第3話 剣と感傷

 メルトは、暗がりの中で身じろぎした。気だるさが身にまとわりついている。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

 牢の中を見回してみた。変わったところは、まったくない。けれど、ほんのかすか、人の温度の名残を感じる。また、巫覡シャマンたちが様子を見にきたのだろう。彼は朦朧とした頭で考えた。その思考は、ひどく冷たい。

 長い間繰り返してきた、およそ人とは思えぬ日々。常人であれば気の狂いそうな時間に、青年は馴染み、己の運命を受け入れていた。その日々にわずかな変化が生じたのは、つい昨日のことである。

「フェライ、か」

 噛みしめるように呟いて、メルトはほほ笑んだ。

 さして珍しくもない名だ。けれど、ふしぎなぬくもりと力を持っている気がする。

 また来ると言って屈託なくほほ笑んだ少女。

 あの言葉と笑顔が、どこまで本気なのかはわからない。期待しないで待っているつもりであった。

 そうして、彼がまた暗がりに身を沈めたとき。鉄格子のむこう、淡い陽光の満ちる方から、足音が聞こえた。



     ※



「また来ました!」

 石と鉄のにおいがする窓をのぞきこみ、フェライは笑顔で挨拶する。

 鉄格子越しにまみえた青年は、美貌にわずかな驚きをにじませていた。そして、そのままものも言わない。自信満々の挨拶に沈黙を返されたフェライは、だんだんと不安になり、思わず頭を傾けてしまった。

「あの、メルト? どうしました? あ、もしかして具合が悪いのですか?」

「……いや」青年は軽くかぶりを振り、それから右手で目元を覆う。

「確かに、また来る、とは言われたが。昨日の今日で来るとは思わなかった」

「え? ああ。もともと、ここで剣の型の練習をするのが日課なので。ほぼ毎日来ますよ」

「それは知っている。わざわざここに顔を見せにくるとは思わなかった、と言っているんだ」

 フェライはまた首をかしげた。彼女の日課が知られていることは、ふしぎには思わない。ずっとここにいるのなら、中庭をながめるくらいしかすることもないだろう。だとすれば自然、フェライのことも目に入っていたはずだ。もうひとつの言葉が、なんとなく頭にひっかかった。

「私が来ては迷惑でしょうか」

「いや、そうではなく……まあ、いいか」

「んん?」

 釈然としない。釈然としないが、それはお互い様らしい。

 しかたなくフェライは、強引に話を切り上げて、その場で法衣を脱いだ。質素な貫頭衣の裾がふわりと舞って、再び足に吸いついた。フェライはにっと笑って、木剣を構える。

「では、今日も始めます!」

「やけに近いな」

「近い方がメルトも見ごたえがあると思いまして!」

「俺のことは気にしなくて構わんぞ」

「私が気にしたいんです」

「……どういうことだ」

 青年はうめいたが、それきり壁にもたれかかって、追及はしてこなかった。フェライは自分の中で気合を入れると、足を広げて下草を踏みしめる。かつて教えられたことと、仲間たちの訓練の様子を思いかえしながら、かりそめの剣を振る。


 小さな庭は、しばし静寂に包まれた。鋭く静かな呼吸の音だけが、時折響いては、消えて、また響く。


 メルトは、フェライが振る剣を静かに見つめていた。その間、押し黙っていた。が、彼女が動きを止めると、やおら口を開いた。

「踏み込む時に足がりきんでいる。少し広げすぎだな」

 ささやくような声はしかし、静寂の中によく響く。フェライが思わず監獄塔の方を振り返ると、メルトは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「すまない。差し出たことを言った。忘れてくれ」

 フェライは、慌てて首を振る。

「いえ。……あの、メルトも剣の経験がおありですか」

「多少な」

「でしたら、そういうこと、どんどん教えてください。私、人に教えてもらえることがないので」

 フェライは笑った。

 彼女ひとりでこうして剣を振ることはできるが、そうすると、ささいな癖や違和に気づきにくい。今までは教えを乞う相手もいなかったのだ。口出しでもなんでも、してもらえるだけ、嬉しかった。だが、笑顔を向けられた青年の瞳には困惑の色が浮かんでいる。

「教えてもらえることがないって……おまえは騎士だろう。頼めば教えてくれる武芸の達人など、いくらでもいるだろうに」

 フェライは軽く目をみはった。それから相好をくずした。塗装がはがれおちるに似た、空虚な笑みが浮かぶが、彼女自身は気づかない。

「そういえば、まだ話していませんでしたね」

 木剣を下ろす。そしてまた、鉄格子のむこう側の相手と向きあった。

「私、騎士だけど騎士じゃないんです。騎士団にいるけれど、剣を振るうことができないんです」

 メルトは表情を変えない。それでも、いぶかっていることは、伝わった。

「私は、『騎士団の聖女』だから。聖女様と同じ、治癒の力が、使えるから。だから、戦うことよりその力をみがくことを考えろと言われてしまって。それから、剣を持たせてもらえないんです」


 その日のことは簡単に思いだせる。

 最初から、あの力があるとわかっていたわけでは、なかった。入団してから三月後だっただろうか。突然、その力が使えるようになってしまった。それ以降フェライは、訓練に立ちあうことはできても、騎士たちの中に混じることは、できなくなってしまった。

 最初は納得がいかなかった。団長に突っかかったことさえあった。けれど、それでも騎士団は、彼女が騎士であることを許さなかった。ただ、その肩書きを奪うことだけはしなかった。騎士団にとどめ置くためだろう。

 だからフェライは、騎士であって騎士ではない。誰が言い出したかは知らないが、薬箱、とは、うまく言ったものだ。


「……申し訳ない。配慮が足りなかったな」

 静まった意識の中に、少し沈んだ声が割って入る。フェライは目を開けた。いつの間にか瞑目していたと、そのときになって気づいた。そして、暗がりの中の青年に笑いかけた。

「大丈夫です。もう、ずいぶん前から今のような状況なので、慣れました」

 明るく言ったつもりだったが、蒼紫色の瞳は晴れなかった。だが、話題をそらすつもりだろう。少しして彼は、まじめな顔で問うてきた。

「今の聖女は、治癒のわざが使えるのか」

 その問いに、フェライはかすかな違和感を抱く。けれど、力のこもった瞳に見つめられ続けると、なんとなくうなずいてしまっていた。

「はい。現在の聖女、ギュライ様は怪我や病気を治療することに長けておいでです。力ももちろんですが、薬や医療の知識も豊富だそうですよ。騎士見習いの私にしてみれば、雲上人ですから、直接お会いしたことはありませんが」

「そうか」メルトはうなずく。その表情はやけに険しい。なにかひっかかることでもあっただろうか。フェライは首をひねったが、またはぐらかされてもそれはそれで気になってしまうので、あえて深くは尋ねないことにした。


 おろしていた木剣を再び構えて、立つ。少し前の青年の言葉を思い出した。彼も、今度は、監獄塔の中から真剣なまなざしを注いでいる。

「こ、こんな感じでしょうか」

「力むな力むな。今度は腰が下がっているぞ。まずはいつもどおりに立ってみろ。そこから少しずつ直していけばいい」

「はい! よろしくお願いします、師匠!」

「師匠になった覚えはない」

 いつもよりも騒がしく、剣の稽古は続く。メルトに時折注意をもらいながら、フェライはいつもの基本動作を二、三度繰り返した。ふだんの倍は疲れてしまったが、そのぶん、少しだけ上達したような気がする。木剣を地面に下ろした彼女は、にじんだ汗を拳でぬぐった。

「ありがとうございました」

 青年に向かって頭を下げる。彼は、なにも言わなかったが、軽く手を振った。

「メルトは教えるのがお上手ですね」

「そうか?」という彼に力強くうなずくと、彼は口の端をほんの少し持ちあげた。

「……前に、従弟いとこに武術を教えていたことがあってな。案外それを覚えていたのかもしれん」

「そうなのですか」

 うなずいてからフェライは、反射的に、「従弟殿は今どうしていらっしゃるのですか」と訊きそうになり、慌てて口を閉ざした。なんとなく訊いてはいけないような気がしたから。それに、こんな場所にいるのでは、家族の現在のことなど知りようがないだろう。

 遠くが騒がしくなる。フェライは慌てて法衣と木剣を拾い上げた。

「ああ、そろそろ戻らないと。ではメルト、また来ますね」

「……ああ」メルトは、今度はふしぎそうな顔をしなかった。その代わり、まっすぐに少女を見上げてきた。

「フェライ」

「はい?」

「治癒の力は特別なものではない。巫覡シャマンの力の一種に過ぎん」

 フェライは目を瞬いた。いきなり何を言い出すのかと思ったが、疑問をさしはさむ余地もなく、青年の言葉は続く。

「聖女も、あくまで聖教における巫覡シャマンの代表者というだけだ。同じ力を持つ者はほかにもいるだろう。素質をもつ者を含めたら、おまえもその集団のうちの一人でしかない」

 息を吸う音がして。瞳が、優しくなった。

「だから、特別だと思いこむな。それを理由に、あきらめるな。誰が何を言おうと、おまえはおまえの思いを持っていればいい」

 フェライは呆然としてしまった。

 驚愕が過ぎ去ると、喉が震えた。目がしらが熱くなる。どんな言葉を返そうか迷って、けれど結局言葉は出ない。

 だから、笑った。いつものように。

 深く頭を下げてから、今日も翠の庭を去る。いつもは薄暗い帰り道が、今日はほんの少し明るいような気がした。

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