混沌

第59話

 コンコン


 満の部屋のドアがノックされ、ベッドに寝転がっていた満が「はーい」と返事を返すと、ドアが開き満の母親が顔を覗かせた。


「大丈夫?」

 それは今日、凄惨な事故現場を目撃してしまった満への気遣いの言葉であった。満が「うん」と一言返すと、母親は心配そうな表情を浮かべながら「一緒に寝てもいいんだよ」と言ってきたが、満はそれを断った。


 下階へ降りて行く母親の足音を聞きながら、満は天井を見上げてここ数時間であった事を思い返す。


 今から約六時間前、時間にして夕方五時前頃、満は楠原が階段から落ちた現場を目撃した。

 その後満は冷静に職員室へと走り、楠原が階段から落ちて倒れているという事を教員に告げ、現場へと誘導した。その時、倒れている楠原の元に駆け付けた教員達が、明らかに救急車が必要な状況にも関わらず、保健室に運ぶか救急車を呼ぶかで議論していたのが満にとっては衝撃的であった。


 結局、常識的な教員の一喝によって学校には救急車が呼ばれ、楠原は救急隊員によって担架で運ばれていった。その後楠原がどうなったか満は知らないが、もし死亡していれば今夜中に連絡網が回ってくるはずであろう。もしかすれば今頃楠原は生死の境を彷徨っているのかもしれない。


 それから満は保健室へと連れて行かれ、生活指導の教員から尋問のようなものを受けた。楠原が階段から落ちたのはなぜか、楠原は足を滑らせて落ちたのか、誰かが突き落としたのではないか、満が突き落としたのではないか、突き落とした人物を見たか等、強張った表情で満に次々と質問を投げかけてくる教員に、満は楠原が落ちてきた瞬間しか見ていないと話した。

 満の話を聞いた教員は一度職員室へと戻り、数十分も満を待たせた後に戻ってきて、「楠原は足を滑らせて階段から落ちたんだろう。咲洲君が見た事は他の人にもショックな事だろうから、親御さん以外には話さない方がいい。いいね?」と、なぜか強く念を押した。


 その後、すっかり暗くなった学校に、学校から連絡を受けた満の母親が迎えに来て、満はようやく解放された。満の母親は事故現場を見た満がショックを受けていないか心配しており、満の手を握り何度も「大丈夫?」と問いかけてきた。

 帰り際に、母親は何人かの教員と話をしていたが、その中には里中の姿もあった。里中は満の母親の手前だからか、よく作られた外面で、「咲洲君、辛かったら少し学校休んでも大丈夫だからね」と優しい声で言ってきたが、満は相変わらず里中が何を考えているのか分からず、ただ「大丈夫です」としか言えなかった。

 それから満は母親の車で家に帰り、風呂や夕飯を済ませて今に至る。


 満は教員達にも母親にも嘘はついていないが、言っていない事が一つあった。


 それは足音についてだ。

 楠原が階段から落ちた時、満は何が起こったのか分からずに数秒間立ち尽くしていた。その時だ。


 タッタッタッタッ……


 上の階から足音が聞こえ、満はハッとしてそちらを見た。しかしその時には既に、階段の上には誰の姿も無かった。

 なぜ満がその事を黙っていたのか、それは満にもうまく説明できない。混乱のせいで足音について忘れていたわけでもないのだが、なぜかそれについて言う事が憚られたのだ。

 満は寝転がりながら自らの心理を冷静に分析する。そして一つの結論に至った。


 満は恐れていたのだ。


 もし足音の主が楠原を階段から落とした犯人だとして、満が足音の事を誰かに話したとしよう。そしたら犯人は次は満を狙うかもしれない。満は本能的にそれが怖かったのだ。

 自分が誰かに狙われ、楠原のような目に遭うかもしれない。そう思うと、満は今にも窓から犯人が入ってくるのではないかと想像してしまい、急に怖くなってきた。

 足音の事を言わなかったとはいえ、犯人が満の顔を見ており、その犯人が満が自分の顔を目撃していると誤解していたらどうであろう。犯人は満の口を封じようとするであろうか。

 考えれば考えるほど怖さというものは膨れ上がる。

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