第16話 やり残したこと 1
どのくらい時間が経ったのか、わからない。
水音に釣られてか、寝台にあおむけになっているメルトが薄目を開いた。
「あ、うるさくしてごめんなさい。寝てて大丈夫よ」
「……いや」
メルトは、天井に目を向けたまま否定の言葉を口にした。
「もうじゅうぶんに眠った。目がさえてしまったな」
「……そう」
フェライとしては休んでいてほしいが、本人の気持ちだけでどうにかなることではないだろう。黙って布をしぼり、メルトの額にそっと置く。彼は小さく感謝の言葉をこぼしてから、目を彼女の方へ向けてきた。
「カダルは、おまえにどこまで説明したんだ」
唐突な問いに、フェライは思わず固まった。それから、今日――いや、もう昨日かもしれない――のやり取りを思い出してむなしくなる。
「私の質問には答えてくださったけれど、それ以上は、なにも。メルトに『古王国を滅ぼしたなにか』について尋ねたとは、聞いたわ。でも、説明が曖昧すぎて……頭に入ってこなかったっていうか……」
「理解させる気がなかったんだろう。それらしいことを言って恐怖をあおりたて、追及する気を削ごうとしたか」
あの老人を前にして抱いていた気持ちの悪さの正体。それを真っ向から指摘され、フェライは肩をすくめる。メルトを自由にしようと思ったら、まず彼と向きあわなければならないだろう。考えただけで、体の中がすうっと冷えた。
けれど、おびえてばかりもいられまい。
「ねえ、メルト。訊いても、いいかしら」
「無論だ。素性を知られた以上、事情は把握しておいてもらった方が、俺もやりやすい」
メルトがあっさりとそう言ったので、フェライはほっと肩の力を抜いた。
一瞬の静寂の後、青年の静かな声が夜に染みわたる。
「イェルセリア王国……今は古王国と呼ばれているんだったな。俺は、その地で、国王オルハン三世の子として生を受けた。その後、叔父上に子が生まれたが、王の子は俺一人だった」
「……ひょっとして、その、叔父さまの子どもっていうのが……」
フェライが軽く目をみはると、メルトは口の端を釣りあげて、
「王宮に、対等に付き合える男子がお互いほかにいなかったから、俺とユイアトは自然と一緒にいた。剣の稽古をしたり、こっそり王都に下りたり、王宮の大人たちに
フェライは、思わず吹き出した。古代の英雄と最初の国王が大人たちをおどかす図を想像すると、ふしぎな気持ちになる。メルトも、軽い
「二人でよく街に下りては大人に叱られていたが、十歳のときに、限定的ではあるが王都へ出ることが許されるようになった。俺が、
「古王国の頃は、聖女様が王宮に出入りしなかったの?」
「その頃から、聖女と王族でやり取りすることはあった。だが、今と違って聖女の権力は微々たるものだったから、それは頻繁ではなかったんだ。当時の聖女は、一年のほとんどを山頂の礼拝堂で過ごしていた」
まさに、『
「それでも、聖女に会う機会がなかったわけじゃない。俺は十五歳で王太子として立てられたが、その式典にも当時の聖女――ヒューリャ殿は出席してくださった。
俺は王太子になってから、父の仕事を手伝うことが増えたが、それ以外は以前と変わらなかった。ユイアトとも会ったし、街の神殿にも足を運んだ。しばらくは平和な日々が続いた。しかし――ある年の夏、父が王宮を訪れた商人から、妙なものを買った」
「妙なもの?」
「杖、だった。儀式杖のような、細かな装飾の入った杖。そして先端に、暗い紫色の宝石が埋め込まれていた。父はそれをたいそう気に入っていたが、俺はその杖を見せられた瞬間……恐怖を感じた」
メルトの声が少し震える。フェライも思わず息をのんだ。
「なんと説明したらよいのか……冷たい手に心臓をわしづかみにされるような感覚、とでも言うべきか。ともかく、恐ろしいものをその杖から感じた。同時に、これは人が手にしてはいけない、とも直感した。父の前ではどうにかこらえたが、その後俺は、ユイアトに杖への恐怖を訴えた。ユイアトは覡の力を持たなかったが、俺の話を信じてくれた。俺たち従兄弟は父であり
外では変わらず月光の優しい夜が続いていたが、監獄塔の空気は重くなるばかりだ。メルトは、少し黙りこんでから、言葉を選ぶようにして、それでも話し続けた。
「父は、俺たちがあまりにもしつこく杖を手放せと言うものだから、次第にかたくなになっていった。俺と父は言い争うことが増えた。困り果てたユイアトや、母や、まわりの者たちが街の巫女にこの件を相談したらしい。そうしたら、街の巫女から山頂の礼拝堂へ話が渡って、その年の秋の半ばに、ヒューリャ殿が王都へいらっしゃった」
「その……聖女様は、なんて?」
「俺と同じようなことを感じた、と仰っていた。あれは危険なものだとも。だが、父は聖女の言葉にすら耳を貸さなかったらしい。ことその杖に関しては、とにかく頑固だった。しかたがないのでヒューリャ殿は、父と杖をよく見ておいてくれと、俺たちに強く念を押した」
それからしばらくは、山の下のヒルカニア王国との小競り合いがありつつも、おおむね平穏な時が過ぎた。しかし、その年の冬がすぎ、
「前触れは、なかった。俺が異様な気配に気づいたときにはもう、杖が保管してあった父の部屋が破壊し尽くされた後だった」
「な……何があったの?」
「わからん。ただ、あの杖が何らかの大きな力を持っていて、それが暴発したのは確かだった。正月前で、ヒューリャ殿が王都にいたのは幸か不幸か……。彼女はすぐ対応してくださったが、杖は
想像を遥かに超える話の内容に、フェライはもはや、言葉を失っていた。しかし、唖然とする彼女とは対照的に、メルトは皮肉な笑みを
「だが、少し破壊を遅らせられるだけでもじゅうぶんだったんだ。秋の半ばにヒューリャ殿からの忠告を受けて以降、俺たちは何が起きてもよいようにと準備していたからな。
まず、街の巫女と彼女の抱える
「そして、メルトと聖女様……ヒューリャ様は王都に残ったの?」
フェライがなんとか問いかけると、メルトは小さくうなずいた。
「正確には、俺とヒューリャ殿と、彼女の従士だ。最初は俺も民を先導するために王都を出る予定だったが、ヒューリャ殿と王都の
淡々と過去をなぞる声に、苦味がにじむ。茫洋としている蒼紫色の瞳が何を映しているのか、今に生まれ、今に生きる少女には想像もできなかった。
「俺はユイアトに、母と民たちを託した。あいつは最後まで反対したが――代案を考えてる時間などなかったから、むりやりあいつを言いくるめて、無惨に壊れた王宮に飛びこんだ。そのときにはもう、
俺はなんとか父の部屋にたどり着いた。そこはすでに
その途中に父を見つけた。父は、部屋の中央に血まみれで倒れていた。……ああ、すでに息はなかったよ。杖の一番近くにいたから、まっさきに巻きこまれたのだろう。
くだんの杖は部屋の奥に転がっていた。先端に埋まっている紫色の石がぶきみな光を放っていて、そのまわりは特に暗かった。かき集めていた光も消えた。それでも俺は、暗闇の中で杖を探しだして、にぎった。杖の下の部分は木でできていたし、紫色の石もそれほど上等な物には見えない。だから、つかんでしまえば後はどうにでもなる、そう思っていた。だが、にぎった杖を持ちあげた瞬間――急に、視界が真っ白になったんだ。それまでの暗闇が嘘みたいに。
気が付けば俺は杖どころかなにも持たず、妙な空間にいた。天が白くて、地面が草原のようになった場所だった」
変な場所だ、と一瞬他人事のように考えた。けれどフェライは、その後すぐに、自分も同じ場所を見たことがある、と思い出した。はじめて、メルトの「内側」をのぞいた日――天の白い草原の風景は、背筋が寒くなるほどの虚無をもって襲いかかってきたではないか。
「俺は、草原のまんなかにぽつんと置いてある椅子に座っていた。両腕が天から伸びる透明な鎖で繋がれていた。鎖の終わりをたどろうとしたが、終わりはまったく見えなかった。――おかしな空間だ。俺はそこがどこかもわからぬまま、長い、本当に長い時を過ごした」
「ひょっとして――その間に、この大陸で六百年近くが過ぎていた、ってこと?」
「おそらくはな。俺も正直、信じ切れていないんだが」
メルトは大きく息を吐いた。フェライもため息をつきたい気分だった。彼女が自分の中の淀んだ気持ちと戦っている間に、メルトはとぎれさせた話を再び繋いだ。
「その、おかしな空間にいる間は、ときどき変な声が聞こえる以外になにも変化がなかった。だが、あるとき急に景色がぶれて、そして消えた。目を開けたら、荒れ果てた砂地の上にいた。太陽が強く照りつけているのに風は冷たくて、あたりは苦々しい岩と砂のにおいに満ちていた。忘れようもない恐ろしい感覚がそこらじゅうに広がっていたが、杖はどこにもない。――ただ、間違いなくそこは、すべてが破壊された後の王都だった。
俺はすぐにでも、自由になった体を動かして状況を確かめたいと思った。が、体は動かなかった。激しい
カダル祭司長はどういうわけか、メルトが古王国の王太子であることをすぐに見抜き、古王国を滅ぼしたものについて訊いてきたという。この部分は、フェライが彼から聞いた話と同じだった。「メルトは……教えなかったのよね?」と声をひそめて尋ねると、ふいに、メルトの両目に激しい光がはしった。
「教えられるはずもない。あんな危険な杖の話など、誰にもしたくなかった。『危険だから教えられない』とだけ言ったが、奴は引き下がらなかった。そのうち俺の方が気を失って――次に目を覚ましたらここにいた」
声が、消える。どこか遠くで、再び石の鳴る音がした。それをかき消そうとするかのように、メルトは深く息を吐いた。
「その後も奴は、『古王国を滅ぼしたもの』について、しつこく訊いてきた。最初はその意図がさっぱりわからなかったが……フェライ、おまえのおかげでひとつ仮説が立った」
「私?」
「ああ、おまえから色々と話を聞いたおかげで気づいた。奴はおそらく、杖の力を手に入れようとしている。大きな力を手に入れることで――現在の聖女に対抗しようとしている」
フェライはそのとき、口さがない騎士や祭司見習いが時折噂していることを思い出した。祭司長が聖女様の
一人で顔をしかめているフェライをよそに、メルトが右手を強くにぎりしめた。
「……おそらく、杖は壊れていない。俺が見つけられなかっただけで、あの地に残っているはずだ。そしてカダルの手下の
骨が浮き出るほど強くにぎられていた、彼の右手から、ふいに力が抜ける。生来の意志の強さと、現在の
「だが、俺一人では、どうにもならない。この状況では……」
月光よりも淡く弱い声が震えて消える。フェライは、古き王族の青年にかける言葉を見つけることができなかった。
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