第44話

 朝の会が始まる時間となり、始業のチャイムが校内に鳴り響く。すると、教室のドアを開いて現れたのは里中ではなく教頭であった。

 教頭は騒つく生徒達を静かにさせると、里中は急病により今日は休みである事を皆に告げる。それにより教室内は再び騒ついた。


 満は里中の休みは昨日の事と関係があるのではないかと考えたが、里中があれくらいの事を気に病んで学校を休むほどヤワな人間だとは思えなかった。本当に夏風邪でも引いたか、あるいは学校を休んで何か満達に対する作戦でも考えているのかもしれないが、それは満の知りようのない事である。


 そして、その日は丸一日、代理の先生が授業を行うという事となった。


 里中という支配者のいない教室の時間は、一時間目、二時間目と平和に過ぎていったが、二時間目と三時間目の間にある二十分休みの時である。楠原達が動いた。

 楠原達は、教室の隅に固まって何やらヒソヒソ話をしていた大島達に歩み寄る。大島達の中には市原もいた。


 自分の席で本を読んでいた満が楠原達の動きに気付き西之原の方を見ると、西之原も複雑そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。


 楠原は昨日と同じように大島の足を爪先で軽く蹴ると、教室中に聞こえるような声で言う。


「ねぇ大島、ババ生はあんた達見捨てて逃げたみたいだけどどうすんの?」


 そしてまた大島の足を軽く蹴った。

 大島は楠原を恨めしげな目で睨み付ける。


「……私達だって、好きであいつに従ってたわけじゃないから」

「へぇー。そんな事言っていいの? もう里中に守って貰えなくなるよ。言っとくけど、私達あんた達を許すつもりないから」

「別にあんたに許して欲しいなんて思ってないけど」


 それを聞いた楠原は、「みんな聞いた?」と言わんばかりに背後を振り返り、肩をすくめる。


「あのさ、私達前からあんたの優等生ぶってるとこムカついてたんだよね。先生達に媚び売って自分の評価上げようとしててさ」

「別に私はあんたみたいに頭悪そうな奴に好かれようと思ってないから。ていうか何が言いたいわけ? バカだから回りくどい言い方しかできないの?」


 パァン


 楠原の平手打ちが大島の頬に飛び、鋭い音が教室内に響いた。更に楠原は、よろめいた大島の髪を掴み、壁際に押し付ける。


「お前さ、調子乗んなよ。お前らのせいで私達がどれだけ迷惑したかわかってるわけ?」

「痛い! 放してよ!」

 大島は必死に抵抗するが、小柄で細身の大島では長身で手の長い楠原にはリーチでも力でも敵わない。ただされるがままに頭を振り回されるだけである。

 それを見て楠原の取り巻き達はニヤニヤと笑い、犬達も大島を助けようとはしなかった。その他の生徒達も、ただ二人を見ているだけだ。中には面白がって野次馬のように近くで見物する者もいた。大島達に恨みがあるのは楠原達だけではないのだ。


 西之原と矢上は、これ以上楠原が暴力を振るうようであればすぐにでも止めようと身構えているようではあったが、楠原が二人の制止を大人しく聞くとは思えないし、下手をすれば楠原達を敵に回してしまう。満達にとってそれは非常に難しい局面であった。


 しばらく大島の頭を振り回した楠原が大島の髪から手を放すと、大島は頭皮の痛みでその場にしゃがみ込む。そんな大島を見下ろしながら楠原は指に絡みついた大島の髪を払いつつ言った。


「ババ先てさぁ、怒鳴るとめっちゃ唾飛ばすよね」


 そしておもむろに大島に向かって唾を吐きかける。楠原の唾液は大島の頭にかかり、大島は小さく悲鳴をあげた。


「男子とかさぁ、よくこいつらのせいでババ先に怒鳴られてたじゃん。唾かぶった分こいつに仕返ししてやったら?」

 楠原は大島がやられる様を面白そうに見ていた男子達に声を掛ける。すると男子達は「うわぁ、楠原汚ねぇ」と言いつつも、ニヤニヤと笑いながら大島達を取り囲んだ。


「おい! 待てよお前ら!」

 流石に見兼ねた西之原が席を立ち止めに入ろうとしたが、西之原の前に楠原の取り巻きの一人である西田という女子が立ち塞がる。


「邪魔しないでよぉ、西之原くぅん」

 西田はふざけた様子で西之原の腕にしがみつき、腕に胸を押し付ける。


「に、西田! 離れろよ!」

 純朴な西之原はそれだけで顔を赤くして動けなくなった。矢上も楠原達を止めようとしていたが、楠原の取り巻き達に邪魔をされていた。


 大島達を取り囲んだ男子達は初めは戸惑っていたものの、やがて大島達に向かって次々と唾を吐きかけ始める。大島達は悲鳴をあげて逃げようとするが、取り囲んだ者たちが逃げようとする者を囲いの中心へと次々と押し返した。

 そして楠原は冷たい表情で、その様子をスマホのカメラで撮影していた。

 楠原達がやっている事に肉体的な「痛み」は伴わないが、満にはそれが里中以上に残酷な、まるで悪魔の所業のように見えた。


 唾液にまみれた大島達は、やがて唾液を拭うために泣きながら教室を出て行った。


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