第10話 幕間のさざめき
イェルセリア新王国はロクサーナ聖教の国である。
聖女の力がより強いためか、外の者らは新王国の人々全員が、敬虔な聖教の信者だと勝手に思っているところがあった。だが、実際はそうでもないと、各地を放浪してきた男は知っている。東の大国ヒルカニアだろうと、西の宗教国家イェルセリアだろうと、暮らすのは人間だ。人が暮らす以上、さまざまな商売が発展し、争いが起きて、いい人も悪い人もどちらでもない人もできあがる。どこにいようと、彼らが人間である限りそれは変わらない。
都市から都市への中継地となっている、小さくて細長い宿場町。ふらりとそこに立ち寄り、しばらく羽を休めた男は、目的地に向けた旅を再開しようと思っていたところだった。
荷物を手にひとけのまばらな道を歩いていたとき、横に伸びる路地から何やら言い争う声が聞こえた。最初、男は無視して通りすぎようと思っていた。が、言い争っている二人のうちの片方が女だと気づくと、気を変えて、体の向きも変える。
女が男に正面切って言いかえすとは珍しい。特に、このあたりでは。
おもしろいものが見られるかもしれない。あわよくば、どちらかに恩を売れるかも――そんな、よこしまな好奇心と計算が、彼の胸の中でもぞもぞと動いていた。
路地を進んだ男は、言い争う二人を見つけると、町娘がとろけそうな笑みを浮かべて近寄った。
「やあ、イェルセリアの紳士淑女のお二人。何を争っているんだ。表通りにまで聞こえているぜ」
振り返った二人は、内心こそ違うだろうが、仲良く顔をしかめた。
言い争いの原因は、町で露店を開いていた女に酒で酔った男がからんだことらしかった。よその男に割って入られたことで興奮がさめたらしい男は、いまだ赤い顔を今度は不満と怒りで赤黒く染め、女に謝罪らしい謝罪もせず去ってしまった。
「あんた、ヒルカニア人だね。よその揉め事に首を突っこむなんて、物好きな奴。……それとも、なにか欲しいのかい」
「いいや。今回はただの好奇心。俺はヒルカニア人の中でも特段に善良な奴だからな。見返りを求めるなんてしないさ」
「自分で自分を善良とかいう奴は、たいていろくでもない奴だ。それにあんた、さっき『今回は』って言っただろ」
はんっ、と女は鼻を鳴らす。男はその姿を見、懐かしいな、と思った。だが、感傷を表情には出さず、「手厳しいお嬢さんだ」とおどけて肩をすくめる。すると意外にも、女は表情を少しやわらげた。
「が、女が店を出すなとかいう男どもに比べればましなようだね」
「さっきの奴がそう言ったのか」
「さっきの奴に限らず、さ。あんたはなにも思わないの?」
男は少し考えてから手を振った。
「俺は別に、どうとも思わんな。店を出すどころか、堂々と男に混じって弓をひき剣を振る娘が知り合いにいたし」
「――へえ」含みのある物言いからなにかをくみ取ったらしく、女はそれ以上追及しなかった。男の方も何事もなかったかのように話題を変える。
「それよりも、だ。俺はこれから聖都に行こうと思っているんだが、この先、北の道を行けばいいのかな」
女が、軽く目をみはる。
「ああ、そうだよ。けど、聖都に何しに行くんだい? 観光気分で行くとひどい目に遭うよ。あそこの祭司や騎士はお堅い連中ばっかりだから」
問いかけられた男は、肩をすくめる。言葉を探してから、子どものように笑った。
「観光じゃあない」
「じゃあ、まさかと思うけど、お祈り?」
「それも違うな。ま、しいていえば――探し物、かね」
※
「ルス! 大変、大変! 大変なことが起きちゃったー!」
今日の仕事を終えてすぐ、ルステムの前方から騒がしい足音と大声が迫ってきた。白い廊下の先から、布で髪をまとめた少女が走ってくる。彼女はかなり焦っているようで、すれ違う人々が迷惑そうな目を向けてもおかまいなしだった。
こんなとき、いつものルステムなら「落ちつけ」と腕を引いてから首根っこをつかんで同僚を咎めるところだ。だが、今日は、足を止めただけで注意もしない。彼自身にそんな余裕がなく、また、彼女が何を言いたいのかがすでにわかっていたからだ。
「フェライのことか」
ルステムがまっすぐに前を見て言うと、彼女――チャウラは少しずつ歩を緩めた。ルステムの目の前で立ち止まり、呼吸を整えると、小さくうなずく。
「知ってたんだね」
「ああ。噂になってた。取り決めを破ってたのがばれて、謹慎くらったって」
周囲をうかがい、声をひそめる。チャウラはまたうなずいた。走ったせいで乱れた布を直すこともせずに。
「取り決めを破ったって、何したんだろう」
「大したことじゃないだろ。どうせ、隠れて剣の練習してたとか、誰かとこっそり練習試合してたとか、そんな話だ」
「そんなことで謹慎になっちゃうもんかな」
「『騎士団の聖女』だからな」
事情を的確に言いあてた青年は、ため息まじりに吐き捨てる。チャウラが、涙のにじんだ瞳で彼をにらんだ。もっとも、チャウラが見すえているのは淡白な同僚ではなく、もっと別のなにかのようである。
「そんなの、おかしいよ」
ささやく声が震えた。
「今回のことだけじゃないよ。何もかも、やっぱりおかしいよ。フェーちゃんは騎士としてここに来たんだよ? なのに騎士の仕事を禁止されてさ、剣の練習しただけで謹慎? 何それ、馬鹿なの? 聖教の偉い人は馬鹿ばっかりなの?」
「チャウラ」
「治癒の力を持っている人に武器をとってほしくないなら、正直にそう言って、だから辞めてって言ってくれた方がまだましじゃん。こんな、飼い殺しみたいなやり方――」
みたい、ではなく事実、飼い殺しなのだろう。ルステムは思ったが、口には出さない。そんなわかりきったことを言ったところで、チャウラの動揺がひどくなるだけだ。
治癒の力が使える人間が戦って、怪我でもされたら困る。それが聖教と騎士団の考えなのだろう。であればチャウラの言う通り、フェライの首を切ればよいのではと思うが、騎士団はそうしなかった。
治癒の力が欲しかったからだ。
今の聖教では聖女しか扱えなかったはずの力が、手もとに転がりこんできた。そうでなくても傷を治す力は便利なのだ。簡単に手放したくはない。だから、騎士の肩書きをそのままに、フェライに聖女のまねごとをさせた。
馬鹿げている。ルステムもそう思う。全部、上の都合だ。他人の都合で剣を奪われ、尊厳を踏みにじられ、傷ついた。――彼女自身も彼女のまわりの人間も。
「――チャウラ」
ルステムは再び、付き合いの長い同僚を呼んだ。
「気持ちはわかるけどよ、そのへんにしとけ。『偉い人』に聞かれたらどうする」
この娘のように、すなおに物が言えればどれだけよかったか。ルステムが見下ろすと、榛色の瞳と真っ向から向き合う形になった。もの言いたげなチャウラに対し、ルステムは言葉を重ねる。
「フェライが戻ってきたとき、俺たちがいなくなってたら、誰があいつの味方をするんだ」
チャウラは小さく息をのんだ。しばらく、なにかと戦うように顔を歪めた後――ゆっくりとうなずいた。ルステムは、彼女を支えるようにして、廊下をゆっくりと歩き出す。
フェライはクビになったわけではない。数日か、長くても数か月待てばまた会える。そう、何度も言い聞かせる。だが、ルステムの胸の中には濃い
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