第22話 決行

 翌日の夕方、フェライはカダルに会った。油断ならない老人に蒼ざめた顔を向けると、彼はいささか驚いたようである。

「何かあったのかね、フェライ殿」

「そ、それが……」

 気が動転しないよう、頭の中で言葉を繰り返しながら、フェライは唇を震わせる。

「実は今日、監獄塔を出たときに、タネル様に呼びとめられたのです」

「……聖女様の従士に?」

「はい」

 フェライは、弱々しくうなずいた。虚実ぜた話を真実と見せるためだった。フェライが監獄塔前でタネルに呼びとめられたことは確かにあった。しかしこれはひと月以上も前の話で、しかも監獄塔を出た後ではなく入る前である。けれども、突きつけられた槍の恐怖を思い出せば、まつな嘘を隠すことは難しくなかった。

「タネル様に、監獄塔の中に人がいるのか、と尋ねられました。……ギュライ様やタネル様は、監獄塔に誰かがいることに、気づいていらっしゃるのではないでしょうか」

 カダルはしわだらけの顔を指でなでる。考えこんでいるようだった。フェライが動揺したふうに目を伏せると、彼は薄い唇を開く。

「従士は、ほかになにか尋ねてきたかね」

「ええと……巫覡シャマンは幾人関わっているのか、とか、鍵は現在誰が管理しているのか、とか……そのようなことだったでしょうか」

「なんと答えた?」

「わかりません、と。私は私の仕事をしているだけなので、そういうことは知りませんと答えました」

「そうか、承知した」カダルは小さくうなずいた。「それでいい。従士の動きは君が気にしなくても大丈夫だ。引き続き、仕事に励むように」

 カダルはそう言い残すと、足早に歩き去ってゆく。表情に動揺は見えなかったが、歩調はいつもよりも荒々しかった。内心、あせっているのだろう。

 カダルの背中がかなり遠ざかったところで、フェライは大きく息を吐いた。鼓動は、まだ早い。

「本当に、これで大丈夫かしら……」

 嘘は下手だが、今回はどうだっただろうか。自分がカダルに怪しまれなかったとしても、彼がギュライたちの考え通りに動くかどうかという点に関しては、不安が残った。

 フェライはかぶりを振り、顔を上げる。不安だったとして、それを気にしてばかりもいられない。やることはやったのだ。いま大事なのは、次の行程にすぐ移れるよう準備しておくことだろう。フェライは、ひとけのない廊下を駆ける。遠くから一人の騎士がうかがっていることには気が付かなかった。



 少女騎士から思いがけない話を聞いたカダルは、いまいましさを隠そうともせず、祭司たちや己に従う巫覡シャマンたちに指示を出してゆく。ギュライが従士タネルを使って自分の身辺を嗅ぎまわっていることは知っていたが、監獄塔に目をつけられているとは思っていなかったのだった。寡黙な従士の手腕を甘く見ていたのかもしれない。

 フェライが答えらしい答えを与えていないのが幸いだ。しかしカダルは、少女の証言を心から信じていたわけではなかった。彼女がカダルたちに――ロクサーナ聖教と神聖騎士団そのものに反感を抱いていることは、彼女を引きいれた当初から知っているのだ。


 夕方の祈りの後、カダルは一人の祭司のもとを訪れていた。監獄塔の鍵の実質的な管理を任せている者だった。カダルは彼に、鍵の場所を移動させることを指示した。タネルがあるいは、すでに鍵の保管場所に目星をつけているのではないか、そう判断したからである。


 祭司はただちに、大礼拝堂の小部屋の書物にまぎれさせていた鍵をカダルの指示通りの場所に移動した。礼拝堂のさらに奥、祭司たちが使う儀式の道具などを保管している部屋だった。その部屋は騎士団宿舎の寝室の半分もない。明かりもなく、入室する時は行灯ランプをわざわざ持ちこまなければいけなかった。棚の中に鍵を丁寧にしまいこんだ祭司は、ほっと息をつき、部屋を後にする。


 祭司が出ていき、扉が閉まり、部屋はまた暗闇に閉ざされた。ほどなくしてその部屋の中に、光の粒が現れる。指先ほどの光の粒が集まって、大きな光が生まれた。同時、棚の後ろで人影がうごめき、そして出てきた。大きな光を手足のように操るのは、ギュライの従士タネルであった。タネルは眉ひとつ動かさないまま、先ほどの祭司が触れた棚を開く。迅速に鍵の束をつかみだし、中身を元通りにして棚を閉める。息を吹きかけて光を消すと、音もなく部屋から滑り出た。

 祭司長の裏をかいた従士は、こうして監獄塔の鍵を手に入れたのである。



 フェライは、夕食後、いつもよりゆっくりと宿舎の方へ歩いていた。常と変わらず騎士たちの中を歩いている自分。安らいだ心。それらを感じておかしな気分になる。今日は、宿舎に戻ることはないはずなのに、そして今後一切戻れないかもしれないのに、気持ちは妙に落ちついているのだ。

 すっかりなじんだ、刺すような気配が背をなでる。フェライはさりげない所作で、騎士たちの群の中から飛び出した。近くの物陰をのぞきこむと、予想通りタネルがいる。彼はフェライと目が合うやいなや、なにかを投げて寄越した。じゃらじゃらとやかましいそれを慌てて受け取ったフェライは、目をみはった。

「うまくいったんですね」

 タネルが投げたのは、鍵の束だ。どこの鍵かなどと、尋ねる必要はない。フェライが顔を輝かせると、従士は小さくうなずいた。

「よくやった」

 続いた言葉に、フェライは唖然とする。聞き間違いだろうか。戸惑う少女をよそに、タネルは親指を立てて、宿舎ではない方角を示した。

「行け。祭司長は猊下が足止めしてくださる」

「……わかりました。ありがとうございます」

 タネルはなにも言わず、闇に溶けこんで姿を消す。同時、フェライも夜の中に駆けこんだ。


 もともとイェルセリアの夜は寒冷だ。冬が近づき、その寒さはいっそう厳しいものになっている。けれど、フェライは今、寒さをほとんど感じていなかった。緊張か、高揚か、体の中がとかく熱い。


 今夜、すべてが変わる。変わってしまう。迷いがないと言えば、嘘になる。闇夜の中を駆ける中で、これでいいのだろうか、という思いに何度かかられた。ルステムとチャウラにはなにも話せていない。当然、話してはいけないからだったが、なにも言わぬまま聖教にそむくことになるのが心苦しかった。メルト一人を逃がすにせよ自分も共に逃げるにせよ――今後、よい形で再会はできないだろう。それに、デナンとも、結局話ができないままだ。不満も大きかった騎士団生活はけれど、振り返れば悪いものではなかった。未練ばかり思い浮かぶのはその証拠。


 その未練は、振り切っていかねばならない。監獄塔の青年を助けたければ、これまでの自分を捨てていかなければいけない。彼にも、言われたことだ。

 それでも構わないと答えたのは、フェライ自身だ。決めたのは己だ。であれば、もう、腹を決めなくてはいけないのだろう。

 夢中で走り、変動の予兆に身を震わせた少女はやがて、夜の中にさらに暗い影を落とす石の建物を見いだした。


 一度足を止め、息を整えたフェライは、慎重に踏み出す。さっそく鍵の出番だった。錠が下ろされた扉をなんとか開き、その内側に身をすべりこませる。

 夜であり、灯火のたぐいも持っていない。だから監獄塔の中は暗闇そのものだったが、フェライは恐れはしなかった。これまで幾度となく通ってきた道だ。まわりが見えなくとも感覚で進むことができた。見知った扉の前にたどり着く。フェライは大きく息を吸ってから、全身を使って扉を開いた。

 闇の中に、ふうわりと、黄金色の光が広がる。目をきつく細めたあと、翠色の瞳をみはった少女の視線の先で、寝台に腰かけた青年が悪戯っぽく笑った。

「待ってたぞ」

 彼は楽しげにささやいた。フェライは思わず「あっ」と声を上げる。金色の光、その光源は彼の手もとに浮かんでいたのだ。はじめて目にする巫覡シャマンのわざに、フェライは心奪われそうになった。しかし、メルトの手枷と鎖の音を聞き、我に返る。

「鍵を持ってきたわ。……大丈夫?」

「無論。頼む」

 メルトは小さくうなずくと、枷のついた両腕をかかげた。フェライは、慎重に彼の前へと歩み寄り、ひざまずく。鍵束を手に少し迷った彼女に、メルトが枷の鍵はおそらく右から三番目だと教えてくれた。すぐにそれがわかったことに驚いたものの、この状況ではありがたい。メルトの示した鍵を枷の小さな穴に差し込んで回すと、かちり、と音が鳴った。メルトとフェライは一瞬、会心の笑みを交わしあう。

 鍵を抜く。枷は、少し動かすと、メルトの腕からあっさり外れた。なるべく音を立てないよう、フェライがそれを寝台に置く。一方のメルトは、自分の腕を少し確かめたかと思うと、立ち上がった。思いがけず力強い身ごなしだ。

「へ、平気なの? 十五年も閉じ込められてたのに」

「ま、多少は鈍っているかもしれないが。このくらいは問題ない」

 さらりと答えたメルトは、その場で軽く体をほぐしながら呟く。

「何しろひまだったのでな。ときどき枷を使って体を鍛えていた。ようやく役立つ日が来た」

 感心すればよいのか、呆れればよいのか。苦笑したフェライは、「大丈夫なら、行きましょう」と声をかける。メルトは軽くうなずいて、彼女の後に続いた。

「さて――脱獄開始だ」

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