第25話 門出の歌
遠ざかる音を背に走っているメルトは、ちらと少女を顧みて苦笑する。
「まったく、まぶしいものだ」
見た目は青年であるのに、まるで年よりのようなことを呟いた。そして若い騎士の目に触れぬよう、夜陰にまぎれて背後へ回る。彼は自分がすべきことを承知していた。
剣戟の音を遠くに聞きつつ走っていると、数人の騎士がメルトの行方をさえぎった。威嚇のつもりであろう、かざされる剣をメルトは平然と無視した。身を低くして彼らの脇をすり抜ける。騎士たちはすぐに追いかけてきたが、古き王子の表情は涼やかだった。
「カダルの手勢はこんなものか」
祭司長カダルは、他の者にいっさい秘密でメルトを捕らえ、杖のことを暴こうとしていた。フェライにはああ言ったが、実際カダルが手足として使えるのはほんのわずかな手勢だけ。彼の方から神聖騎士団に出動要請を出すことはできないのだ。寝返った騎士たちをこちらに引きつけ、本部に帰さないでおければ、それほど恐れるものでもない。逆に誰か一人でも本部に帰せば、「
本当は、騎士たちを徹底的に潰すのがよいのだろう。だが一方、メルトは今の自分を過大評価してはいなかった。彼はひととおりの武芸を修め、戦場の経験もあるが、六百年以上それらからは遠ざかっていた。白い謎の空間のおかげか身体の
メルトが振り返ると、根性のある騎士たちはまだ追いかけてきているようだった。短くため息をついた彼は、軽く助走をつけてから飛び上がる。民家の平たい屋根に着地すると、そのまま駆けだした。
しばらく家々を伝って走っていると、追跡の気配が消える。メルトは無人の石畳をうかがって、さる民家から軽やかに飛びおりた。六百年以上、世から離れていたとは思えない身軽さであった。
走り出したメルトは、突き当りの角を曲がったところで急に足を止める。またしても、
「
メルトは、舌打ちする。視線を上げて、遠くに見える門の影を確認すると、再び彼らに視線を戻す。むこうもメルトに気づいたらしく、早口でなにか言いながら距離を詰めてきた。どうせお決まりの脅し文句であろう。
メルトは右に視線をやり、
人々の足音と声が追ってくる。メルトは自分の息が上がっていることに気づき、顔をしかめた。
「やはり
イェルセリア古王国滅亡から今日までの日々が身体に与えている影響は、小さいものではないはずだ。そう思ってはいたが、実際に現実を突きつけられると堪えるところがある。だが、今は現実の重さにしょぼくれている場合でもない。手を差し伸べてくれた娘のためにも、逃げ切らなくてはならなかった。
なんとか小路を抜けたその時、しかし足音は近くなっていた。それだけでなくななめ前からも人の声が聞こえてくる。さて、どうする、とメルトが思案していたとき――彼の横を黒い疾風が駆け抜けた。
メルトが驚いている間に、彼の背後でいくつもの悲鳴が上がる。光が灯る。そして
「た、タネル
悲鳴じみた声を聞き、メルトは思わず振り返っていた。姿はよく見えない。ただ、長衣をまとった長身の男が、身長以上の槍を構えて立っている姿は、見えた。
男が顔をほんの少しこちらに向ける。夜色の瞳は「さっさと行け」と語っているようだった。メルトはすばやく礼を示すと、聖女の従士に背を向けた。
※
フェライがメルトと合流できたのは、市街地を端へと駆け抜けた先だった。ここまでくれば、聖都の出口まではあと少しだ。青年は、民家の陰で呼吸を整えているところだったらしい。フェライに気づくとすばやく身を起こした。
「メルト!」
「フェライ、無事だな。
どちらからともなく手を打ちあう。そして、メルトが腕を組んで彼女を見てきた。
「用事は済んだのか?」
「うん。一応、ね」
返答の歯切れが悪くなってしまうのは、しかたがない。メルトはなにかを感じ取ったようだったが、それ以上詮索はせず、うなずいてくれた。無関心を装った気遣いが、今のフェライにはありがたい。
今度は二人揃って聖都の脱出を目指す。フェライの案内があることに、メルトが内心ほっとしていることを、彼女は知らなかった。道中、二人を探してうろつく騎士や祭司を見かけたが、隠れてやり過ごすことができた。しかし、閉ざされた聖都の門がいよいよはっきりと見えたときになって、数人の騎士に見つかってしまった。
「いたぞ、捕らえろ!」
「……人を犯罪者のように言う」
呆れて肩をすくめているメルトをよそに、フェライは剣の鞘を持って踏み出した。
「メルト、少し下がって。ここは私が――」
そうしてフェライが剣を抜こうとしたとき。
どこからか、歌声が響いた。
フェライは聞き間違いかと思った。しかし、メルトも驚いた顔をしている。彼らが立ち直るより前に歌がやみ、その瞬間、空気がしゅっと音を立てた。
甲高い音と騎士たちのざわめきが同時に起こる。騎士の一人の右腕に、見慣れぬ矢が突き立っていた。
門が閉ざされているのは最初からわかっていた。もともと、日没の祈りが終わると聖都は閉門される決まりである。ただ、だからと言って夜に聖都を出る道がないわけではないのだ。門の横に岩ばかりが連なる険しい小道があることを、フェライはタネルに知らされた。一度、人の目を盗んで下見をした。今夜、メルトを連れて、再びその小道をゆくこととなった。
凹凸の激しい道をまたぐように歩きながら、フェライは今しがたの出来事を思い出す。
「さっきの矢……タネルさんかしら」
「違うと思う」
意外にも反応があった。無論、こたえたのはメルトだ。
「おまえと合流する前に、その従士と会ったが、弓矢を持ってはいなかった」
「そうなの?」
「ああ。それに、さっきの歌は――」
メルトがふと、遠くを見るような目をする。フェライがそっと声をかけると、彼は「なんでもない」と言ったきり黙りこんでしまった。言葉の続きを知らぬまま、フェライは先頭に立ち、険しい道を踏み越えてゆく。
険しい抜け道は長かった。道の凹凸が急になくなって、フェライはよろけた。幸い、転ぶ前に腕をひかれる。振り向けば、古王国の王太子が悪戯っぽい笑みをひらめかせていた。フェライも小さく笑い返して、今度は慎重に歩きだす。
気づけば夜の闇は、少しずつ薄くなっているようだった。夜が明けるまではまだ時間があるにせよ、もっとも深い夜は越えたらしい。であれば今度は、闇が払われる前に、できる限り聖都から離れなければならないだろう。
「夜明けまでに行けるところまで行きましょう。その後は、明るくなってからも人目につきにくいところを探して、休みながら近くの町を目指す、っていう感じになると思うわ」
「承知した」
「大丈夫?」
メルトがあまりにも自信満々にうなずくので、フェライは聞き返していた。彼は、小さな悪戯を楽しむ子どものように、笑った。
「どうにかなるさ」
とうとう、聖都を出た。とうとう彼女は、聖教と騎士団に背いてしまった。そう思うと、さまざまなものが混ざりあって、胸がを焼く。
これからどうなるのかは、なにもわからない。『騎士団の聖女』としての己を捨てた先に、いったい何が待つのかも。けれどふしぎと、あるのは不安や恐怖ばかりではなかった。
一人ではない。頼もしい青年が自分とともに、ここにいる。一緒なら険しい旅路も乗り越えられるような気がしていた。
彼を支える。古王国の地へ、共に行く。
迷いはない。
少女は青年とともに、果てなき世界への一歩を踏み出した。
(第一幕 やさしい檻と翠の庭・完)
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