第13話 虚構の平穏
聖都の巡回を終えたルステムは、神聖騎士団本部前まで戻ってくると深く息を吐いた。彼が今いるのは
先ほどの道を抜けると、とたんにあたりが騒がしくなった。任務への行き帰りで交わる騎士たちの波は、絶えることがない。波の一部となっていたルステムは、途中で誰かに声をかけられた。同期の騎士だ。ルステムとは逆に本部の方から出てきた彼は、ルステムに軽い労いの言葉をかける。その後、すぐには立ち去らず、彼を呼びとめた。
「そういえばルステム、フェライは最近、何をしてるんだ?」
思いがけない名前を出されて、ルステムは目をみはった。
「何って……ああ、なんか違う仕事が増えたらしいな。言っとくけど俺もなにも知らないからな。機密事項だから教えられない、って言われた」
先手を打つと、騎士はあからさまに残念そうな顔をする。ルステムは思わずかぶりを振った。
フェライは謹慎が解けてからというもの、ずいぶんと忙しそうだ。『施し』だけでなく、別の仕事もしているらしい。聞いたところによると、『力』の扱いの訓練をする時間も以前の倍になったという。彼女をうかがう騎士たちの中には「団長に監視ついでの使い走りをやらされてるんじゃないか」とか「騎士団をやめて聖教の巫女になるのでは」などという、変な噂を流す輩までいる。
一緒にいることの多いルステムやチャウラも、詳しいことは教えてもらえず、首をかしげあうしかなかった。
「なんの仕事してんだろうなー」
「あんまり詮索するなよ。おまえが気にすることじゃないだろ」
「ルステムは気にならないのか」
「気にはなるけど、機密なんだから知りようがない。本人が楽しそうだから悪い仕事じゃないんだろうし」
これが本当に、騎士たちの噂のとおりなら、フェライはもっと落ちこむはずだ。例えば、そう――謹慎前のように。それが『新しい仕事』を始めてからは、楽しそうというか、はつらつとしているのだ。笑顔も増えた。いいことではないか、と、ルステムは自分に言い聞かせる。
調子のいい同期は、そんな彼の心の隙をついてきた。
「優等生のふりしなくていいんだぜ。フェライが訓練や演習に顔出すことも減ったし、会える時間がどんどん少なくなってさびしいんじゃねえの?」
まわりに聞こえるか聞こえないか、微妙な声量で話しかけてこられると、ルステムは思わず唇を噛んだ。――これだから同年代の騎士は面倒だ。こちらが嫌がるわかっていて、わざと隠している部分をつつこうとする。
「――るっさいな、ほっとけよ」
思いがけずきつい声が出た。同期の戸惑ったような顔を見て、ルステムは舌打ちする。
「ほら、あんま油売ってると先輩にどつかれるぞ。これから警備かなんかじゃないの?」
「わーかった、わかった。行ってきますよっと」
「はい、行ってらっしゃいっと」
唇をとがらせ、走り去って行った同期をルステムは手を振って見送る。その姿が完全に見えなくなると、ため息がこぼれた。今日はため息をついてばかりだった。
※
同じ頃、古い監獄塔の一室に、噂の少女の脱力しきった声が響いていた。
「ま……負けた……」
フェライは文机に突っ伏してうめく。対面では、メルトが喉を鳴らして笑っていた。二人の間にはます目の描かれた盤があり、その上には石でできた赤と黒の小さな駒が並んでいる。イェルセリアに関わらず、大陸中部地域に古くから伝わる盤上遊戯の道具だった。
この盤上遊戯は、
メルトの
「フェライもなかなかやるじゃないか」
「うう、勝者の慰めは染みませんよ……」
フェライが天板に顎をつけてうめいていると、メルトは軽く肩をすくめた。自分が使っていた黒の駒をかき集めながら、なにげないふうに訊いてくる。
「聖院とやらでは用兵も習うのか?」
「習わない……。習わないけど道具はあって……娯楽なんてこれくらいしかなかったから、みんなでやってたんです」
ちなみに、フェライは聖院の中ではそこそこ強かった。だから自信をもって勝負にのぞんだのだが、結果はご覧のとおり、である。しょせん自分は狭い世界しか知らなかった、というわけだ。
気を取り直して起きあがったフェライは、赤い駒を手早く集めた。そして道具を片付けている最中、気だるそうに背を伸ばしたメルトが、笑い混じりに話しかけてきた。
「おまえ、ふだんはあんなふうにしゃべるんだな」
「え?」
一瞬、なんのことだかわからずに、フェライは首をひねった。しかし、対戦中のことを思い出し、「あっ」と声を上げる。この手の遊戯は熱中すると自制がきかなくなるもので、フェライもついついふだんの口調で話してしまっていたのだった。
「わー……すみません」
「いや、新鮮でおもしろかったからいい」
「お、おもしろいって」
笑顔でメルトに手を振ったフェライは、しかしその手をふと止めた。こちらを見つめるメルトの瞳が、見たことのない感情の色を持っている気がした。
懐かしむような。そして――少し、悲しげな目だった。
フェライは少し考え込んだ。駒をまとめ、盤を畳むと、「よしっ」とひとつうなずいた。怪訝そうなメルトに向き直る。
「あの、メルト……ふだんどおりにしていい?」
メルトが軽く目を見開く。「なんだ、
「私ばかり他人行儀なのも、どうかなって、少し思って……生意気に聞こえたら悪いんだけれど……」
「いや、おまえがやりやすいならそれで構わない」
「本当?」
フェライがぱっと顔を輝かせると、メルトは真剣にうなずいた。彼女はひとり「やった!」と拳をにぎる。向かいからの温かな視線に気づかないまま、盤の上にいつもの紙束を置いた。
「そういえば、メルトはどうして
ふと思いついたことを訊くと、メルトは小首をかしげた。
「どうして、と言われても……よくやっていたからかな。俺のまわりには強い奴が多かったし」
「へえ……メルトより強い人なんて想像したくないけど」
相槌を打ったフェライは首をかしげた。メルトのまねをするみたいになってしまったが、偶然だ。
小さな、棘のようなものを感じる。違和感というほどでもない、小さな小さな棘。
けれどそれは、思いかえせば、日々増えていっていた。
例えば、食事。食事時にフェライがここへ来ることはめったにないが、たまに重なることもある。そのときに、メルトの上品な食べ方を見て感動したことがあった。騎士たちの食事風景に慣れてしまっているフェライにしてみれば、落ちつかないくらいだった。貴族の人のようだった。
それは食べ方だけではなかったのではないか。新王国のことをなにも知らなくても、それを補って有り余るほどの知識と教養があって、武術の経験もあって、文字も当然のように読める。
見ないふりをしてきたが、とても大事なことを見落としているような気がする。
「――フェライ? どうした?」
フェライは、呼びかけられると、うわずった声を上げた。それすら自分の耳に遠く聞こえた。考えごとをしすぎていたと、ようやく自覚する。
「あ、ご、ごめんなさい! なんでもないわ」
フェライは慌てて首を振った。
今、尋ねればいいではないか。そんな考えがよぎったが、フェライの声は望む言葉をつむがない。
胸中に刺さった棘をそのままに青年と別れ、仕事をして食事を摂り、眠って起きる。『施し』を終えて監獄塔へ向かったフェライは、この日もいつものように過ぎると思いこんでいた。
しかし、監獄塔の入口に立ったところで、ぎょっとして足を止めてしまった。いつもは無人の入口に、例の祭司が立っていたのだ。祭司はフェライに気づくと、「こちらへ」と言う。嫌々ながらも彼の前へ立ったフェライは、礼をした。
「何かございましたか」
「――今日はいつもの確認は必要ない」
「え?」
フェライは思わず、祭司の顔を凝視した。
確認が必要ないということは、今日は監獄塔に入るなということか――彼女の疑問を読みとったのか、祭司はそのまま続けた。
「任務にはついてもらう。しかし確認は必要ない。暴走が起きぬよう見張っているだけでよい」
「……暴走?」
フェライは、慣れない言葉を反芻した。嫌な響きがある。「どういうことですか?」と訊いたものの、祭司はそれ以上ものを言わなかった。早く行けとばかりに、流し目で入口をにらむだけだ。フェライはしかたなく質問をあきらめた。
中に入って祭司の姿が見えなくなったとたん、駆け足になる。心臓の音が、呼吸の音がうるさい。逃れられないものから逃れようと走っているうちに、扉の前に着いた。すっかり息が上がっていたフェライは、その場でしばらく膝に手をついて休んだ後、扉をにらんだ。
どうか、なにも起きていませんように。彼女は一言唱えてから、扉を押しあける。
フェライはせめて、いつもどおりに挨拶しようと顔を上げ、その場で凍りついた。
今日のメルトは座っていなかった。かたい寝台にぐったりと横たわっていた。瞼が閉じられているから、蒼紫色の瞳は見えない。うなされているようで、ときどき小さな声はした。
フェライはわずかな間だけ呆然と立ち尽くし――
青年の体にすがりつく。何度も名前を呼んで揺さぶると、落ちていた瞼がゆっくりと持ちあがる。彼がほんの少し顔を上げたところで、やっとフェライは相貌をまともに見ることができた。頬が赤くて、額が汗ばんでいる。いつもは硬質な雰囲気を漂わせている青年が、今日に限ってひどくもろく見えた。
「……フェライ?」
「メルト、大丈夫?」
茫洋としている目が自分を認識したことに安心し、フェライは少し落ちついた。メルトの方も、少しすると状況がわかってきたらしく、ため息混じりの声を上げながら、上半身を起こす。フェライは慌ててその肩をつかんだ。
「あの、無理はしない方が……」
「いや、平気だ。慣れてる」
メルトはしんどそうな声で言う。平気には見えないが、慣れていると言い張る声に偽りの気配はない。フェライが戸惑っているのをよそに、彼は平然と向き合ってきた。
「すまん。驚いただろう」
「いや、驚いたというより、ただただ心配なんだけど……本当に平気?」
「平気平気。一晩寝れば戻るだろ」
相変わらず声色は重たげなのだが、それを指摘すべきかどうか――少女は戸惑う。だが、その困惑は続いた言葉に打ち消された。
「どうも
メルト自身はこともなげに言い放った。しかし、フェライは蒼ざめた。
知らない術を人にかけて効果を見る――それは、人体実験というのではないか。
「しかし、いい加減、うんざりして……きたな……」
もはやなにも言えずに、フェライが固まっていると、目の前の体が急にかたむいた。フェライは、慌ててそれを支える。
「やっぱり、平気なんて嘘じゃない」
思わずそう呟いた彼女は、重くなった青年の体を横たえた。額に手を当てると、やはり熱い。なにかした方がいいのではないか、と悩むフェライの耳に、かすれた声が届いた。
「早く、会いたい……」
続けてささやかれた名前を聞いたフェライは、全身が冷えるのを感じた。
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