第9話 崩壊の日

 フェライはかげをさして、空を見上げた。暦の上では夏もなかばを過ぎた頃だが、まだ太陽の光は衰えを知らない。焼けつくような熱を肌に受ける日々は続く。それでもフェライは、日課をやめようとは考えていなかった。

 中庭に来てこっそりと剣の稽古をし、最後に監獄塔の青年と話す日々はもはや彼女にとって日常となっていた。今日もまた、ひととおりの稽古を終えて、メルトと他愛もない話に興じているところである。いったい何がきっかけだったのかフェライ達にもわからないが、彼女の同僚たちの話題でふしぎと盛り上がっていた。武器の手入れを任せられていたルステムが「大食らいたちの競争」に負けて夕食を食べ損ねた、という話を終えたところで、メルトがひと息ついた。

「その同僚たちは、おまえを変わらず受け入れてくれるんだな」

 フェライは、目を瞬いた。つい先日の騒ぎを思い出して苦笑する。

「はい。特に聖院時代に仲の良かった人たちは、私に巫女の力があろうとなかろうとあまり気にしないみたいです。……そうじゃない人も、いますけどね」

 感情を消しきれなかった言葉をけれど、メルトは追及しなかった。

「まあ、いろんな奴がいるだろうな」

 それだけ言って、翠の庭にものやわらかな目を向ける。

 少し、気まずい空気になってしまった。フェライは長衣の前で指を組む。なにか明るい話題はなかっただろうかと、探していたとき。


 急に、二人のまわりの空気がはりつめた。


 フェライは顔を上げた。いつになく厳しいメルトの横顔が目に入る。

「どうし――」

「しっ」

 問いかけを、吐息のようなメルトの声がさえぎった。彼は声をひそめたまま、フェライに「かがめ。早く!」と叱声しっせいを飛ばす。わけがわからない。それでもフェライは言われたとおりに屈んだ。同時、青年の低い声がふしぎな音を奏でた。耳慣れない、言葉、のようで。けれど、フェライはそれをどこかで聞いたことがあるような気がした。

 記憶をたどるより早く、音は止まった。

「フェライ。俺がいいというまで、声を出すな」

 メルトの声が降ったあと、庭に静寂が戻る。

 フェライは混乱した頭を抱え込み、言われたとおり、ひたすら黙りこくっていた。

 やがて、鉄格子の中の方から、金属の軋む音がする。メルトの枷や鎖ではない。もっと大きくて重い何かだ。そう、たとえば、扉。

 誰かの声がした。聞いたことのない声だった。

 メルトの鎖が鳴る。彼の気配がほんのわずか、遠ざかる。

「この時間に来るとは珍しいな。とうとう悪事が露見したか」

 棘どころか刃を含んだ問いに、先ほどとは別の声が応じる。

「我々としては喜ばしいことに、計画は順調に進んでおりますよ」

「そうか。それは残念だ」

 悪意と敵意の応酬を聞きながら、フェライは息を殺すのに必死だった。

 先ほど聞こえた、もうひとつの声は、聞き覚えがある。

 カダル祭司長だ。ロクサーナ聖教の儀式を取り仕切る、祭司たちのまとめ役。

 そんなお方が、どうして閉鎖された監獄塔などに来ているのか。

 いや、それよりも。彼がここへ来て、今話をしているということは――カダル祭司長は、メルトのことを知っているということだ。

「これも、あなた様のおかげでございます」

 祭司長が、わらう。

 その言葉はどういう意味か。メルトはいったい何をしているのか――

 混乱を通り越して、頭がどうにかなりそうだった。

 今すぐ気絶したい気分のフェライと違って、メルトはかけらも動じていないようである。少なくとも、表面上は。

「そう思っているのなら、そろそろこのかび臭い部屋から出してくれてもいいんじゃないか。さすがに体が鈍ってきた」

「申し訳ございませんが、それはできませぬ。――ご自分が如何なる立場であらせられるか、ご自身がもっともよくご存じでしょうに」

「その言葉、そのままおまえに返すぞ。せいぜい頑張って、聖女と従士を敵に回さないようにするんだな」

 会話は、そこでとぎれた。わずかな足音と、衣がこすれる音。巫覡シャマンや祭司たちが歩く時は、いつもこんな音がする。

 そんなことを考えていたとき、低いうめき声がした。

 メルトのものだ。

 フェライは反射的に立ち上がりかけて、けれどすんでのところでこらえる。かがんで、声を出すなと言われた意味はわかっているつもりだった。

 また、声がする。小さすぎて聞きとれない。フェライは震える肩を抱きながら、金属の扉が開いて閉まる時を待ち続けた。

 ほんのわずかな時間が、永遠のように感じられた。甲高い金属の鳴き声が響いて、消える。もう足音は聞こえないが、メルトからの合図はまだない。

 またしばらく黙った後、ようやくメルトが「フェライ、もういいぞ」とささやいた。

 フェライはよろめきながら立ちあがる。鉄格子の窓にすがりついた。

「メルト、い、いまの、は……」

「心配するな。おまえには気づいていなかった。少なくともカダルの方は、だが」

「そういう、問題じゃない、です……!」

 不安定に揺れる声を絞り出して、抗議した。何もないふうを装っているメルトの相貌そうぼうは血の気を失い、ぶきみなほどに白かった。それでも彼は、つらそうな顔をしない。

「俺のことか? まあ、もはやいつものことだからな。慣れた」

「いつも……」

 フェライは絶句した。祭司長が彼に何をしたのか、彼女はまったく見ていない。だが、決してよくないことだというのは、わかる。

 少女が言葉を失っている間に、青年は話題をすっかり切り替えた。

「それよりフェライ。おまえ、ここに来ていることは誰にも言っていないんだったよな」

「え? は、はい」

「なら――しばらくは、この庭へ来ることじたいをやめた方がいい」

 思いがけない言葉に、フェライはまた固まった。だが、メルトが意地悪で言っているわけでないことは察していた。彼女の目から何を読みとったのか。彼は小さくうなずく。

「俺の様子を見に来る巫覡シャマンや祭司たちは、いつも決まった時間に来るんだ。何があっても、必ず。時間をずらして奴らが来たのは、さっきがはじめてだ」

 フェライは、押し黙ったままでいた。――ぞわりと、背筋を何かがぜた。

「カダルはああ言っていたが、なにもないとは考えられん。……加えて、最近、庭におまえ以外の騎士が出入りしている」

「え……」

「だいたいおまえが来る前か去った直後の、どちらかに。考えすぎかもしれんが、その騎士もカダルに丸めこまれている可能性がある」

 怖い、と、フェライははじめて思った。


 ここで隠れて剣の稽古をするようになってから、いつかは知れるだろうというつもりでいた。謹慎を食らうかもしれない。もっと厳しい罰を受けるかも。そのていどのことは常に考えていたから、自分の秘密がばれるくらいは、どうということはない、はずだった。

 それなのに、今、これほど怖いのは――彼と出会ってしまったからだろう。


「なにかのはずみで、おまえの稽古のことまでカダルに知れたら厄介だ。だから、しばらくは、来るな」

「……わかりました」

「……すまない。おまえの剣を、気持ちを、折りたいわけではないんだ」

 フェライは、かぶりを振った。

「わかっています。大丈夫です。心配してくださって、ありがとうございます」

「フェライ」

「それに、私も――私が原因で、あなたがさらにひどい目にあうのは、嫌ですから。しばらくは、我慢します」

 フェライは、そっと身を乗り出した。はじめて鉄格子の中に細い腕を差し出すと、青年の冷たい手をとった。

 メルトは驚いたように目をみはり――少し遅れて、手をにぎりかえしてくれた。



 それから、フェライは剣の稽古に行くのをやめた。宿舎で人目につかないように、木の棒や箒を剣のかわりに使うくらいしかできなくなった。そのことじたいは大した苦ではなかったが、フェライの気持ちはずっしりと重くなっていった。腹のあたりに汚泥が少しずつたまっていくような感覚だ。


 何かにつけて、メルトの顔がまなうらにちらつくようになった。どうしているだろうと、辛い思いはしていないだろうかと、考えれば考えるほど気鬱になる。

 祭司たちとすれ違うたびに緊張する。たまに、カダルの姿を見いだすと、足がすくんでしまいそうになる。


 そんな日々が十日ほど続いた。ルステムやチャウラが心配そうにしてくれたので、本当のことを隠し通すのが大変で――心が痛んだ。


 そして、十一日目。フェライは突然、団長のハサンから呼び出された。

 何事だろうと指定された部屋まで行くと、ハサンが苦虫をかみつぶしたような顔で待っていた。怒るべきかもしれないが怒りきれない、そんな風情だ。

 形式的なやり取りが終わるなり、ハサンはいきなり切りこんできた。

「フェライ。おまえが『取り決め』を破っているという報告が別の騎士からあった。――事実か」

 フェライは息をのんだ。


 彼の言う取り決めとは、フェライの治癒の力が発覚した際に、騎士団から言い渡された決めごとのことだった。むろん、『剣を持つことを禁じる』というのは取り決めの最重要項目だ。

 とうとう、この時が来た。


「――事実です」

 フェライは神妙に肯定する。そして、負けるものか、とばかりにハサンをにらんだ。何を言われるかと思ったが、ハサンは苦悩するように眉間を押さえている。

「まあ、あれだな。おまえは負けん気が強いからな。俺に文句を言ってこなくなったときから、そのくらいはやりかねんと思っていたが」

「……取り決めをくつがえせないことは承知で申し上げます。私は騎士です。騎士団の一員としてここにいるのです。騎士が武器をとることは、当然のことと存じます」

 いらえはない。フェライは、続けた。

「団長になんの報告も相談もせずに剣を持ち出したことについては、謝罪いたします。ですが――」

「フェライ」

 かたい声が響く。フェライは姿勢を正した。

 ハサンの目が、冷たい光を帯びていた。

「決まりは、決まりだ」


 その決まりとやらは、騎士団が強引に押しつけたものだ。

 そう言いたかった。実際、彼女は踏み出しかけていた。

 だが、続いた言葉で怒りと勢いは止まった。


「それに、カダル祭司長からもやんわりとだが抗議があった」

「――は」

 怒りから一転、蒼ざめた。なぜ今、祭司長の名前が出てくるのか。嫌な予感しかしない。

「おまえが無断で立ち入っていた庭は現在、祭司たちが儀式のために使用している場所だ。俺たちのような『野蛮な騎士』が立ちいれば、それはいい顔をせんだろう」

 ハサンは一瞬、苦々しげな表情になったが、それはすぐに消えた。

 一方、フェライは今にもふらついてしまいそうだった。

 祭司たちがあの庭を使っているなど聞いたことがない。そもそもあそこは、神聖騎士団の敷地の一部のはずだ。なぜそんな話になっているのか。団長も祭司長も、いったい何を隠しているのか。

 しかし、フェライの疑問はそこで永遠に封じられることになる。

「ともかく、フェライ。処分は追って伝える。それまでは宿舎で待機していろ。いいな」

「はい」

 今はただ、黙ってすべてを受け入れるしかない。

 脳裏に、また、青年の横顔がよみがえった。

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