第2話 勇敢な者と陽気な月光
神秘的な色彩に、長く魅入られていたように思う。
相手が軽く顔をしかめたことで、フェライはようやく、我に返った。鉄格子から少し顔を離し、改めて相手の顔をながめてみる。
秀麗な顔立ちの男だった。かといって優男というわけではなく、どちらかといえば武人のようである。年の頃はルステムと同じくらいだろう。髪は黒か、もしかしたら茶色か。そして、ふしぎな色の
フェライは、ふと目を見開く。同僚から聞いた噂が脳裏で反響した。
「ひょっとして、噂の幽霊さんですか」
そんな言葉が口をついて出ていた。だが、いらえはない。そう思ったとき、色の悪い唇がかすかに動いた。
「……幽霊に、見えるのか」
「――しゃべった!」
耳になじまぬ低い声に驚いて、フェライは思わず飛びすさる。青年は、彼女の様子を
「幽霊だと思うのなら、触れてみればいい。別に呪いはしない」
フェライは、固まった。
今のは冗談のつもりだろうか。どう反応すればよいのかわからない。ともかく、言われたとおりにすることにした。幽霊のような人の腕に触れるのは少し勇気が
指が、彼の腕に触れた。刺すような冷たさと一緒に、皮膚の感触がどこか力強く、伝わってくる。フェライはわれ知らず、こわばっていた全身から力を抜いた。
「冷たいですね」
「そうか。まあ、この中は冷えるからな」
また冗談か本気かわからない言葉が返る。フェライは軽く吹き出した。
「でも、冷たいですけど、幽霊の冷たさではないですね」
「では、俺は生身の人間ということで、よろしいか」
「そのようで」
できの悪い漫才のようなやりとりの後、フェライは知らずほほ笑んでいた。鉄格子のむこうを見やると、彼もわずかに目もとが優しくなったように見えた。寡黙な人かと思ったが、そういうわけでもないかもしれない。冗談も言うくらいなのだし。
なぜ、古い建物の中にいるのか、という疑問はある。それでも悪い人ではないと判断し、フェライは胸の前で手を組み、軽くこうべを垂れた。聖教徒に限らずこの地域の人々の、礼の一種である。
「私は、ロクサーナ神聖騎士団の一員で、フェライと申します。……あの、お名前をうかがっても?」
青年は首をかしげたようだった。それでも、フェライが目を上げて問うと、同じ礼を返してくれる。
「メルトだ」
短く告げられた名は、イェルセリアの男子にしばしばつけられるものだった。少女は頬を染めて、ほほ笑んだ。
「メルト――『勇敢な者』ですか。いい名前ですね」
「それは、どうも」メルトはひるんだように視線を泳がせる。しかし、彼の変化に気づかなかったフェライは、改めて古びた監獄塔を見上げていた。
高い監獄は、けれど高いばかりで、沈黙している。メルト以外に人の気配はいっさいない、ように思える。フェライは目を戻した。二人を
どういうことだろう。
胸の中に、黒い雲がわき出た気がした。けれども、フェライはそれを面に出さなかった。
「あの、メルトはどうしてこんなところに?」
今までどおりの笑顔をつくり、青年の目を見つめる。彼は
「うーん……その手枷だけを見ると罪人のように見えますけど、でも、変ですよね」
「変、とは?」
「そこは、私が騎士団に入るよりずっと前に閉鎖された、監獄塔の最下層なんです。もう使われなくなって久しいんですよ。そんな場所にあなた一人が囚人として残されているなんて、どう考えても変じゃないですか」
最大の違和感を口にした。なんと続けてよいかわからなくなり、フェライは黙りこんでしまった。メルトも、言葉を返すことなく、自分の両腕をまんじりと見つめている。重い沈黙が漂った。そして、それを青年のささやきが打ち破った。
「これも、報いか」
フェライはまばたきする。メルトの声は聞こえたが、彼がなんと言ったのかまでは、聞きとれなかった。
「どうかしましたか? あ、お気を悪くされたなら、その、申し訳ありません」
「そうじゃない」
慌てふためく少女の謝罪に答える声は、そっけない。けれども、わずかに戸惑いの色がにじんでいた。
メルトが軽く手を振る。鎖が、鳴った。
「気にするな」
揺らぎのない言葉とは裏腹に、蒼紫色の瞳は傷ついたように
フェライはなにかを言うべきかどうか迷い、視線をさまよわせる。彼女の胸中を察したのだろうか、メルトが意識をひきつけるように、少し体を揺らした。
「どうして俺がここに入っているのか、それは俺自身にもよくわからん」
「そ、そうなんですか」
「ああ。意識のないうちに入れられたようでな。経緯はまったく知らないんだ」
淡々と語るメルトの口調にも、目にも、動作にも、偽りの気配はない。それでも少女は違和感を禁じえなかった。罪人を牢に入れるのに理由の説明もない、というのは、さすがにおかしい。罪人とて人なのだ。人の尊厳を踏みにじるようなことが、このイェルセリア新王国で許されていいわけがない。
「……やめておけ」
「……え?」
唐突に声をかけられ、フェライは驚いた。メルトは「やめておけ」と、最前と同じ言葉を重ねる。そして、付け加えた。
「このことを
「それは、どういう」
「知らない方がよいことも、世の中にはあるものだ」
青年の目つきが険しくなる。
「それでは、こうしましょう」
首をかしげる青年に向け、フェライは片目をつぶる。
「今日、私は噂の幽霊さんに出会いました。私は声を聞いただけでも怖くて逃げだしてしまいました。だから、幽霊さんについて、それ以上のことは知りません」
「……は?」
メルトは、呆けたように口を開けた。してやったり、という気分で、フェライは己の胸を叩く。
「万が一、誰かになにか尋ねられても、こう言えば呆れて誰も追及してこないでしょう。私も答えに困らずに済みますし。いかがですか?」
奇妙な沈黙のあと、「なんだそれは」と呆れながらも、メルトは笑いだしてしまった。フェライもつられて、少し笑った。
それからいくらか、問答めいたやり取りをして、フェライはメルトと別れた。「また来ます」と言うと彼は意外そうにしていたが、もともと剣の稽古をしていた場所なのである。おかしいことではないはずだ。
ささやかな約束で心を温めて、フェライは日常へと戻る。弾んだ足取りで食堂のそばまで行くと、休憩時間らしいルステムと鉢合わせた。
「よ、フェライ。幽霊には会えたか?」
彼はことさら陽気な声で訊いてくる。それがからかい文句だとわかった上で、フェライは満月のような微笑を見せた。
「ええ。遠くから見えたわ。夜じゃなくてもいるみたい」
「……へ?」
「とてもきれいな男の人だった!」
「え、ええ?」
「あ、チャウラには言わないでね。すごく怖がると思うから」
唖然としている同僚に、言うだけ言って、フェライは駆け去る。自分に向けて新しい任務が入っていないとも限らない。一応、団長か副団長に確認しよう、と、頭の中に予定を連ねた。
一方、少女を見送ったルステムは、先輩騎士に背中を叩かれるまでその場に立ちすくんでいた。
「
心のこもったささやきを拾う者はいなかった。
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