夜明けに捧ぐ鎮魂歌
蒼井七海
第一幕 やさしい檻と翠の庭
第1話 騎士団の聖女
一面に広がるのは、白だ。何にたとえることもかなわない、まっさらな白。天を覆う純白の下を、青々とした草が覆う。そこばかりが、世界と変わらぬ鮮やかな色彩を放っている。
天の白と、地の緑。彼が見つめるのは、いつもそれだけだ。変わらぬ景色、動かぬ時。そのなかで、正気を縫い止めるのは、鈴のような音を立てる透明な鎖だけ。どこから伸びているともわからない鎖は、錆つくこともなく両腕を縛め続ける。
目を閉じて。口を閉ざして。けれど、景色を見続けた。
長い時。どれほどか、数えるのはいつからかあきらめた。止まった時間、そのなかにただあり続ける。
鎖が鳴る。空が、わずかにぶれた。
目を開く。久しく忘れていた感覚。
蒼紫の双眸は、揺れる草を無感情に捉える。
感情を失った面は、終焉を
草がさざめく。天が揺れる。
停滞の時が、終わろうとしていた。
※
どこからか響き渡る鐘の音は、乾いた風の過ぎゆく空に、ほんのわずかな潤いをもたらしたようだった。空がまだ、暗い紺碧に染まっている時分。刃のように冷え冷えとした空気を身に受け、窓を覆う板戸や戸布を外す人々は、束の間その手を止めた。鐘はなおも、余韻にかぶさり響き続ける。東の空から、薄く白い光がのぞく。とたん、人々はいっせいに光の方を向いた。扉を開けた若者も。眠い目をこする幼子も。天気をうかがっていた年かさの女までも。昇る太陽を見つめた人々は、示し合せたわけでもないのに、ひざまずく。そうして舌になじんだ祈りの言葉を口にした。
誰もがただ、祈りを捧げる静寂の時間。街の象徴たる礼拝堂でも、ただ清廉なる祈りが行われていた。祈祷の間に集まった者たちは、壇上に立つ一人を取り囲んでひざまずき、同じ姿勢で、同じ言葉を捧げる。
それを壇上から見おろしていた者は、間もなく彼らに背を向けた。ゆったりとした長衣と薄い
日の出の礼拝は、細い窓から金色の光が差し込むと同時に終わる。重い音を立て、扉が緩慢に開かれる。言葉が消えて、空気がゆるむ。長衣を着た男たちが息を吐き、頭巾を目深にかぶる女たちが、軽く身じろぎした。女たちの中にまぎれていた少女は、一番後ろで祈りに参加していた男たちが動きだすのを見ると、慌てて体を返した。足を軽くもつれさせたが、なんとか踏んばってから駆けだす。銀色の
「おう、いたかフェライ。ついてこいよ。これから朝練だから」
気さくな呼びかけに、少女は目をみはる。
「あ、はい!」
頭巾を取り外すと、その中からこぼれ落ちた金髪をまとめることもせず、フェライは男の後を追った。少女は小さな手で、懸命に衣の先を持ちあげる。これが邪魔なのだ、と、細められた目ととがった唇が語っていた。
膝下どころか足首まで覆い隠してしまいそうな丈の長い衣と、顔をすっぽり隠せる頭巾。それはロクサーナ聖教の施設につとめる女性の正装だ。修行者でもなければ、女性のほとんどはそれを身にまとう。しかし、今廊下をひた走る少女には本来、その服は必要なかった。まわりに合わせて着ていただけで。
男を追いかけ行き着いた先は、四角い庭だった。しかし、その庭には美しい花壇や信仰対象を模した像はない。あるのは、四角く切り取られたような砂地とわずかな緑だけ。そこにばらばらとやってきた軽装の男たちは、木の剣を手に取る。
「はじめるぞ!」
誰かが野太い号令を上げると、男たちはいっせいに敬礼した。フェライも、庭の隅で、彼らと同じように敬礼する。
制服に着替えてからくればよかった、という彼女の小さな後悔は、木のぶつかり合う乾いた音にかき消された。
ロクサーナ
もっとも、今を生きる者たちの多くは、聖教の成り立ちまでは知らない。教えを尊び、聖女を尊び、ただ聖教に従う無垢なる人々だ。そのような人々が、聖女と奇跡と精霊を信じ、ひとつのところに集まった。その地はのちに、イェルセリア
もとは小さな集団であった宗教団体は、ひとつの王国を拠点に、みるみるうちに信者を集め、力を蓄え、聖教として大陸中に名をとどろかせた。そしてこの時をさかのぼること三百年前、ついにはまとまった武力を手にすることとなる。
それが『神聖騎士団』と呼ばれる組織。ロクサーナ聖教本部の敷地の片隅で
フェライは男たちを観察しつつも、ひまをもてあましていた。フェライもまだ見習いとはいえ騎士と呼ばれる身。本当なら、この男たちに混じって剣を振り、体を鍛えているはずだった。彼女自身、それを強く望んでいた。しかし、まわりがそれを許さない。女だからという理由ではない。市井の人々の間や、礼拝堂の中ではいざ知らず、騎士団では性別など
フェライが剣をにぎらせてもらえない理由は、いささか特殊なものだった。
短い朝の稽古が終わると、騎士たちはひきしまった空気を解き放つ。その場がゆるんだのを見て取ると、フェライはため息をのみこんで立ちあがった。彼女がざっと見ていただけでも、軽傷の人が何人かいた。ということは、彼女の出番である。
「怪我をした人は来てください、治しますから!」
澄んだ声を聞きとって、何人かの騎士があからさまに安堵の息を吐いた。いずれも、まだ稽古にすら慣れていない新人だ。彼らは上官に軽くどつかれながら、娘の方へ集まった。
フェライは、最初にやってきた人を石段に座らせると、示された傷を見る。膝を擦ったらしい。見た目は派手だが、そう深い傷ではない。ただ、仕事の上では少々支障をきたしそうでもある。いくつかの判断材料を頭の中で天秤にかけたフェライは、ひとつうなずくと、騎士の傷口に手をかざした。「じっとしていてね」と呼びかけたあと、目を閉じる。
暗闇と静寂の中に自分を落とした。そして、おぼろげに浮かび上がってきた光に手をのばし――指先に熱を宿す。
ややして、感嘆の声がした。フェライが目を開けると、浮かんだはずの光は消えて、その先の傷はきれいにふさがっている。少女は驚きと感動に言葉を失っている騎士をまっすぐに見た。
「これで大丈夫よ。しびれや違和感はない?」
「あ、は、はい! 大丈夫っす!」
「それなら良かった。先輩は厳しいと思うけど、仕事、頑張ってね」
フェライがほほ笑むと、若い騎士は頬を赤く染めながら「はい!」と返事をする。立ち上がり持ち場へ向かう彼を見送っていた彼女の耳に、かすかなささやきが届いた。
「見たか今の。傷があっという間にふさがった……」
「確かに、伝え聞く聖女様の力に似ているよな」
「なるほど、だから『騎士団の聖女』か」
感嘆と、
「はい、次の人! 傷診ますから、座ってください」
まとわりつく声を振り払うように、少女はことさら明るい声を上げた。
フェライが疲れた体をひきずってゆく頃には、食堂は食べざかりの騎士たちでごった返していた。彼らも聖教の信徒ではあるから、むだに騒いだりはしないが、食事が至高の楽しみであるには違いない。少女がいつもより元気な彼らに生ぬるいまなざしを注いでいると、端の方から彼女を呼ばわる声がした。
「フェライ、こっちだ、こっち」
入口にほど近く、それでいて人目に付きにくい端の席。そこで、一組の男女が手を振っていた。見慣れた顔ぶれにフェライの表情も華やぐ。彼女は小動物のように二人の方へ駆け寄った。
「ルステム、チャウラ!」
「お疲れ様、フェーちゃん。とりあえず
フェライより二つか三つほど年上に見える娘が、彼女の方に湯気の立つ器を差し出す。そこで、誰もいないところに料理の載った皿が置かれているのを見つけ、フェライは目を丸くした。
「わざわざ確保してくれたの? ありがとう、チャウラ」
「どういたしましてー。確保しとかないと、大食らいの狼どもに先越されて、フェーちゃんのぶんがなくなっちゃいそうだったからねえ」
「……大食らいで悪かったな」
華やかな空気の中に、苦笑まじりの声が落とされる。もう一人の騎士、ルステムが、頬をひきつらせていた。しかしチャウラは露ほども動じず、得意気に胸を張っている。いつもどおりの光景だった。くすりと笑ったフェライは席につき、短く精霊への祈りを捧げると、とりあえず
「どうかした?」
騎士の若者は、少し恥ずかしそうに顔をそむける。
「ああいや、なんかいつものフェライだなって安心した。ほら、今日もいろんなところに駆り出されて大変そうだったからさ」
「そうだね。フェーちゃんは、毎日治療、治療で大変だものね」
二人の言葉は優しくて、そしてどこかしみじみとしていた。フェライは小さくうなずいて、もう一個レンズ豆を口に運ぶ。
彼女が剣をにぎらせてもらえない最大の理由。つまり、傷を癒す力。それは、神聖騎士団にとって非常に便利なものだった。フェライは戦いの技術をみがけないかわりに、騎士団員の治療に東奔西走していたのである。これもまた、いつものことだった。
「ううむ。ルス以外の男どもはフェーちゃんのこと、薬箱かなにかと勘違いしてるんじゃないかなあ。おかしいよね、聖女様だって同じ力が使えるのに」
「だからこそ、じゃないのか。治癒の力は便利だが、聖教に聖女は二人もいらない。だからフェライはあくまでも騎士団の一員として仕事させる、っていう感じで」
「そんなの勝手すぎるよ。ねえ?」
チャウラが、
いわゆる薬箱扱いに思うところがないわけではない。それでも自分が聖女様のように大切にされて、逆に騎士団の足手まといになるくらいなら、なんらかの形で役に立てている方がましだろう。――複雑な感情を、彼女は口に出しはしなかった。
「治療が大変って言っても、こうしてご飯は食べられるし、休みももらえるから大丈夫よ。今日は朝が大変だった分、昼からはひまだしね」
「そっかあ」チャウラは納得していなさそうな顔で呟いたが、すぐに無邪気な笑みを浮かべた。
「どうするの? 町に下りるの?」
「それも考えたけど。巡回がてらこの本部のまわりを散歩しようと思うわ」
「ふうん、まじめだね、フェーちゃん」
大人しく食事をするフェライの向かいで、チャウラが元気よくピデ(円形の薄焼きパン)にかじりつく。
「西の中庭には行かない方がいいよ。幽霊がいるって噂だから」
フェライは目をみはった。一方、ルステムは、またか、と言いたげに目を細める。
「祭司見習いのくだらない噂だろ。おおかた、巡回中の騎士たちをそれと見間違えたんだ」
「違うよ。あそこのまわりの、閉鎖された古い建物の中に、夜になると人影が現れるっていうんだよ」
「それこそ騎士が手入れか見回りのために入ってるんだろう。そもそも、人は死んだら魂の庭園に還って、精霊となるか、浄化された新たな魂として新しい肉体に宿るんだ。幽霊なんぞにはなりっこない」
聖教の教えをすらすらと語る青年の声に、しかし熱っぽさはなく、冷静そのものだ。チャウラもその冷静さに勢いを削がれたのだろうか。「それでも怖いものは怖いでしょ」と返す声は、大人しい。
フェライは二人のやり取りを黙って見守っていた。
この状況で言えるわけがない。
本当は、その西の中庭に行くつもりなのだ――などとは。
小さな中庭には、かわいらしい草花が、ぽつり、ぽつりと咲いている。それ以外の華はない、静かな
乾いた風がそよぎ、草を揺らす。その風を木の棒が鋭く切り裂く。何度も、何度も。
フェライは一人、庭のまんなかで、木剣を振っていた。入団したばかりの頃に教わった基本の型を繰り返す。身にしみこませるように、記憶に刻みつけるように。
息を、吸って、吐く。静かに足を踏み出す。そしてまた、剣が躍った。
何度か基本動作を繰り返したあと、彼女はようやく木剣を下ろした。短く息を吐く。
フェライは、時間が空くたびに、この中庭にやってくる。木剣を抱えて。そして、ひとけのないこの庭でひとり、鍛錬をするのだ。団長にも、ルステムにも、チャウラにも言っていない。彼女だけの秘密の時間だった。
そうでなければならない。剣をにぎっていることを、知られてはいけない。どうしたって彼女は、『騎士団の聖女』でしかないのだから。
ため息がこぼれ落ちそうになるのをこらえ、フェライはそばに畳んでいた長衣を拾い上げる。それからふと、同僚の言葉を思い出してあたりを見回した。
「幽霊がいるんだっけ?」
冗談めかして呟いて、中庭の端を歩きだす。小さな空間を取り囲む石造りの建物を、ひとつひとつ、のぞきこんでみる。石の
ルステム同様、フェライも幽霊の存在については本気にしていない。死者の魂は、魂の庭園に還るのだ。どんな未練を抱いていても、現世に残り続けることはあり得ない。
もし、この庭に、「人影」があるのだとしたら。
それは、きっと――
「……え?」
フェライは、小さく息をのんだ。足を止め、顔を上げる。目の前の建物は、この中庭を囲む灰色の建物群の中でもっとも高い。大昔に閉鎖された、罪人を閉じ込めておくための監獄塔だ。
顔を戻す。彼女がのぞき見たのは、監獄塔の最下層。
今はもう、誰もいないはずのそこに、人の影が
少女の翠色の瞳が、見たことのない色を映しだした。
夜明け前の空のような、蒼紫色。ふしぎな色の瞳を持つ、その人は、驚いた顔でフェライを見つめてきた。
フェライの唇がわなないた。
「こんなところに、人が……」
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