32:そうして二人は幸せに暮らしましたとさ

 文化祭の前日、十月四日。午後八時半過ぎ。

 私は拓馬の部屋に招待され、テーブルを囲んでいた。


 部屋の調度は落ち着いた色合いのものが多く、白・茶・黒が基本の三色。

 机の上にはノートパソコンがあり、その脇に小さなスピーカーやその他機械類がまとめて置いてある。


 でも、リビングに入ってまず驚くのは本棚の多さだろう。

 どの本棚にもびっしり本が詰まっていて、入り切らない本が上部に重ねられていた。

 拓馬曰く「電子書籍は便利だけど本は手に持って読みたい派」だそうだ。


「……どう?」

 私がカレーライスを一口食べると、拓馬が心持ち頭を下げ、不安げに尋ねてきた。


 正直に言う。決して美味しくはない。

 水を入れ過ぎたのか、ご飯はべちゃべちゃ。

 ルーは水っぽいし、野菜の大きさも不揃いで、大きめにカットされた人参は完全に火が通ってない。私の口腔内で『私は生です』って激しく自己主張している。

 一方で玉ねぎは黒焦げになっている箇所がある。


 でもそれらがなんだというのか。

 料理下手な拓馬が私のために作ってくれた――それだけでこのカレーライスはどんな店も敵わない至高のカレーライスなのだ。


「美味しい」

 固い人参の塊を噛み砕き、飲み込んで、笑顔を作る。


「嘘つかなくていいのに。どう考えてもまずいよこれ」

 拓馬は苦笑し、スプーンでカレールーをつついた。


「でも一応食べられないこともない出来栄えだったからさ。一番最初にお前に食べさせたかったんだ」

「うん。嬉しい。ありがとう」

 再びスプーンを入れて、口に運ぶ。


「無理して食べなくていいよ?」

「ううん。せっかく拓馬が作ってくれたんだもの。たとえお腹を壊してでも完食するよ」

「いや、お腹壊したらダメだろ。明日文化祭だぞ。お前と一緒に見て回るの楽しみにしてるのに」

「……へへ」

 ストレートな愛情表現が嬉しくて、ついにやけてしまう。


「そうだね。じゃあ食べたら胃薬飲んでおくよ。私、身体は丈夫なほうだし、多少野菜が生でも平気平気。拓馬の初の手作りカレーライスを食べ残すほうが大問題だもの」

 にこにこしながら、カレーを食べ続ける。


 なんだか「じゃりっ」て音がしたけれど、気にしない。

 現在まで進化した胃薬の力を信じよう。


「やっぱりお前の作ったカレーには敵わねえんだよな。分量もきっちり図ってるのに、なんでだろうな?」

「そりゃあ愛が籠ってるからねー」

「……それだったらおれの料理だって美味しくならないとおかしいんだけど」

 カレーを見下ろして不満げな顔をする拓馬を見て、私は内心、喜びに悶えていた。


 ああ、幸せだなあ。

 悪夢の一週間が遥か遠い出来事のようだ。


 幸せを噛み締めていると、視界の端――テーブルの上に、何の前触れもなく、白いハムスターが現れた。

 大福は右手につまようじを持っていた。

 多分、私の家の台所から持参したのだろう。


半生はんなまだな」

 つまようじを人参に突き刺し、口へ運んで咀嚼して、大福はそう批評した。


「ルーも水っぽいし。12点」

「……おいネズミ。勝手に人の家に入ってきといて何偉そうに採点してんだ。そのヒゲ引っ張るぞ」

「ネズミじゃない、ハムスターだ!」

 拓馬にジト目で睨まれて、大福はかっと口を開けた。

 大福はネズミ呼ばわりされるのを嫌がる。

 ジャンガリアンハムスターも立派なネズミの一種なんだけど。


「そもそも食卓に乗るなよ。行儀が悪い……って、ネズミには人間の行儀なんて通用しないか」

「だからネズミって呼ぶな! オイラだって好きでネズミじゃないんだぞ!」

 つまようじを振って怒りながらも、拓馬の意見を聞き入れて、大福はカーペットの上にワープした。


「オイラだって本当はリスが良かった」

 私に背を向け、大福は不平を漏らした。


「そうなの?」

「……だってお前、目を輝かせて可愛いって連呼してたじゃないか。オイラは悠理からあんなに可愛いって言ってもらったことないぞ」

 胸がきゅんとなった。やばい、何この子可愛い。


「もういい。帰る」

 大福の姿が消え、拓馬が怪訝そうに呟く。


「……何の用だったんだ、あいつ」

「多分、一人で寂しかったんじゃないかな」

 家に帰ったら、撫で回して可愛いと褒め称えることにしよう。


 大福は大切な私の家族だし、彼がいなければ、いまこうして拓馬と共にいられることもなかったのだから。





 文化祭当日。

 午後二時半を過ぎ、広い講堂では白雪姫の上演が行われていた。


 客席には陸先輩や有栖先輩の姿もある。

 由香ちゃんも乃亜も椅子に座って舞台を見上げている。


 私も由香ちゃんの隣に座り、ゆっくり劇を鑑賞しているはず……だったんだけれど。


「そんなこと言わずにさ。一口だけ。どうか、一口だけ」

「わかりました、では、一口だけ……」

 なんと私はドレスを着て、舞台の中央で白雪姫を演じていた。

 こうなったのは舞台に上がる直前、吉住さんが突発的な腹痛を訴えたからである。


 動揺を見せたのは王子役の拓馬だけで、他の演劇班の皆はさも白々しく「あらあら大変」と騒ぎ、代役として私を指名した。


 白雪姫の台詞は覚えていた。

 というのも、事前に吉住さんから「もし万が一私に何かあったときのために白雪姫の台詞を暗記しておけ」と言われていたのだ。


 全ての衣装が完成した後は毎日遠し稽古を見守って来たし、一度は用事があるからといって先に帰ってしまった吉住さんに代わって白雪姫を演じたこともある。

 だから私が演じることに問題はない。


 しかし、何故吉住さんは私に白雪姫役を譲ったのか。

 愛する拓馬の相手役をあれほど切望し、ジャンケンに勝ち抜いたときは大喜びしていたのに。


 皆の反応を見る限り事前に根回ししていたとしか思えず、私は更衣室で吉住さんに「なんでこんなことを?」と尋ねた。


 すると吉住さんは「私はあんたが嫌いよ」と前置きしてから答えた。

「でも、あんたは夏休み、しつこいナンパ男から私を助けた。私はあれだけあんたを虐めたのに、それでも私を助けてくれた。あんなこと私にはできない。それに何より、黒瀬くんはあんたといるときが一番いい顔をする。悔しいけど認めるしかない。黒瀬くんに相応しいのはあんただ。あんたが白雪姫を演じることに反対する人は誰もいなかった」と、不貞腐れた顔で言って、脱いだ衣装を私に押しつけた。


「あーん……」

 王妃兼魔女役の江口さんからリンゴを受け取り、一口齧ったふりをして、私はばたんと倒れた。


 受け身も取らない、見事な転倒っぷりに客席からどよめきが上がる。

 私は吉住さんにこの役を託されたのだ。完璧に演じ切ってみせる。


 実を言えば凄く痛かった。側頭部にたんこぶができてないか心配だ。


「きーっひっひ、まんまと騙されたわね、愚かだこと! ざまあみなさい白雪姫! これで私がこの国で一番美しい女よ!」

 高笑いしながら、江口さんは軽やかにスキップして去っていく。


 そしてナレーションが入り、幸太くんを始めとした七人の小人たちが白雪姫を取り囲み、その死を嘆いていたときに偶然隣国の王子様――拓馬が森を通りがかる。


「どうして泣いているんだ小人たち。おや、これはなんと美しい姫だ! 私はこれほど美しい姫を見たことがない!」

 拓馬はどんな顔をして台詞を言っているのだろうか。

 目を開けてその姿を見たい。


 段ボールで作った棺の中で眠っている白雪姫ではなく、観客の一人として、客席から王子様コスプレをした拓馬を思う存分眺めて目に焼き付けたい! と、恋心が叫んでいる。


 目を開けたい欲求と役になり切るべきだという自制心が激しくぶつかり合い、私の瞼は痙攣した。


「姫は毒りんごを食べて眠ってしまったのです。どうか王子様のキスで目覚めさせていただけませんか」

「そうか、わかった」

 拓馬が膝をつく気配がする。


 ついに来た!

 私の心臓は爆発しそうなほどに激しく収縮を繰り返した。


 フリだとはわかっているけれど。わかっているけれど!!


 身を固くし、拓馬の顔が近づくのを待っていたときだった。


 突然、唇が塞がれた。

 唇と唇がしっかり合わさっている。


「!!?」

 驚愕して目を剥くと、視界いっぱいに拓馬の驚き顔が広がっていた。

 拓馬は凄い勢いで起き上がった。さながら、ばね仕掛けの人形が跳ね上がるような動きだった。


 唖然としていると、視界の端に幸太くんのニヤニヤ顔が映った。

 その表情で全てを悟る。

 幸太くん、拓馬の身体を押したな!?


「おま――」


 耳まで真っ赤になった拓馬が抗議しようとした瞬間、

「やったぞみんな、王子様の熱烈なキスで姫が目を覚ました!」

 幸太くんはさらなる声量で拓馬の抗議を掻き消した。

 ガッツポーズまでして、全身で感激を表している。


「おお、そうか、熱烈なキスのおかげだな!」

「偽りではなく、本物の愛が込められていたからね!」

「そうだ、愛の勝利だ!」

 七人の小人たちは笑顔で拍手し、飛び跳ね、大騒ぎ。


「…………」

 その様子を見ながら、私はひたすら呆然。

 キスを受けて目を開けたら、次は白雪姫の台詞だったはずなのに、衝撃で全てが飛び、何も出てこない。


「姫、まだ寝ぼけておられるのですか、起きてください。彼があなたの眠りを覚ましてくれたのですよ! ご挨拶とお礼を言うべきです!」

 幸太くんが呆けている私の手を引っ張り、立たせてくれた。


「お、おは……おはようございます……?」

 拓馬と向かい合って立ち、引き攣った笑顔でどうにか挨拶する。

 頬は熱いし、心臓はうるさいし、頭の中はパレードだ。

 ファーストキスを舞台の上で行う羽目になるとは夢にも思わなかった。


「………無事に目覚められたようで、何よりです……姫」

 拓馬は硬く拳を握り締め、同じく引き攣った笑顔で言った。


 幸太くんを一瞥し、後で覚えてろよ、と非難の眼差しで告げてから、拓馬は表情を改め、跪いた。


「私は隣国の王子です。美しいあなたに一目惚れしました。どうか私の妻となっていただきたい」

「ええ、あなたは私を眠りから覚ましてくれた恩人ですもの。喜んで!」

 胸中に渦巻く動揺を押し込め、笑顔で差し出された手を取る。


 たちまち、私たちを取り囲む小人たちが口々におめでとうと言い、拍手をした。


 客席からも拍手が起こった。

 拓馬と手を繋いだまま、そちらを見る。


 由香ちゃんが笑って拍手している。

 由香ちゃんの隣で、拗ねたようにそっぽ向きながら、乃亜も控えめに拍手していた。


 離れた客席で、有栖先輩も陸先輩も拍手していた。

 有栖先輩は笑顔で、陸先輩はほんの少しだけ口元を緩めて。

 陸先輩の肩の上にはりっちゃんが乗っている。

 りっちゃんも一生懸命手を叩いていた。


「ありがとう! 隣国に行っても、みんなのことは忘れないわ! 本当にありがとう!」

「さようなら、白雪姫! どうかお元気で!」

「お幸せに!」

 小人たちに手を振られ、振り返しながら、私と拓馬は舞台袖に退場する。


 そうして二人は幸せに暮らしましたとさ、とナレーション係の子が言った。




《END.》

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モブに転生した私が幸せを掴むまで。 星名柚花 @yuzuriha

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