第15話 月の輝き

 粘つくような怒りとむなしさを抱えたまま、フェライはしかたなく食堂に入る。食べ物を見て喜びを感じるような余裕もなく、ただ食事を受け取って、いつもの席についた。

 食べたいとは思えなかった。だが、体は空腹を訴えている。だからただ食べた。なにも見えないし、聞こえないし、なんの味もしない。


 そのまま、どれほどの時間が過ぎたことだろう。

「フェライ!」

 かたわらから、はじめて、声がした。フェライはふと食事の手を止め、声がした方を見上げる。顔なじみの青年の心配そうな目が映った。

 その目を見た瞬間、急速に、フェライの世界にすべてが戻ってきた。彼女自身忘れていた、己の声をゆっくりと確かめる。

「……え、あ。ごめん。どうかした、ルステム?」

「どうかした、じゃないっての。おまえ、今日変だぞ」

「そう?」

 フェライはなんとか取り繕おうとした。しかし、彼女の努力はもう一人の同僚によって粉砕される。

「そうそう。なに話しかけてもちっとも返事しないしさー。お昼ごはんのときはいつものフェーちゃんだったのに。なにかあった? あ、またデナンにつっかかられた?」

「い、いや、えっと……そうじゃないの。なんでもないの」

 慌てて否定する。否定することしかできない。いくらなんでも、先刻のことを他人に打ち明けるわけにはいかなかった。

 ただ、フェライは嘘が下手だった。嘘の香りが出ていたのか、同僚二人は彼女に疑わしげな視線を注ぐ。

「本当か?」

「本当」

「ほんとにほんと?」

「本当に本当。デナンはつっかかるどころか全然釣れないし」

 冗談めかして言うと、これは少し効果があった。チャウラは呆れたように目をすがめ、「だからデナンは魚じゃないって」と律儀に指摘してくれる。しかし、ルステムの表情は晴れないままだ。胸が痛む。

 心の中で二人に謝りながらも、フェライはどうにか笑ってやり過ごした。



 夕食の後、いつもどおり宿舎へ帰ろうとしたフェライを聞き慣れない声が呼びとめた。振り返ると、白い衣に白い帽子の祭司が立っていた。しかし、いつもの祭司でもカダルでもなく、若い男の人のようだった。彼は廊下から人がはけたところを見計らって、フェライにささやく。

「突然のことで申し訳ございません。……メルト殿下の見張りをお願いしたいのです」

 彼の声は苦々しげだった。フェライは、彼の顔をまじまじと見返す。「また『実験』ですか」と刺々とげとげしく尋ねてしまったが、予想に反して若い祭司はかぶりを振った。「いいえ」と小さな声がする。

「ですが、突然『検査』の後のような状態になられました。……おそらくは、最近の相次ぐ『検査』で体調を崩されたのではないかと。祭司長も近頃、あせっておいでですので」

 そこまで言って、祭司は慌てて両手で口を押さえた。フェライはその反応を見て、少し肩の力を抜く。彼は、今までの祭司たちと違って接しやすそうだった。

「それで、ひょっとしたら暴走するかもしれないから見張ってほしい、ということですね。暴走がなんなのか、私にはわかりませんが」

「は、はい。左様です。監獄塔の入口に巫覡シャマンを数人待機させますので、なにかあったら彼らを呼んでください」

 祭司はそう言うと、フェライに白濁した小さな石を渡してきた。これをいったいどう使うのかと思ったが、持っていれば大丈夫と言われたので、ひとまず受け取って走り出す。

 今までにない事態だ。何が起きるかもわからない。急ぐに越したことはなかった。


 雲のかけらも浮いていない紺碧の空を、月が白々と照らし出す。闇の中では存外に強い月光を頼りに、フェライは監獄塔に向かった。

 いつもよりも時間をかけてたどり着いた監獄塔は、夜の影に沈んでいっそう重く見える。そういえば夜に来るのははじめてだった。圧倒されているフェライに、声をかけてくる者があった。先ほどの祭司だ。彼は周囲の目を避けるようにして、フェライに水の入った桶と、布を渡してきた。その意味を悟って顔をこわばらせる彼女に、「気をつけていってください」と、祭司はささやく。お礼を言ったフェライは、険しい顔をして立っている巫覡シャマンたちをなるべく見ないようにして、さらに冷たい闇の中へと飛びこんだ。


 監獄塔は変わらず静かだった。ときどきどこかで、甲高い音がする。石の継ぎ目が、ときどきそうして音を立てるのだ。それらの音ひとつひとつに、フェライはいちいち気を取られながらも、なんとかメルトの部屋の扉を開けた。橙色の灯りが目に飛びこんでくる。文机の隅に、行灯ランプが置かれているのだ。

 月と火の光に照らされた独房の中には、身の毛のよだつような沈黙が満ちている。寝台に横たわる青年が、いつになく苦しそうにしているのを少女は見つけた。入口でもらった桶をひとまず文机に置いた彼女は、まず彼の反応を確かめた。

 名前を呼んでも、軽く頬を叩いても反応がない。呼吸はしているし脈もあるので生きてはいるのだが、なぜかその存在が消えてしまいそうなほど弱く感じられた。

 メルトが、強くうめいた。フェライは、自分の白い手が震えていることに気づいた。封じ込めていた不安が頭をもたげる。


 古王国の王族で、先祖を守った英雄。その名は今まで知らなかったが、建国伝説の片隅にふとその存在が出てくることはあった。

 その彼がどうして、ここにいるのか。どうしてこんな目にあっているのか。亡き家族の姿を求めるほどに、苦しんでいるのは――


「メルト……」

 誰にも知られず生かされて、目的も見いだせぬまま檻の中にいる。

 彼の姿が、騎士にも聖女にもなれず、己の意志などないかのように働き続けた己の影と、ふいに重なった。

「お願い、目を開けて。もう、一人で、そんなに苦しまないで」


 独りになりたくなかった。

 誰かに声を聞いてほしかった。

 並び立って共に歩いてくれる誰かを、ずっと探していたのだ。


「メルト、ねえ、お願いだから……メルト!」

 そうしていくらか名前を呼んでいると、青年の体がかすかに動いた。フェライが固まっているうちに、そうっと瞼が持ち上がって、蒼紫色の瞳がのぞく。神秘の色をのぞきこんだ瞬間、少女のちっぽけな胸に、どっと安心感が押し寄せた。

「ああ、よかった、気がついた……! このまま目ざめなかったら、どうしようかと……」

「フェライ」

 メルトは、かすれた声で彼女の名を呼び、上体を起こす。止める間もなかった。

「死にはしないさ。死なれたら困るから、じじいどもも加減しているんだろう」

 戸惑いながらもとりあえず桶を手に取ったフェライに対し、メルトはどこまでも冷静だった。自分のことなのに、他人ひとごと以上に冷たいようだった。

「そういう問題じゃないわ!」思わず憤慨して叫んだフェライは、布を水の中に突っこんで、憤懣ふんまんをぶつけてかき混ぜた。途中、かたい感触に腕が触れて、白濁した色の石を思い出す。どう使うのかもわからないが、使う必要もなさそうだ。

 じゅうぶんに布地に水が行きわたったようだった。布を持ち上げようとしたフェライの背に、静かな声がかかる。

「ところで。おまえはなぜ、そんなに慌てているんだ。監視役せわがかりのくせに」


 ぎくりとして、フェライは手を止める。確かに、ここまで動揺したのは、はじめて「見張りをしろ」と言われた日以来だ。

「なぜ、って……」

「俺が熱出すのなんて、はじめてのことじゃないだろう」

 仰るとおりだと思いつつ、口には出さなかった。今日あったことを知られたくないからか、フェライの口が勝手に重くなる。

 それでも、聡明な王太子はすべてを見すかしていた。

「聞いたのだろう、俺のことを」

 どちらとも、言えなかった。けれど、それが何よりもの答えになることも、知っていた。

 フェライは小さく息を吸って、かぶりを振る。

「詳しくは聞いていないわ。古王国の人だとしか」

 最後のあがきでついた小さな嘘は、やはりメルトには見抜かれてしまっていたらしい。少し空気が震えて、彼の笑声が届いた。

 それでもフェライは正直に話したくなかった。話してしまえば、きっと彼はフェライを突き放そうとする。

 案の定、メルトはフェライに背を向けた。

「知ったのなら、これ以上情を傾けない方がいい。俺はいわば、亡霊だ。この時代にいるはずのない人間だ」

 フェライは息をのむ。予想していたとはいえ、実際に言われると、こたえた。

 それでも彼の言葉には驚かなかった。フェライが同じ立場でも同じことを言うだろう。今を生きる人間に、本来生きているはずのない人間が関わることをよいとは思わない。

 だが、メルトは本当にそれでいいのか。そうしてまた、独りになろうと言うのか。

「わかったら、出ていけ」

 冷たく響く声の中ににじんだ悲しみから、少女は目を背けることができなかった。水に浸した布のことも忘れ、佇んで、メルトの後ろ姿を見つめる。けれど彼はそれきり、フェライの方を見ようとはしなかった。光と闇の狭間にうずくまるその姿が、ただ痛い。


 こらえきれなかった。


 一歩を踏み出した。手を伸ばして、腕を、悲しげな背中にそっと回した。怒られるかもしれない。それでも構わなかった。彼を孤独に追いやるよりはましだ。


「だめよ」


 思わず言うと、驚いたふうなメルトの顔がこちらを見た。フェライはにじんだ涙をぬぐうこともせず、幼い子どもが駄々をこねるように首を振る。

「だめ、メルト。そんなふうに独りになろうとしないで。……だって、こんなの、おかしいわ。狂ってる。ご先祖様の命を守ってくれた人を、こんなふうに扱うなんて、どうかしてる」

 ずっと、しまっていたいきどおりが、気づけば口からこぼれていた。

「……それは」言い淀んだ青年を引きとめるように、小さな騎士は腕に力を込めた。

「それに、私は、あなたが傷つくのを見たくない」

 同情だと言われれば否定できない。最初は所詮、囚人を自身に重ねていただけだった。けれど、今はもう、それだけではない。


「ねえ、メルト。メルト・シャーヒ・イェルセリア殿下。私にもあなたの重荷を分けて。ここにいるならそばにいるし、どこかへ行くなら私もついていく」

 彼を支えたい、自由にしてあげたい。だって彼は、生きているのだ。どうしてかはわからないけれど、生きてここにいるのだ。


 メルトはしばらくなにも言わなかった。行灯ランプの火が衰えはじめた頃、彼の冷たい指が、フェライの腕に触れた。

「それでいいのか」

 フェライはうなずく。躊躇も迷いもありはしない。

「もちろん」

「おまえは、馬鹿だ」

「よく言われます」

「俺とともにい続ければ、おまえも戻れなくなる。……多分、最後は、人ではない何かになってしまう」

「それでもいいわ。私は、私のままだもの」

 どうせ自分の中の大事なものを失うというのなら。強制され縛られるより、自ら選んでそれを捨て去る方がいい。メルトにしかわからぬ深淵しんえんがそこにあるとしても、フェライは怖いと思わなかった。

 二人の声は闇に消え、石の檻には沈黙が満ちる。ただ静かに身をゆだねていたとき、フェライの腕に温かなものが触れては消えて、また触れた。

 彼はいつから涙を忘れていたのだろうか。

 自分が最後に泣いたのは、いつだったろうか。

 フェライはそんなことを考えながらも、メルトに寄り添うことをやめなかった。

「……もう少し、よく考えろ。俺も……考える」

「わかりました。準備は、しておくわ」

「考えろと言っただろう」

 呆れたようなメルトの声に、フェライは鈴を転がすような笑声を返す。こぼれた笑顔の裏側でフェライはすでに、どうやってメルトをここから連れ出そうか、と考えていた。きっと彼は、それすらも見通しているのだろう。


 夜の中、二人はやっと、冷えた心を温めるように笑いあう。二人のささやかな笑い声を、白銀の月だけが聞いていた。

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