31:失格したヒロインの改心

 ◆   ◆


『カラフルラバーズ』の世界に転生したと気づいたのは小学二年生のときだった。

 校庭の鉄棒から落ちた衝撃で前世の記憶を思い出したあたしは、自分がヒロインである現実を飛び上がって喜び、神さまに深く感謝した。


 その日から毎日毎日神さまにお祈りした。

『どうか何事もなくあたしがヒロインになれますように』と。


 一年ほど経って、りっちゃんが現れた。

 りっちゃんはあたしの願いから生まれた神だと自己紹介し、あたしをヒロインにするために尽力してくれた。


 あたしにとてつもない『ヒロイン補正』をかけ、周りの人間からあたしへの敵意を消し去り、無条件で好印象を持つように認識を弄った。

 他人の頭上に好感度ゲージが表示されるようになったのも、りっちゃんがそうしてくれたから。まるで視界の一部がゲーム画面になったようで面白かった。


 それからのあたしはヒロインというよりも女王だった。

 頭上の好感度ゲージを見れば相手の好き嫌いがすぐに把握できるので、プラスの『好き』に傾くよう努力した。そうすれば自然と人が集まった。


 誰もあたしに逆らわず、望めば全てが思い通りになった。

 誰もがあたしを愛し、敬い、尊重してくれた。


 実に快適で平穏な日々の中、思うのは拓馬たちのことばかり。

 何しろ彼らは運命の相手。

 あたしの恋人であり、将来の旦那候補である。


 あたしはりっちゃんに拓馬たちを探させ、見つけ次第感情制限をかけさせた。

 万が一にもあたし以外の女子を好きになってもらっては困る。

 あたしこそが彼らのヒロインなのだから。


 りっちゃんの報告によれば拓馬たちは大層な美少年、『カラフルラバーズ』そのままの容姿みたいで、会うのが楽しみだった。


 ゲーム本編の筋書きを守るならば、彼らと初めて会うのは高校二年生。

 でもそんなに悠長に待てるわけもなく、中学を卒業し、親にある程度の自由を許される高校生になってから、あたしは一度だけ藤美野に行った。


 残念ながら拓馬たちには会えなかったけれど、その代わり、帰る途中の駅前で野々原悠理を見つけた。


 彼女があたしの目を引いたのは、その頭上に好感度ゲージが見えなかったからだ。こんなことは初めてだった。


 どういうことか尋ねると、りっちゃんは野々原悠理があたしと同じ転生者である可能性を指摘した。異界から来た人間だから、自分の力が通用しないかもしれない、と。


 対策として、りっちゃんはハムスターの下僕『シロ』を作り、彼女に張りつかせることにした。

 もし彼女が拓馬たちに何かしたら下僕が教えてくれる、だから放っといても大丈夫。そのはずだった。


 けれど、藤美野の夏祭りの日。

 拓馬たちと会えるかなと、胸をときめかせて祭りの会場に行ってみれば、あろうことか、拓馬は野々原悠理の手を引き、楽しげにデートしていた。


 しかも拓馬の彼女に対する好感度ゲージはほぼMAX、恋心を封じていなければ恋人になっていたことは確実だった。


 許せるわけがなかった。

 いくら転生者とはいえ、野々原悠理はただのモブだ。


『カラフルラバーズ』に野々原悠理なんて名前は出てこない。

 モブがヒロインの座を奪うなんてあってはならないことだ。


 あたしは親に頼み込んで転入を早め、二人の仲を引き裂いた。

 りっちゃんが一瞬で拓馬の好感度ゲージをマイナスの最低値まで落としたのを見て、それならばとあたしに対する他の攻略対象キャラ三人の好感度ゲージもプラスの最高値まで跳ね上げてもらった。


 問題はないはずだった。『カラフルラバーズ』にも逆ハーレムルートがある。

 イケメンを侍らせ、皆から羨ましがられるのはヒロインの特権で、来年入学して来る青海聖一もいずれあたしのものになるはずだった。


 それなのに、野々原悠理は反逆した。

 いや、元はといえばこの事態を招いたのはシロだ。


 あいつが拓馬の感情制限が外れたことを速やかにりっちゃんに報告しなかったからこんなことになった。二リットルのペットボトルにガムテープで巻きつけ、拘束する程度の罰では甘かった。甘すぎた。


 いくら後悔しても、もう遅い。

 りっちゃんはあたしの元を去った。

 好感度ゲージは見えなくなり、ヒロイン補正の全てが消えた。


 あたしは敗者として教室の隅に追いやられ、今日もクラスメイトからヒソヒソ言われている。


 最悪だ。あたしは玉座を追われた。

 これも全て野々原悠理のせいだ。モブのくせに。モブの分際で。


「一色さん。ちょっと話がしたいんだけど」

「……は?」

 月曜日の昼休憩。

 窓の外はあたしの心を反映したような曇り空。


 けれど、天気などお構いなしにクラスメイトたちは今日も流行りのドラマがどうだの、ソシャゲのガチャがどうだのと姦しい。


 その中でも、最も耳障りなのが隣で拓馬と話すこの女の声だというのに、何故話しかけてくるのか。


「……土下座して詫びろとでも言うわけ?」

 読んでいた本を閉じ、野々原悠理を睨む。

 この一週間はいないもの扱いしてきたくせに、いまさら何の用だというのか。


「違うよ。純粋に話がしたいの。ここじゃなんだから、付き合って」

 悠理はセミロングの髪を翻し、教室を横切った。


 無視したらこじれそうだ。

 拓馬も窓際の一番後ろの席に座ったまま、じっとあたしを見ている。


 渋々立ち上がり、あたしは悠理の後を追った。

 生徒たちとすれ違い、廊下を歩き、屋上へ上っていく。


「雨が降りそうだね」

 無人の屋上に出て、悠理は灰色の空を見上げてそんなことを言った。

 どうでもいい。胸中で舌打ちする。


「話って何なの」

「一色さんは拓馬のことが本当に好きだったの?」

 屋上の中央で、悠理は身体ごと振り返り、あたしを見た。


「好きだったらどうだっていうのよ。いま拓馬はあんたのものなんでしょ、だったらそれでいいじゃない」

「良くないよ。好きだったっていうならなおさら、私には全く理解できないの。私が拓馬に告白してフラれた後、拓馬は泣いてたんだよね? 好きな人が泣いてたのに気にしなかったの?」


「それはあんたがモブという立場もわきまえず、拓馬を誑かしたからでしょ? あの涙はあんたがいなければありえない涙だった。感情をリセットしてしまえばそれで済むと思ったのよ」

 悠理は目を伏せ、神妙な顔つきになった。


「……でもね、一色さん。私だったら、たとえ原因がなんであれ、拓馬が泣くようなことがあれば気に病むよ。どうにかしたいと思わずにはいられない。でもあのとき一色さんは拓馬の気持ちなんてまるで考えずに、これで拓馬が自分のものになるって喜んだんだよね。大福に聞いた」


「へえ。じゃああんたは自分がヒロインだったら同じことをしなかったと心から誓えるの? ぽっと出のモブに好きな人を奪われても、それが拓馬のためならって、笑って祝福できるのね。偉いわね、全く。尊敬するわ」


「笑って祝福……は、無理だな。もし拓馬が他の人と結ばれることがあったら、やっぱり悲しいし、泣いちゃうな。実際、物凄く泣いたし」

 悠理は苦笑して頭を掻いた。


「でしょう? だったら――」

「でも、それならなんで、拓馬の心を無理やり射止めただけで満足しなかったの? 他の三人の心まで操ったのはどういうこと?」


 あたしは半端に開けていた口を閉じた。言い訳のしようがない。

 畳み掛けるように、悠理が言う。


「『カラフルラバーズ』には逆ハーレムルートがあったよね? それを再現しようとしたんでしょう? つまり一色さんにとって拓馬は逆ハーレム要員の一人でしかなかったってことだよね?」

 湿った風に悠理の髪がそよいでいる。


「そうよ。あたしはヒロインだもの。逆ハーレムを目指したって罰は当たらないでしょう?」

 開き直ると、

「当たってるよね。思いっきり」

 憐れむような顔で論破された。


 ぐうの音も出ない。

 四股をかけたことであたしは皆の非難を浴び、孤立しているのだから。


「~~~~ああもう! わかったわよ! あたしが間違ってた、悪かったわよ! これでいいんでしょう!?」

「良くない」

 喚いてそっぽ向いた途端、ぐいっと胸倉を掴んで引き寄せられた。

 何だ、と問うより早く、左の頬に音と衝撃が走った。


「…………な」

 頬がじんじんする。

 その痛みで、引っ叩かれたと悟る。


「……信じらんないっ! モブのくせに! ヒロインに手を上げるなんて!?」

 頬を押さえて喚くと、悠理は不敵に笑った。


「残念。拓馬は私こそがヒロインだって言ってくれたもんね。だから一色さんは拓馬にとってはただのモブにしか過ぎないの。どう、モブ扱いされた気分は」

「……最悪っ! 何なのあんた!」


「何なのって、散々やられた仕返しだよ。でも仕返しはこの一発で十分。だって、一色さんの立場を思うと同情するもの。アパートも隣で教室も隣。私と拓馬が一緒にいたら嫌でも目に入る。もはや罰ゲームだよね。だから、これ以上のことはしない。あー、すっきりした」

 悠理は晴れやかな顔で伸びをした。


 何なんだこの女。拓馬はこんな女のどこが良いんだ。

 呆然としていると、悠理はさらに信じがたい行動に出た。


「すっきりしたところで、一色さん。私と友達にならない?」

 悠理はあたしに向かって右手を差し出した。


「…………はあ?」

「この先ずっと独りぼっちでいるのは辛いんじゃない? 由香ちゃんには許可を取ってるし、私のグループに入りなよ。四股かけてた事実はどうしようもないけど、真摯に反省する態度を取ってれば、皆もそのうちわかってくれるはずだよ」

「……同情のつもり?」

 手を下ろし、睨みつける。


「そう。同情してるの。上から目線で『友達になってあげよう』としてるの。嫌だって言うなら拒否していいよ? それなら私はこの手を引っ込める。もう二度と干渉したりしない。ずっと一人でいればいい。私に一色さんの面倒を見る義理はないもの」

「………………」

 わかっている。


 加害者に『友達になってあげる』と手を差し伸べることが、どれほど凄いことか。


 あたしにはとても無理だ。

 もしあたしが悠理の立場だったら、孤立したあたしを見て嘲笑する。


 同情なんて決してしない。

 いい気味だ、ざまあみろ。

 あたしが受けた苦しみを思い知れと――そんな負の感情に囚われる。


 けれど、悠理は一発のビンタで全てを精算しようとした。

 あたしがしたことを思えばビンタくらいじゃ気が済まないはずなのに、それでも清算する努力をしようとしている。


 有栖先輩から言われた言葉が蘇る。


 ――お前は野々原さんをモブと馬鹿にしてたようだけど、事実はまるで逆だよ。お前は大きな力を手に入れて図に乗った愚か者。モブよりよほど性質たちが悪い。とてもヒロインの器じゃない。


 虫けらを見るような、冷たい目で、有栖先輩は言った。


 ――哀れだね、一色乃亜。お前は野々原さんには敵わない。人間として遥かに格下だ。


「…………」

 鼻の奥がつんとなり、視界が滲み始めた。


 わかっている。もうとっくにわかっていた。

 何故拓馬が悠理を選んだのか。


 悠理は純粋に拓馬を愛した。渡されたレシピを見ただけでその深さが知れた。


 あたしには我欲しかなかった。

 ヒロインという立場やりっちゃんに甘えきって、好きな人を振り向かせる努力もしなかった。


 りっちゃんはただあたしに従っただけなのに、そのせいでりっちゃんが有栖先輩に暴行されたときも、保身のことしか頭になかった。

 りっちゃんが悲鳴を上げても、ただただ震えて、暴力の矛先が自分に向くことを恐れていた。


 もしもシロ――大福が暴行を受けたとしたら、悠理は身体を張って大福を守るだろう。


 有栖先輩の言う通りだ。

 あたしは悠理には敵わない。


「……ねえ、腕が疲れるんだけど。どうするの? 一色さんはどうしたいの?」


 命令でも強要でもない。

 悠理はあくまであたしの意思を聞いている。

 涙が零れ、あたしは手の甲で荒っぽく目を拭った。


「……手を取る前に。ケジメとして言わなきゃいけないことがあるわ」

「うん」

 悠理は頷いて、手を引っ込め、真顔であたしを見つめた。


「ごめんなさい」


 身体の前で手を重ね、深く頭を下げる。

 強い風が吹いて、髪が引っ張られ、横に流れた。


「……悪いけど、やっぱり許せない」

 悠理は冷静な口調でそう言った。当たり前だ。

 それでも、あたしはただ黙って頭を下げ続けた。


「でも、誠意を見せられた以上は、許す努力はするよ」

 ぽん、と後頭部を叩かれる。その感触は優しかった。


「さ、戻ろ。休憩時間終わっちゃうよ、乃亜」

 名前を呼ばれ、腕を引っ張られた。


「……うん」

 顔を上げて、悠理に手を引かれるまま歩く。


「あとね。私、変に淑やかぶってる乃亜より素のほうが好きだよ」

「……そ。じゃあ、もうヒロイン口調は止めるわ」

「もうヒロインじゃないしね」

 悠理は快活に笑った。


「そうそう、乃亜の称号を考えたんだけどさ。『当て馬ヒロイン』と『自爆系ヒロイン』とどっちがいい?」

「どっちも嫌」

「だよねえ」

 あたしの手を引っ張ったまま、悠理は笑う。意地が悪い。

 あたしは口をへの字に曲げてから、もう一度目元を拭った。


 悠理に謝ったんだから、他の攻略対象キャラにもきちんと謝ろう。

 いや、攻略対象キャラという言い方はもう止めよう。


 ここは『カラフルラバーズ』の世界なんかじゃなく、純然たる現実で、あたしはもうヒロインじゃないんだから。

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