第8話 早朝の翳、白昼の影
礼をし、杖をかかげ、ひざまずき、祈る。
一連の動作はギュライにとって、息をするのと同じくらいに自然なことだった。聖女の位を継いでから、毎日同じ祈りを繰り返しているのだから、嫌でもそうなる。
この日もギュライは何百回目、何千回目になるかわからぬ祈りを精霊たちへと捧げていた。笑いさざめく彼らの声に耳を傾け、そしてささやくようにみずからの言葉を届ける。精霊たちからのいらえは決して多くない。己の言葉が届いているかどうかは、経験と感覚で知るよりほかになかった。
大礼拝堂の細い窓から白い光が差し込む。精霊たちの声が遠ざかるのを感じながら、ギュライは静かに祈りを終えた。立ち上がり、杖を下ろすと、銀の装飾が澄んだ音を立てる。同時、礼拝堂の中の空気がふっと緩んだ。
各々の務めへ向かう信者や騎士たちを見送る。彼らの姿がほとんど見えなくなってから、ギュライもようやく大礼拝堂を出た。戸口に控えていた従士が恭しく礼をする。彼女はほほ笑んで、きまじめな従士の忠誠にこたえた。
並んで歩きだした二人は、しばらく会話をしなかった。視界に白い衣の
「タネル。頼んでおいた件はどうなっていますか」
「順調とは申せませぬ」
タネルはあくまでも実直に答える。
「ただ、いくつか手がかりになりそうな情報はございます。資料としてまとめてありますが、ご覧になりますか」
「そうですね。この後の、西の礼拝堂での務めが終わってから確認しますから、準備をお願いします」
「
タネルが静かに応じた。次の時、向かいから聖女を呼ぶ声がある。優秀な従士はその瞬間、静かにギュライの半歩後ろに下がり、彼女の影と化した。ギュライは何事もなかったかのように、道の先からやってきた、白い衣の老人に礼をとった。
「おはようございます、カダル祭司長殿。今日もあなたに精霊のご加護がありますように」
「おはようございます、聖女猊下。ありがたきお言葉を賜りましたこと、至極光栄に存じます」
すらすらと言葉を述べる祭司長カダルに対し、ギュライはあくまで穏やかな笑みを向けていた。が、心の中ではため息をついている。よくもまあ、朝から耳ざわりのよい声と言葉を出せるものだ。しかし、自分も彼といい勝負だと自覚してはいるのでなんともいえない。
後ろで従士が舌打ちしたそうにしているのを感じながらも、ギュライはカダルと向きあった。
「そちらの礼拝は終わりましたか」
「は。本日もつつがなく
「そうですか。ようございました。近頃、
聖女の声に揺らぎはなかった。どころか、
「世の変動に惑わされず、儀式を行うのが我々祭司の務めでございますから。それに、
「そうですね。
社交辞令と美辞麗句が、その後何度か行き来したあと、カダル祭司長は本日の仕事に向かう。ゆったりとした足取りの老人を見送りながら、ギュライはさりげなく背後に目配せした。
「……どう思いますか」
「
タネルは、どんなときでも実直だ。ギュライは思わず、相好を崩した。
「まあ、このていどの揺さぶりで本性を見せないことはわかっています」
「祭司長に近しい者らも同様です。私も何度か鎌をかけておりますが、まったくぼろが出ませぬ」
「あらあら。タネルったら、また一人でそのような危険なことを」
ギュライは少し声を立てて笑った。従士がここまで四角四面だと、そのぶん自分は穏やかでいなければ、という意識が自然と働くのだろう。彼と話していると、ふしぎと気分がほころぶのだった。
だが、和んでばかりもいられない。聖教本部にいる
ロクサーナ聖教の影響力が強くなるにつれ、嫌でも聖女の権力も強まっている。そしていつしか、実際に日々の儀式を仕切る祭司や
自分の足もとがいささか危ういことを、ギュライはすでに自覚していた。
「猊下」
すぐそばで、低い声が彼女を呼んだ。ギュライは、ふっと現実に引き戻された感じがした。いつのまにか思考にふけっていたらしい。
振り向くと、タネルはいつもどおりのまじめな顔で、澄んだ青い瞳で、彼女を見つめてきている。
「私はいかなる時も、あなた様の味方でござる」
揺るがぬ彼を真っ向から見つめ――ギュライは小さくうなずいた。
そうだ。自分にはタネルがいる。
不器用で、まっすぐすぎて、融通がきかないところはあるけれど。優秀で、そして誰よりもギュライ個人を知っている。そのうえでそばにいてくれる。
彼がここにいる限り、どんなことでも越えられるはずなのだ。
「ええ。ありがとう、タネル」
だから、彼女は今日も、従士の手をとる。そして、共に歩むのだ。
メルトは今日も、鉄格子の中から静かな庭をながめていた。
彼の生活は長いこと変わっていない。いつからか、具体的な数字はもはやわからない。少なくとも、ここに閉じ込められてからは、
――だが、つい最近になって、彼の日々に新たな色が加わった。
そろそろあの娘が来る頃だろう。
常日頃よりも熱心に庭を見ていたメルトは、だからそのとき、違和感に気づくことができた。
ふだん、この庭には人が来ない。監獄塔へ近づく者はフェライ以外にいない。近づかせないためにあえて妙な噂を流している可能性も高いが――そういえば、前にフェライが幽霊がどうのと言っていた気がする――そうでなくても、とうに使われていない建物に用がある人間など皆無だろう。
そのはずなのだが、今日に限って、庭に人影が現れた。
一瞬、フェライが来たかと思った。だが、すぐに違うとわかった。来たのは男だ。騎士団の制服を着た、若い男だった。知らない顔だ。フェライと出会う以前から、今日にいたるまで、メルトは彼を見たことがなかった。
その騎士が、なぜか監獄塔の方へ近づいてくる。メルトは静かに鉄格子から離れ、黒々とした壁にもたれた。こうして息を殺していれば、万が一窓からのぞきこまれても気づかれない。
『あなたは先のことを直感する能力に優れています。いかなるときも、己の感覚を信ずるべきですよ』
ふと、昔言われた言葉を思い出した。彼の相談によく乗ってくれた下町の巫女も、当時の聖女も、なぜか同じことを言ったのだった。彼らいわく、それは
今は、とにかく、嫌な予感がする。
だからひたすらに、余計なことが起きないよう、願った。
視線だけで外をうかがう。若い騎士は、ゆっくりと監獄塔のそばを歩いた。まるで、見張りか巡回だ。今まではこんな者、来たことがない。
フェライが彼とかち合わないことを心から願った。
しばらくして、騎士は庭を睥睨したあと、去っていった。彼の姿も気配も完全に消えると、メルトは細く息を吐く。
「なんだあれは……。
その可能性は著しく低い。メルトがここの人間に見つかったとき、一番困るのは彼らだからだ。
ならば何か、と考えているうちに、見覚えのある少女が、ひょっこりと庭に現れた。一時はかなり落ち込んでいたが、今はとりあえず元の調子を取り戻している。結構なことだ。
いつものように彼女を迎えようとしたとき、メルトの脳裏に、先ほどの騎士の姿がよみがえる。
肩にかかるほどの黒髪をきちんと整えていた彼は、フェライと同じ年頃に見えた。
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