第31話 蛇の上の町
まっ白な陽光を通す青空は、どこまでも澄んでいる。天地の狭間に漂う空気も爽やかだ。耳を澄ますとどこからか鳥や獣の鳴き声が聞こえてくる。
ヒルカニアは
「もう国境を越えたのかな」
「おそらくはな」
あたりの木々を物珍しげにながめながら、道の左側を歩く少女が首をかしげた。右側に並んで歩く青年は、葉と葉の隙間から太陽を透かして見つつ、連れの言葉に答える。
「あまりヒルカニアに来たっていう実感がわかないわ」
少女――つまりフェライが、感心と落胆半々、といった具合で呟いた。青年、メルトが彼女を見やって苦笑する。
「陸続きだからな。そうすぐには景色も気候も変わらんさ。それに今のヒルカニアは広い。東に行けば、また違った景色も見えると思う」
「なるほど……じゃあ、異国
「まあ、間違いではない」
拳をにぎるフェライの姿に、メルトは思わず笑ってしまう。
二人は観光のためにヒルカニアに来たわけではない。それはどちらもが重々承知していることだ。しかし、厳しいことばかり考えていても気が滅入ってしまう。異国を楽しむくらいの余裕も必要であろう。そういう前向きな姿勢を、メルトはたびたびフェライから学んでいた。
ペルグ王国の国境をかためる歩兵たちのかたわらを通りすぎたのが、今朝早くのことである。その兵たちから、怪しまれないていどにヒルカニアの現在の様子をいくつか聞いた。彼らによれば、この山道をもう少し歩くと商人の往来が多い街道に入る、ということらしい。
「人がたくさん行き来するってことは、人目につきやすいってことよね。祭司長に居場所がばれることになるんじゃない?」
静まり返った山道に気遣うように、小声でフェライが尋ねてくる。メルトは小さくうなずいた。
「可能性は高いな」
「え、じゃあ……」
「今となってはそれもたいした問題じゃないと、俺は思ってる」
そもそもカダルは、メルトたちがヒルカニア方面へ抜けたことに気づいているはずだ。この時代に知り合いもおらず、つてもない彼が、危険を
「古王国跡地に向かうには、どのみちヒルカニア西部を通らないといけないものね」
「ああ。それに――カダルは、俺たちが古王国の跡地に着くまで、捕まえようとはしてこないだろう」
「どうして?」と言いかけて、フェライは少し考えこむそぶりを見せた。ほどなくして、メルトが言いたいことに気づいたのか、手を叩く。
「そっか。祭司長の目的は、杖だから……」
「そう。俺たちを泳がせて、欲しいもののところへ案内してもらおう、っていう寸法だ。奴がなにか仕掛けてくるとしたら、俺たちが杖を見つけたそのときだろう」
メルトが淡々と答えると、フェライは難しい顔でうなずいた。祭司長のどこかいびつな微笑を、思い出したのかもしれなかった。
時折たわいもない話をしながら、二人は山道を抜けた。ひらけた大地と、その上を蛇行して走る道が見える。兵士たちの言っていたとおりの、大きな街道に出たらしい。あまりにくねくねとしているから、「
さっそく、鈴と馬蹄の音が聞こえる。メルトたちは
通りすぎた
「ここから半パラサング(約二・八キロメートル)行ったところに、小さい町があるよ。馬は買えないかもしれないけど」
男は親切に教えてくれた。彼はついでに、フェライの方をちらりと見てから、メルトにささやいた。
「ねえ、連れの彼女はラティア人?」
「いや……ペルグの西の方の人間だ」
メルトは、とっさに嘘をついた。山道での彼女の問いかけが、頭に残っていたのかもしれない。偽りの気配を感じなかったのか、気づかないふりをしているのか。男は不審がる様子もなく「そうか、そうか」と答えた。彼がそんなことを尋ねた理由に思い当たる前に、男がフェライに話しかける。今度は、流暢なペルグ語で。
「お嬢さん、街に行くなら髪は隠してった方がいいよ。このあたりには、女性が髪さらして歩いてるのを見ると、怒る人もいるからね」
「え?――あ、はい。そうですね。ありがとうございます」
「いえいえ、気にしないでー」
陽気に答えた男は、一足先に街道を歩き去ってゆく。メルトは彼を黙って見送り、フェライは自分の金髪を指でつまみながら、ふんふんとうなずいていた。
「そうね。聖都にいた頃は騎士だったからどちらでもよかったけど……ここでは、『お嬢さん』なのよね……」
ため息まじりに呟く少女をメルトは
ヒルカニアに限らず、大陸中央では、女性は布などで髪を隠すのが一般的だ。気候の関係であり、宗教の影響でもある。旅の男が言ったとおり、西洋人の影響が強いペルグには、そのあたりに寛容な人間も多いが、ヒルカニアはペルグほどゆるくはないだろう。
なにか、頭に巻けそうなものがあっただろうか――二人は少し荷物を探ってみたが、手ごろな布は出てこない。しかたがないので、町に着いてから買うことにした。現地に不慣れなラティア人ということにしておけば、短い間ならごまかせるだろう。苦しまぎれに結論付けた二人は、ゆっくりと街道を歩いていった。
ややして、広い大地に四角い影が見えはじめ、影が色彩を持つころには、人の声も盛んに聞こえてきた。この町も、街道の名に合わせてマーレラーフと呼ばれているらしい、ということを町から出てきたばかりの商人に聞いた。
ひとまず露店が並ぶ通りに足をのばした二人は、これまでメルトの傭兵仕事などで稼いだお金を使って、食料などを買いたした。ついでに、露店通りを出てすぐのところで、マグナエ――女性が髪を隠すための長い布――を売る店を見つけた。店主は気立てのよいヒルカニア女性で、幸いにもイェルセリア語が堪能なようだ。これなら彼女も安心して買い物ができるだろうと、メルトは一人、店の外で待っていることにした。
露店で買い物をする人々がせわしなく行き交う。彼らの髪色も肌色もさまざまだ。時折、耳に馴染みのない東方の言語や南方の挨拶らしき言葉が、人混みの中からわき出るように聞こえてくる。
今も、知らない言葉を話しながら、三人ほどがメルトの方へ近づいてきた。長音の多いふしぎな響きをもった言葉である。メルトは周囲に意識を巡らせながら、その音を聞き流していた。しかし途中で、はて、と首をかしげる。最近どこかで聞いたような言葉と声が、耳に入ってきた気がした。
まさかと思いながらも、視線だけで三人の姿を追おうとした。同時、その三人のうち一人が、「ああっ!?」というように叫ぶ。その声には間違いなく聞き覚えがあった。
人混みの中、視線がかち合う。大きな黒茶の瞳が、警戒心を宿してメルトをにらんだ。その顔つきは幼さもあって、威嚇する砂ねずみのようだ。だが、実際はねずみどころか獅子をも
「おまえは……!」
「いつぞやの、気が短いガルードの戦士じゃないか」
「誰が短気だ!」
メルトが先んじて相手のことを呼ぶと、相手――つまりチャクは、噛みつくように怒鳴った。その彼を、アブという青年が苦笑して見ている。さらにその隣には、見覚えのないクルク族の娘がいて、首をひねっていた。
こうしてメルトは、クルク族の若者たちと予想外の再会を果たしたのである。おそらくは、むこうにとっても予想外のことだっただろう。
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