第11話 始まりの終わり

 色のない世界をずっとうろついているような感覚だった。広い宿舎の自室と食堂を行き来するだけの数日は、他人事のように彼女の上を流れ去っていった。


 自室で少しくらい体を動かそうかという考えもよぎったが、結局は実行に移さなかった。部屋にいるとき、人の気配がすることがあったのだ。姿は見えなかったが、監視されていることは明白だった。結局、本を読むか天井をながめるか、そのくらいしかすることがない。そして、思考を投げだして静かな部屋にいると――前触れもなく、ふっと、檻の中の青年のことを思い出す。


 ただ謹慎を命じられただけならばよかった。自分がやったことの結果が自分に跳ね返ってきただけのことだから。だが、今回の命令の裏に隠れた思惑があることを彼女は鋭く感じ取っていた。それが、閉鎖されたはずの監獄塔にいる青年と関係があることは明らかで、彼が今、どうしているのかと考えるだけで胸が締めつけられる。

 けれども、彼女が騎士である限り――ここで飼われる小さな聖女である限り、できることはなにもないように思われた。


 フェライの日々に思いがけない変化が起きたのは、謹慎の期間が終わる二日前のことだった。

 フェライはその時、自室にいた。本来は三人部屋だが、今は彼女一人しかいない。ほかの二人は、言うまでもなく仕事に出ている。

 まっ白い寝台の縁に腰かけて、見るともなしに自分の手をながめていたとき、自室の扉が控えめに叩かれた。顔を上げたフェライは慌てて立ちあがり、ふしぎに思いながらも扉を開けた。

 薄い扉の先に立っていたのは、祭司だった。足もとまでを覆う白い長衣を纏い、白地に銀色の刺繍が入った帽子をかぶった姿は、薄暗がりの中で見るとぶきみだ。一瞬ひるんだフェライは、それでもどうにか踏みとどまって祭司を見上げる。

「神聖騎士団員のフェライ殿ですか」

 祭司は平板な声で訊いてきた。フェライは姿勢を正す。

「そうです。私に何かご用でしょうか」

「カダル祭司長がお呼びです」

 くぐもった声が告げた名を聞き、フェライは顔をこわばらせる。また、祭司長だ。心臓が止まりそうな思いでいる少女を、祭司は感情の見えない黒い瞳で見おろしてきた。

「騎士団の許可は得ていますゆえ、御同行願いたい」

 フェライはうなずいた。うなずく以外に、何ができようか。



 案内されたのは、大礼拝堂の中にある小さな部屋だった。扉が開いてすぐに、こもった熱と紙のにおいが押し寄せてくる。動じないよう顔全体に力を入れて、フェライは「失礼いたします」とささやいた。

 扉が閉められる。とたん、暗闇が押し寄せた。頼りない灯火がひとつ、部屋の端で揺れている。小さな行灯ランプをしわがれた手が持ち上げた。白い衣を着た男の姿が、浮かび上がる。

「ようこそ、フェライ殿」

 祭司長カダルは、重々しい声で言った。

「そう緊張なさるな。さあさ、こちらへ」

 あなた相手に緊張するなという方が無理だ。フェライは思ったが口には出さず、部屋の中央、大きな机の前まで行く。机を挟んで向かい側に立ったカダルは、厳かな手つきで行灯ランプを天板に置いた。

「謹慎の件は騎士団長から聞いている。騎士でありながら剣をとることを許されぬとは、難しい身の上だね」

 カダルは、しわだらけの顔に悲しそうな表情をにじませてささやいた。フェライは黙ってこうべを垂れる。しかし、その後すぐに、翠の瞳を開いて老人を見すえた。

「……祭司長。私が庭に立ち入った件で、あなたが騎士団に抗議なさったとうかがいました。しかし、あの庭は騎士団本部の敷地であり、祭司たちが使っているという話も聞いたことがありません。いったい、どういうことでしょうか」

 声が震える。それでもフェライは退かない。今退けばもう二度と尋ねる機会はないかもしれない、という思いが少女を少し強くさせた。

 祭司長の目は静かなままで、行灯ランプの火を見つめている。肌を焼くような沈黙が満ち満ちた時、色の悪い唇が動く。

「そう、くものではない。――だが、そうだな、臆せず他者の領域に踏み込める、その勢いは、若者の特権だ」

 何が言いたいのだろう。フェライが眉をひそめたとき、カダルの目が鋭い光を宿した。

「君の質問に答える前に、こちらからもひとつ質問をさせていただこう。――騎士団員フェライ、君はあの庭で誰と会っていた?」

 行灯ランプの中の火が揺れる。ボボッ、とかすかな音が、闇の中で爆ぜた。

 フェライはよろけそうになったのをこらえ、カダルを見つめる。

「……なんのことです? 私は庭で剣の稽古をしていただけです。人と会ってなどいません」

「嘘はよくない」

 フェライの精一杯の抵抗を、カダルはあっさりと切り捨てた。細い指が机を叩く。フェライは、半歩後ずさった。その音が自分の鼓動と重なっている気がして、怖くなった。

「君は、あの方と親しくしていたのだろう。でなければあの方があの状況で、さえぎりの術を使ってまで君を隠すわけがない。げきの若者を連れていなければ、私はまんまと君を見逃していただろう。まったく、大したものだ」


 フェライは最初、カダルが何を言っているのかわからなかった。けれど、すぐにひとつの記憶がよみがえった。祭司長たちが監獄塔にやってきた日。あのとき、メルトが紡いだかすかな言葉。ようやく思い出した。あれは――巫覡シャマンたちが唱えるいにしえの呪文だ。


 隠していたものが、隠そうとしていたものが、ひとつずつ暴かれていく。そのたびに、ぞわり、と背筋が寒くなって、フェライは震えた。

「君も、もうわかっているだろう。あの方の存在は騎士団長も聖女も知らない。知られてはいけない。君が庭に立ち入ったことに抗議したのも、そのためだ。あの方の存在が騎士団に露見してはまずいので、騎士たちを牽制するためにもひとつものを言っておこうと思ったのだ。だが――気が変わった」

 カダルがほほ笑んだ。穏やかな笑みのはずだが、目に見えぬ圧力を感じた。

「あの方にも心のどころは必要だ。君がそうなりうるのなら、君をあの方のそばにつけることも、一案だろうと考えている」

「……私に『悪事』の片棒を担げと?」

 うめくように言ってから、フェライは自分で驚いた。祭司のまとめ役を相手にしているとは思えないほど、苛烈な言葉が出てきたことに。――知らぬ間に、メルトの言動が移ってしまったのかもしれない。

 カダルが怒りだしはしないかとひやひやしたが、彼女の予想に反して彼は楽しげだった。

「あの方に言わせればそうなるだろう。だが、悪い話ではあるまい。君たち二人とも、会って話をするために、こそこそする必要がなくなるのだから」

 フェライは黙った。反論できなかった。祭司長の言う通りだ。少なくとも、自分にとっては。

「どうだね、フェライ殿。騎士団の任務の合間でいい、あの方の世話係になってくれないかね。もし、やってくれるなら、騎士団側には私から話をつけよう」

 フェライの口からは、肯定も否定も出てこない。しぼりだすように「一日だけ考えさせてください」と言って、カダルがうなずくのを見るや、彼に背を向ける。これ以上ぶきみな小部屋にいたら、気が触れてしまいそうだった。


 自分の胸中でうごめくものから逃げるように、目を閉じて。けれど逃げれば逃げるほど、それは静かに追いかけてきた。



     ※



 フェライはため息をこらえて、古びた監獄塔を見上げた。閉鎖されてからかなり経つ。罪人を閉じ込めておくための建物は、今やただの石の集まりでしかない。

 すっかり見慣れていたはずの場所だが、見上げる角度が違うだけで、ずいぶん印象が変わる。庭から見た監獄塔はひたすら沈黙しているようだった。こうして戸口の前に立ってみると、人々を睥睨しているかのような重みを感じる。罪を犯した人々は、ここへ来たとき、どんな気持ちだったのか。ふと、そんなことを思う。

 小さな棘を振り払うようにかぶりを振って、フェライは一歩を踏み出した。教えられた道順を頭の中で繰り返しながら、冷え冷えとした建物を進んでゆく。遠くから、風のうなりが聞こえた。目的地まで、まわりの景色はなるべく見ないようにした。


 どれだけ、時間が立ったのだろう。震える足を励ましながら、フェライはやっと目的の扉の前にたどり着いた。硬くて、冷たい扉だ。自分が閉じ込められるわけでもないのに、泣きそうになった。こみあげるものをのみこんで、全身に力を込めて、体当たりするみたいに扉を押した。高く、重い悲鳴を上げて、扉は開いた。フェライは勢いのまま部屋に駆け込み――へたくそな笑顔をつくって、顔を上げた。


 小さな部屋の窓側に凝る人影。それだけを見つめ、フェライは苦い空気を吸う。

「メルト! すみません、長いこと来られなくって」

 いつもどおり。いつもどおりだ。私は、庭にいたあの頃と、なにも変わらない。そう言い聞かせる。

 だが――かたそうな寝台に座っている青年は、愕然としていた。

「……なんで、おまえ、そっちから来るんだ」

 メルトらしくない、少しまとまりのない言葉が、フェライを出迎える。

 久々に見る彼は、思ったほど顔色が悪くない。フェライはそれだけでひどく安心している自分に気づいた。

「実は、稽古のことと、監獄塔をのぞいていたことがばれてしまって、謹慎を言い渡されていたんです。謹慎じたいは数日前に解けたんですけど、その後に新しい仕事を命じられたので、準備に時間がかかっていたんです」

「……新しい仕事って、まさか」

「はい。メルトのお世話係を命じられました」

 胸に手を当てて宣言すると、メルトはしばらく経ってから「そうか」と答える。

 メルトのうめくような声を聞き、フェライは少し顔をゆがめた。


 やはり彼は、すべて見すかしている。フェライ自身も本当は、これまであったことをありのままに話してしまいたかった。すべてぶちまけて、許しを乞えればいくらか気が楽になるだろう。だが、それはできない。どこに耳があるかわからないのだ。


 だから彼女は、無垢で無知な少女を演じる。

「これで気兼ねなくお話しできますね!」

 今までどおりの笑顔のつもりの表情で言うと、メルトの顔がようやく少しほころんだ。フェライも、ほっと胸をなでおろす。

 監獄塔のこの部屋を、きちんと見るのははじめてだ。けれど、そう広い場所ではない。二十歩も歩かないうちに、メルトの前へたどり着いた。

 彼と少し見つめあってから、フェライは礼をとった。はじめて出会ったあの日とまったく同じ格好で。

「では、改めまして。ロクサーナ神聖騎士団の騎士、フェライです。これからよろしくお願いします」

「ああ、よろしく」

 静かな声が返る。フェライを優しく包み込む。

 状況は変わってしまった。しかし、二人の間に流れる空気は、今までとなんら変わらず穏やかだった。

 この時は、まだ。

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