけど、
サンディは、つんけんする少年の言葉を
食事はいつも、荷車のそばで輪になってとっている。今朝も、変わらぬ食事風景だった。朝食がてらメルトが偵察の報告をすると、アブはおもしろそうにうなずく。
「そうか。一応、人はいるんだね」
「町か村かまでは確認できなかった。すまない」
「いや、じゅうぶんだ。ここ二日ほど荒野か遺跡しか見てなかったから安心したよ」
アブはそう言って笑い、サンディが同調するようにうなずいた。
今日はメルトが見つけた
「思ったより人がいるなー」
「見えるの!?」
「このくらい、よゆうだよ」
少年は得意気に胸を張る。その間にも荷車は村へ近づく。チャクがすぐ「あ、むこうも気づきはじめたみたいだ」と言った。荷車の上で商品の番をしていたサンディが、軽々と車からとびおりて前に出る。「あたしが行くよ」と、彼女は笑って自分の顔を指さした。自分から説明と交渉を買って出る、ということらしい。
荷車が村の前で止まると、数人の男たちがわらわらと集まってきた。老若男女さまざまだが、いずれにしろヒルカニア人だ。流暢なヒルカニア語が飛び交う。いつもの行商人か、と首をかしげる者が多かったが、サンディやアブに気づくと、「クルク族だ!」と鋭い声が上がる。友好的な様子ではない。メルトはその声を、荷車にもたれて静かに聴いている。かたわらのフェライは、慣れない言語をたくさん聞いたせいか、目を回しそうになっていた。
サンディと村の男たちのやり取りは続く。それは
「あの……なんだか不穏な感じなんだけど。サンディさんと村人さん達は、どんな会話をしてるのかしら」
「……ああ」
メルトは、軽くうなずいた。そういえばフェライは、ヒルカニア語があまり堪能でないのだと、思い出す。
「村の人々は、クルク族を村に入れたくないようだ」
「ど、どうして? 別にやることはほかの行商人と一緒でしょう」
「そうなんだがな。奴らの存在は大陸で有名だろう。それがこういうとき、よくない方向に働く」
メルトは、ため息をついて村の方を見やった。サンディが懸命に話をしているが、効果は薄そうだ。ささやきあう男たちの顔には、不安の雲が立ち込めている。
「クルク族に村の中で暴れられたりしたら、馬鹿にならん損害が出る。最悪、人が死ぬ。それを恐れてクルク族を拒む連中は多いんだよ。――昔から」
フェライは、釈然としないという表情で黙りこんだ。しかし、メルトにはどうしようもない。一応、ほかのクルク族たちをうかがうと、チャクはアブを見上げていて、そのアブは頭を軽く押さえていた。こういうことは、言葉がわからなくても空気で察せられるものだ。
メルトが古王国の王太子であった頃から、クルク族とその他の民族の
「……私たちが出ていったら、だめなのかな」
フェライが、絞り出すように言った。しかしその相貌にはすでに、あきらめの色がある。
「俺もそれは考えたが、よけい事態をややこしくする可能性もある。……ただ、まあ、出るだけ出てみてもいいか。幸いヒルカニア語は話せるし」
「その必要はないよ」
メルトが動きだそうとしたとき、横合から声がかかった。すでに、サンディが戻ってきたところだった。
フェライが、一瞬呆然とした後、身を乗り出す。
「ど、どうして? どうしてだめなの?」
「あいつら、一切聞く耳持ってくれなかった。あんたたちが出てっても、あたしたちの手先だと決めつけられて厄介なことになる」
「……やはり、だめか」
「だめだね。お話にならなかったや。あんたたちも面倒事が嫌なら、無理はしない方がいい」
肩をすくめたサンディは、視線を別の方へ投げた。
「というわけで、ここは素通りしよう。アブ」
「せっかく人に会えたと思ったんだけどな。しかたがないか」
生ぬるい視線と言葉を向けられたアブが、肩をすくめる。その陰にいたチャクが、むっと唇をとがらせつつも「じゃー出発するか」と言って、荷車に飛び付いた。
切り替えの早いクルク族たちを、フェライは言葉もなく見つめていた。メルトは準備が済むまでは、黙って隣にいることにする。こういうときは、外からの言葉よりも、自分の中で気持ちを整理する時間の方が必要だ。
アブが、メルトの横を通り過ぎる。その背に、メルトは声をかけた。
「すまないな。役に立てなかった」
「気にしなくていいよ。前に言ったことは、単に私の独り言だ。……最善を尽くしても、結果がついてこないこともある」
彼は穏やかに返して、それでも悲しそうにほほ笑んだ。
やがて荷車は出発する。その後を追うように、青い空を銀色の鳥が飛んでいた。
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