第二幕 見えざる神に触れる旅

第27話 東西の境にて

 乾き切り、茶色い土をむき出しにする大地の上にさらなる陽光が照りつける。この日は風もなく、天も地も灼熱の中で沈黙していた。それでも一見荒野と言っても差し支えない地に、わずかながら生命の色が見いだせるのは、定期的にまとまって降る慈雨のおかげだった。ペルグ王国東部国境、オザルプの町の南の野である。


 ペルグ王国は現在、デミトリオスちょうという王朝により治められている。これより西の沿岸と諸島よりやってきた、ミルキア人たちが中心となっている王朝だ。一時は大陸中央の広い地域を支配したミルキア人の支配も、終焉しゅうえんの時期に差しかかっているのかもしれぬ。東の二割は王朝を改めたヒルカニアに奪われ、西はを残してラティア人という人々の帝国にのみこまれ、今は両大国のはざまで肩身の狭い思いをしていた。


 そんなデミトリオス朝ペルグ王国の貴重な領土の静寂を、突如として馬蹄の響きが打ち破った。南方からオザルプを目指して駆ける、騎馬の一団である。その集団は十騎あまり、王国軍の騎馬隊にしては少なすぎる。実際彼らは、国に属していない傭兵の集団だった。ちょうどひと仕事が終わり、これから拠点としていたオザルプに戻ろうというところである。

 騎馬の集団の中心あたりで、あしの馬を駆っている、ペルグ人らしい風貌の若者がいる。彼もまた傭兵の一人であり、この中では駆けだしであった。仕事を達成した高揚感と解放感でいっぱいだった彼は、ふと思い立って自分の左手側を振り返る。感情を前面に出している彼と違い、黙々と馬を駆っている青年がいた。珍しくもない黒髪に、珍しい蒼紫あおむらさき色の瞳をもち、秀麗といってよい面立ちである。年齢は、若者と一つか二つしか違わないように見えるが、どこか達観した、あるいは老成したような雰囲気を醸し出していた。

「なあ、あんた」

 少しためらってから若者が声をかけると、青年は視線を彼の方へ向けた。意識を乱されても、手綱たづなさばきに乱れはない。

「集団での仕事は、はじめてだったんだろ? どうだった?」

「ああ……」青年は、答えているのかいないのかわからない声を上げたあと、目を瞬いた。

せんは久々だったが、まあ、たいなく終わってよかった」

「そ、そうか。……意外と経験豊富だったりして?」

「ヒルカニアあたりで行われた戦争に、参加したことはある」

「へえ、そりゃすげえ」

 顔を輝かせる若者を、青年――メルトはそこではじめて見やり、苦笑した。もちろん傭兵の若者は、彼の表情とその意味に気づいてはいなかった。


 ほどなくしてメルトを含めた傭兵の集団は、オザルプに入った。メルト自身はそこで彼らと別れ、単身町の端の宿屋へ向かう。考えごとを巡らせながら歩いていた彼はしかし、宿のやや手前で足を止めた。目的の宿の入口近くに、一人の女性が立っている。まだ娘と呼んで差し支えない年頃の彼女は、光を浴びた小麦の色をした長髪をさらし、粗末な旅衣をまとっていた。

「わざわざそこで待っていたのか」

 彼がやや大きめの声で語りかけると、娘は北の草原のごとき翠の瞳を輝かせた。メルトの名を呼び、小走りで彼の前まで来てから胸を張る。

「予定通りなら今日戻ってくるって聞いてたから。予定通りだったね」

「いくらなんでも、こんな暑い中で待っていなくてもよかっただろうに」

「狭い部屋でじっとしていられる性分しょうぶんじゃないんです! よく知っているでしょう」

「相変わらずだな」

 彼女――フェライの謎の自信に満ちた発言に、メルトは再び苦い微笑を浮かべた。

 じっとしていられない性分の娘を連れて、メルトは一度部屋へ戻った。荷づくり――といっても、持ち物はわずかなのですぐに終わる――を済ませて、宿の主人に追加料金を銀貨で払った。そして彼らは、連れだってオザルプの町に出る。

 建物という建物に色とりどりの布がかかっていて、じっと行き交う人々を見下ろしている。ペルグ語の飛び交う通りは、西の海辺から来た支配者などいないかのようであったが、大きな建築物の端々には、彼らがもたらした建築技術が取り入れられ、彼らの信じる天神ゼウス地母神デメテルの彫刻が施されている。

 怪しまれない程度にそれらを観察していたメルトは、フェライに呼びかけられて観察を中断した。瞳をきらきら輝かせる娘の質問に一つひとつ応じたメルトは、話の終わりに彼女が唇をとがらせるのを見て肩をすくめた。こういうときに続く言葉は、決まっている。

「傭兵の仕事かあ。私も参加してみたいなあ」

「俺とおまえ二人での仕事ならともかく、集団戦闘となると厳しいな。女が剣を持つことに、眉をひそめる連中も多い」

「外に出てもこれなのね……。聖女って言われないだけましかもしれないけれど」

 フェライがため息をこぼし、旅衣のすその下に隠している剣を叩く。慰めるというつもりでもなかったが、メルトはとりあえず、娘の細い肩に手をおいた。細いといっても、町娘や貴族の子女よりはたくましい。

「今日も後で稽古つけてやるから、もうしばらくは我慢してくれ」

「わかりました。私もまずは、基礎を固めないといけないしね」

 フェライは元気よくうなずいた。屈託しない彼女の姿勢に、メルトは何度も救われている。


 メルトとフェライが、ロクサーナ聖教の総本山・聖都シャラクを脱してから、すでに三か月が過ぎている。途中、祭司長の手先と思しき祭司や騎士をやり過ごしながら、二人はなんとかイェルセリア新王国を脱した。ペルグ王国に入ったのが、およそ一か月半前である。それ以降、追手らしき人々を見かけることはない。聖女ギュライがなんとか牽制けんせいしてくれているのかもしれなかった。

「……それでも、カダルの奴があきらめるとは思えないがな」

「古王国の跡地まで、急いで行かないといけないってことよね」

 メルトが不吉な呟きをこぼすと、フェライはうすら寒そうに応じた。聖都での、数々の出来事を思いかえしているのかもしれない。


 急いで古王国に行かなければいけない。それは事実だが、現実は厳しかった。今、ようやくペルグ王国の東部国境まで来たところだ。ここからさらに、大国ヒルカニアを北東に抜けていかなければならず、どれだけ少なく見積もっても、古王国にたどり着くまで二か月はかかるだろう。進路上には、遊牧民の領域が点在し、強靭な狩猟民族が放浪しているとも聞く。よけいな揉め事を起こさないように、とは思っているが、どうなるかはわからない。


 思考にふけっていたメルトはしかし、すぐそばで響いた乾いた音を聞き、我に返る。振り向けば、フェライがなぜか両手を叩いたらしかった。彼が怪訝の視線を注ぐと、騎士の娘は花のような笑みを顔いっぱいに広げた。

「大丈夫! 私もできる限りのことはするわ。このあたりの人々に面は割れていないし、古王国の伝説も知られていないみたいだし。きっと大丈夫」

 メルトは面食らい、その少し後に笑いだす。「大丈夫」にどのていどの根拠があるかは知らない。だが、彼女はそのくらいがちょうどよいのだと思う。難しいことはメルトが考えて、難しくなりすぎたらフェライが喝を入れる。それで、上手く回りそうな気がした。

 笑われたのがふしぎだったのか、何度も目を瞬いた。なだめるようにその肩を叩いて、メルトはこれから行くべき方向へ目を向ける。

「差し当たり、東部国境を越えてヒルカニアに入るとしよう。今から行けば、遅くとも三日後には境にたどり着けるはずだな」

「そうね」

「国境を越えるのにまたひと悶着、とかならなければいいが」

「大丈夫……だと思うけど。ペルグとヒルカニアが戦争をしているとも、聞かないし」

 メルトは「そうか」とうなずいたものの、憂いが完全に払しょくされたわけではない。ペルグ王国が西方のミルキア人の支配下にある、というのがそもそも想定外だったのだ。彼らが異教であるロクサーナ聖教を許容していたのも意外なことである。フェライもペルグ王国の現状には驚いた様子だった。聖都がかなり閉鎖的だったこともあり、外部の情勢が詳しくわからなかったのだろう。

 旧来のペルグ人、ヒルカニア人、アルサーク人などと、新しく来た西洋人たちでは文化も常識も大きく違う。だからこそ、道中で何が起きるかまったく予想がつかなかった。

 だからと言ってこんな場所で足を止めるわけにもいかない。二人は市場で必要な糧食や装備を整えると、その日のうちにオザルプを発ったのである。



     ※



「すっかり調子づきおって。女狐が」

 聖都シャラクは大礼拝堂、その奥にある小部屋に、憤懣ふんまんと粘ついた悪意のこもった呟きが落ちる。呟いた張本人、祭司長カダルは、壁際の本棚から無造作に書物を取り出しながら、なおも悪態をついていた。仮にも宗教上の最高権力者に向ける言葉としてはそんに過ぎるが、聞いている人間は一人もいない。


 古王国の王太子に逃げられたあの夜以降も、カダルは祭司長であり続けている。聖女や聖教会議がカダルを罷免できるほどの証拠が、揃っていなかったからだった。今、聖女と従士は張り切って、その証拠をつかもうとしているところであろう。


 聖女に王太子のことを知られただけならばよかった。どうとでもごまかせるし、最悪「証拠隠滅」してしまえばよい。メルトに逃げられただけでも打つ手はあった。捕らえたければ追手を差し向ければよい。あるいは彼を泳がせれば、古王国を滅ぼした力にたどり着くことができるだろう。

 その両方が重なってしまったのが、カダルにとってはまずかった。

 ギュライの追及を逃れようにも、神聖騎士団の一員のうち数名が謎の負傷をし、一人が姿を消したという事実がある。王太子を追おうにも、聖女と従士がにらみをきかせているから、自由に人を動かすというわけにはいかない。

 聖女の力を持った騎士と、聖女の従士と、王太子自身をカダルは侮った。その結果が今だ。


 だからと言って、カダルはあきらめるつもりはなかった。聖女たちの目を逃れ、メルトたちの居所いどころをつかんで追跡する。やるべきことはそれだけである。

 書物を抱えたカダルは、次の手を打つために、荒々しさを押し隠して祭司たちのもとへ向かった。

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