第23話 明かりなき夜を駆けて
フェライはメルトの先導役として監獄塔を駆けた。最初は何度も後ろを振り返っていたが、青年が何事もないかのようについてきているのを見て、過度に心配するのをやめた。彼は本来、フェライよりもずっと「武人」であるのだろう。
まっくらな道に、やがて薄い光が差しこんだ。遠くに四角い出入り口が見えて、そこだけ闇の色が違う。光は今にも消えそうなほど淡い。今夜は新月のはずだった。
奇妙な二人は縦に並んで階段を駆け上る。
「外か」
飾り気のないことだけを言い、彼は少しの間、空を見つめ続けていた。気を取り直した彼がフェライを
「行くか」
「あっ……ええ」
「とはいえ、俺はここからどう行けば逃げられるかまったくわからん。案内を頼めるか」
「任せて」
胸を張り、フェライは再び前に出る。メルトの素性を知った日から少しずつ、逃走経路を調べ続けていた。今さら迷いはないのだった。
気にかかることといえば、祭司長の手の者や神聖騎士団の動きくらいである。カダルに従う祭司や
「カダルの奴がなにもしないとは思えない。前に、庭を訪れた騎士がいたが……あいつも含めて何人か、おまえの仲間がカダルに引きこまれていると思った方がいいかもな」
フェライは唇を軽く噛む。仲間たちと対立するようならば心苦しい。それでも、甘いことを言える立場でないことは、自分が一番わかっていた。もう、後戻りできないところまで来てしまったのだ。
記憶をたどりながら、フェライは騎士団本部を進んだ。なるべく人目につかないように動いたつもりだったが、予想外の事態というのはどこで待ちかまえているかわかったものではない。何度も回り道を繰り返して、ようやく騎士団本部の出口が見えたとき、進路上にふらりと人影が現れたのだ。フェライより一回り以上年上の、ペルグ系の騎士だった。巡回の最中であったらしい彼は、フェライの姿を見つけてぎょっと顔をひきつらせる。
彼がなにかを言う前に、フェライが動くより先に、メルトが大きく踏み込んだ。彼は細く息を吐くと同時、後ろにひいた右腕を力強く騎士の方へ突き出した。『なにか』でこめかみを
フェライは一連の出来事を呆然と観察していたが、メルトが騎士をやわらかい地面に横たえたときになって、顔をしかめた。恐怖と罪悪感が混ざりあう。形容しがたい感情が吹き出して、胸いっぱいに充満した。
メルトが騎士の持っていた剣を手に立ちあがると、フェライはなんとか苦い表情を消す。
「いったい、何をしたの?」
「これだ」フェライがためらいがちに問うと、メルトは右手首をひるがえしてフェライに掌ほどの灰色のものを見せる。それは、両端がとがった石だった。
「ひと月かけて、研いで、磨いた。ここまでやれば、路傍の石でも多少は使えるだろうと思ってな」
淡々と語る青年に、少女はつい感心のまなざしを注ぐ。王族とは思えない発想ではあるが、柔軟な考え方に学ぶところは多い。
二人は気絶した騎士に背を向けて、再び走り出した。その途中、メルトが鞘に収まった剣をフェライに手渡した。先ほどの騎士のものだった。
「これを使うといい」
「え?……私が?」
「おまえ以外に誰がいるんだ」
フェライが首をかしげると、メルトは呆れたように目を細めた。てっきりメルトが使うものとばかりに思っていたフェライは、困惑して剣を見つめる。そんな彼女に、メルトはあっけらかんと言い放った。
「おまえは騎士としてここにいたんだろう」
なにげない一言が少女の胸を突く。
「……そうね、ありがとう。使わせてもらうわ」
フェライは慎重な手つきで剣を受け取った。他人が身に着けていたものを無断で使うことに、途方もない罪悪感がある。だが、今さら言っても
少しして、フェライとメルトは聖都の市街地に降り立った。眼前には、先の見えない暗闇が漂っている。夜は深さを増し、すべてが死に絶えたかのような静けさと冷気が衣服を突きぬけて肌を刺した。
しかし直後、背後がにわかに騒がしくなる。喧騒の音は遠かったが、フェライはほとんど直感でそれを拾い上げた。彼女とメルトは互いに目配せすると、振り返るより先に夜へ駆けこむ。
ギュライがカダルを足止めできるのも、ここまでだったようだ。あるいは、気絶した騎士に気づかれたか。どちらにせよこの瞬間、フェライは追われる身となったわけだ。けれども、ふしぎと恐怖の感情は薄かった。
「確か、カダルは聖女が足止めする予定だったか」
唐突にメルトが訊いてくる。フェライは半分反射でうなずいた。
「ええ。でも、これ以上足止めは無理かもしれないわ」
「そうか」うなずいたメルトが、口もとをほころばせた。もっともフェライは闇の中で彼を見たから、それは見間違いだったかもしれない。
「今の聖女もなかなかにしたたかなようだな」
彼の温かい独白は、フェライの耳には届かなかった。
市街地の半ばまでを突っ切ったところで、フェライは眉を寄せる。隣をうかがうと、メルトも神妙と怪訝を全面にぬりたくった表情をしていた。
「騎士団が騒がしかったから、気づかれたかと思ったんだけど。違ったのかな」
「……いや」
歯切れの悪い青年の声を聞きながら、フェライは背後をうかがう。夜空と石と煉瓦の建物が沈黙している街には、人影のひとつもなかった。
二人が騎士団本部の変化に気づいてから、すでにかなりの時間が過ぎている。にもかかわらず、追手がかかった様子がない。
うすら寒さを覚えながら、それでも二人は完全には足を止めなかった。知らぬ間にカダルの罠にかかったのかもしれない。油断させて聖都の門付近でいっせいに包囲する、などというつもりなのかもしれない。嫌な可能性は限りなく思いついたが、どれも事態を裏付ける要素がないので、今のところ走り続けるしかなかった。
二人の逃走がにわかに終わりを告げたのは、追手がないことに気づいてから四半刻ほど経ったときである。先に足を止めたのはメルトだった。彼は「待て」と鋭くフェライを制した。彼女は、理性的な判断ではなく声の圧に引きずられて立ち止まる。しかし、ほどなくしてメルトが立ち止まった理由に気がついた。
眼前の民家の陰から、人の形をした黒が、にじむように通りへ出てくる。あたりは暗闇ばかりだったから、その人の姿がすぐにはわからなかった。フェライの目が色と輪郭をつかむ前に、とげとげしくも美しい声が響く。
「そこまでだ」
短い言葉。けれどもそれを聞いて、フェライはぞっとした。低められた声は聞き覚えがある。
フェライの耳が彼を認識したとき、彼女の目もその姿を捉えた。騎士団の制服。ふしぎなほどに白い肌。肩にかかるきれいな黒髪。切れ長の目に、
フェライの同期、若き騎士デナンが、抜き身の剣を右手に持って立っていた。
にわかには信じがたいことだった。けれども、衝撃に打ち震えるフェライとは対照的に、メルトは冷静そのものだった。
「おまえは、いつぞや庭をうろついていた騎士だな。やはりカダルの手先だったか」
「え……?」
フェライは思わずメルトを見上げる。その視線はすぐ、デナンの方へ戻された。彼が口を開いたからだ。
「檻に戻っていただこう。あなたを外に出すわけにはいかない」
「俺一人捕まえるためだけに、騎士様が夜分遅く出てきたわけか。聖都を守る神聖騎士団とやらは、よほどひまを持て余していると見える」
あからさまな皮肉に、デナンは眉を寄せた。だが、すぐに無表情の仮面をかぶりなおす。
「祭司長のご指示だ」
「おまえの正式な上官は騎士団長だろう。なぜ祭司長に従う?」
デナンは黙して答えなかった。だが、その一瞬、茶色い瞳がフェライを見た。二人ともがそれに気づき、顔には出さずとも苦みを噛みしめる。
フェライは無意識のうちに拳をにぎっていた。
温かい思い出と冷淡な後ろ姿が、かわるがわる脳裏にちらつく。
どうしてだろう。どうしたらよいのだろう。
問いかけを、長い間続けてきた。答えは出なかった。苦味が増すばかりだった。
ただ、それを噛みしめ続けてやっと、明かりなき夜の中で彼と向かいあうことができた。彼はきっと自分を見ていない。少女は気がついていた。
ならば、どうやって視線をこちらに向けるのか――今の彼女には、答えは一つであるように思われた。
「メルト」
小声で青年を呼ぶ。いらえはなかった。けれど、彼が自分を見たと信じて言葉を続けた。
「デナンは私が引きつけるわ。メルトはその間に、先へ行って」
「本気か?」
「本気ですとも」
フェライはそこで、彼に軽くほほ笑みかけた。
「ご心配なく。私一人で捕まる気はないわ。デナンを引きつけるのは……私も彼に用事があるから」
フェライとデナンの間に横たわるものを、メルトは知らない。それでも彼は「わかった」とうなずいた。デナンに見咎められぬよう身構えるあたり、さすがとしか言いようがない。
彼なら大丈夫。そう己に言い聞かせ、フェライは大きく一歩前に出た。デナンが得物を上げるより先に、借り物の剣を抜く。
「神聖騎士団員デナン!」
声を張って、名を呼んだ。
届くかはわからない。それでもフェライは、彼に剣の切っ先と――言葉を向けた。
「同じく神聖騎士団員フェライより、あなたに決闘を申し込みます!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます